最後

死体のように無表情だった顔が、わずかに歪んだ。途方もなくがっかりして、大きなため息をつく。死んでたらよかったのに。死んでたら、──これからどうするか、考えなくてよかったのに。

残念ながら、放っておけば生き延びそうな出血量だ。人間ならともかく、人魚はこの程度じゃ死なない。この子は今人間の脚を持ってるけど、鱗は人魚のままだし、どの程度頑丈なのかわからない。確実に死なせるには、私がとどめを刺すしかない。

細い首に指先を載せた。撫でるように滑らせ、手のひらで喉仏を押さえる。そのまま爪を長く鋭く伸ばした。切先が彼女の皮膚を突き、ぷつりと血の玉が生まれる。

ひく、と喉が震えた。私の喉じゃない。メアリの喉だった。


「ら、」


反射的に手の力を強めていた。手のひらで喉を圧迫し、深々と皮膚に爪を刺す。流れ出る血液が私の手を汚した。早く死ね。喋るな。お願いだから私の前で、


「ラムズ」


その名前を呼ばないで。

ぽたりとメアリの頰に雫が落ちた。透明なそれは彼女の青白い肌を伝い、私の指へと辿り着く。冷たかった。まるでラムズの体温のように。ぬかるんだ手の中から熱が消えていくのを感じながら、私は静かに息を吸った。




柔らかな布団に沈み込み、ぼんやりと天井を見上げていた。体に力が入らない。耳から流れ込む音声が、脳を裂いては流れ出ていく。


「メアリが無事でよかった。本当に心配したんだ」
「ちょっと、ラムズ……」


声がか細くなって消えた。カーテンの向こうで二人が何をしてるかなんて、考えたくもない。私がいない間に、ずいぶん仲良くなったんだね。舌でも打って邪魔してやりたかったけど、いつまで経っても体を動かせなかった。舌どころか瞼さえ。乾いたそこに、ぴりぴりと痛みが走る。


「ラムズ……どうして、私を見てるの?」
「メアリと話してるんだから当然だろ」
「でも、私より鱗の方が心配でしょ?」


ラムズが笑う音が聞こえた。しゃり、と何かが擦れる音もする。ラムズがメアリの髪を梳いたのだと、わかってしまうこの耳を潰したくなった。


「まだそんなこと言ってんの?いい加減、俺を信じてよ」
「でも……わからないわ。ラムズ、いつもは私に冷たいじゃない」
「それが俺なんだから仕方ないだろ。メアリは冷たい俺が嫌い?」


人の肌と肌が触れ合う音。外から聞こえる波の音でもかき消せない。メアリが浅く息を吸った。


「嫌いじゃ、ないわ。今日も私を助けてくれたし。……冷たいばかりじゃないって、わかってる。でもまだ、」
「メアリ」


心臓の音が、二つ。一方の音がどんどん速くなっていく。ずれたり重なったりを繰り返し、その音はラムズの柔らかな声に紛れた。


「メアリのペースでいいよ。俺はずっと待ってるから。いつか、俺を好きになってくれたらいい」


乾き、潤み、痛む目を閉じたい。でも視界を閉ざせば音がより鮮明に聞こえるから、私は身動きできなかった。ありがとう、と呟く少女の声は酷く"女"じみていて、私の知る逞しさはどこにもなかった。あの子自身が変わったのか、"ラムズの前の"あの子が変わったのか。どちらにせよ、今のラムズはあの子が望むラムズなんだ。音もしないのに、ラムズの表情が脳裏に浮かぶ。浅い呼吸は、誰のものだろうか。


「おやすみ、メアリ」
「……おやすみなさい」


扉が閉まる。ラムズが生気を失ったのがわかった。無機質な靴音が部屋を回ったかと思えば、椅子が床を擦る音が続く。ギ、と鳴った軽い音で、ラムズがそれに座ったのがわかった。冷たく張った沈黙の中に、時折コトッと打音が混ざる。聞き慣れた音、ずっと聞いてきた音。ラムズの心音にも等しい音を、私はずっと、聞いてきた。


「メアリが無事で、よかったね」


天井を見上げたまま声を出す。低くざらついたそれは、自分でも耐えがたいほど不快な響きをしていた。ラムズは返事をしない。宝石を持ち上げ、机に下ろす音だけが、私の鼓膜を震わせる。


「私に何か言うことないの?」
「ありがとう」


ベッドに横たわってからはじめて、体に力が入った。噛みしめた歯がぎりっと鳴る。


「それだけ?」
「あー……レヴィならやってくれると思ってたよ」
「…………そうだろうね」


あのときメアリの喉を切り裂けなかった爪が、易々と布団に食い込んでいく。絡みつく綿をブチブチと切りながら、こうしてやればよかったと思った。こうしてやる、はずだったのに。

私はメアリを殺せなかった。それどころか、鱗を治してラムズのもとに連れ帰った。

魔物の死骸が散らばる船の中央で、ラムズは飛びつくようにメアリを受け取り、真っ先に全身の鱗を確認した。その視線がメアリの顔を掠めもしなかったことに、気づいたのは私だけだろう。唇を震わせ、睫毛を濡らす雫を用意して、彼は優しく彼女の肩を揺らした。メアリ。そう呼びかける声の温度は、メアリがラムズを呼んだ声の温度と同じだった。

目を覚ましたメアリは、掠れた声でこう言った。──やっぱりラムズだったのね。


「私なら、口を出さないって思ってたんだ」
「何の話?」
「私が助けたのに、自分が助けたことにしたでしょ」
「ああ、ちょうどよかったから」


クズ、クソ野郎。唇の裏で呟く。あの子にとっても私にとっても不誠実だ。でもだから何?ラムズはラムズに対して誠実なのであって、他者にとって誠実だったことなんて一度もない。もしそんなことがあるとすれば、たまたま彼の思惑と誰かの望みが一致しただけだ。


「褒美をちょうだいよ」


コツ、とまた一つ、机に物が下ろされる。たぶん短剣だ。柄に大きなルビーがはめ込まれた短剣。音だけでわかる。音だけで、わかるんだよ。


「私のしてほしいことをして」


あの子にしたように。その言葉を拳の中で握り潰して、私はやっと瞬きをした。もう起き上がれる、でもラムズが来てくれないと嫌。ラムズが来てよ。私のしてほしいことをしてよ。


「お前のしてほしいことってなんだ?」
「……考えて」


沈黙の中で波と船が揺れる。私の心臓も揺れていた。あの子と同じように、早まっていく鼓動。ラムズのそれは聞こえないのに。あの子の前では鳴るそれが、私の前では鳴らない。視界を覆う薄膜が厚みを増し、部屋を暗くしていく。


「わからねえな」


目から宝石が落ちた。晴れた視界の向こう側で、私はラムズの椅子の背を掴んでいた。ベッドからそこまでひと蹴りで飛び、椅子から投げ出されるラムズの体に馬乗りになる。椅子が床を打つ音と、心臓を突き破りそうな私の鼓動、どちらが大きいだろうか。雨が降るように机から宝石が落ち、床で跳ねてそこら中に転がった。きらめく夜空の真ん中で、私はまた一つ自分に傷をつけた。


「わかるでしょそれくらい……百年も一緒にいるんだから。あの子のことはわかったんだから、私のことだってわかるでしょ?それくらいわかるでしょ!?」


喉が痛い、胸が痛い、脳が痛い。傷だらけのそこから流れ出る汁を無視して、私はまた喉を裂いた。ビリビリと私の鼓膜を震わせるこの音が、ラムズに触れることは永遠にない。それでも叫ばずにはいられなかった。


「ねえわかってよ!私のしてほしいことしてよ!!!」


ラムズの顔のすぐそばに転がる赤を掴んだ。勢いのまま振り下ろす。短剣の刃が彼の額を破り、液体がじわりと傷口に滲んだ。引き抜くと同時に溢れ出たそれが彼の顔を染める前に、今度は心臓を突き刺す。何もないと知りながら。どうにもならないと知りながら、心臓を、喉を、右目を、刺して刺して、擦り潰した。

ぐちゃぐちゃに刻まれ、原形を留めていない"人"の前で、私は事切れたように動きを止めた。赤い海が彼と床を浸している。月明かりが当たって鈍い光を放つそれの片隅に、一つだけ青が混じっていた。血濡れて紫にも見える宝石の表面から、つるりと雫が滑って落ちる。澄んだ青に戻ったそれが、凛とした光を私に届けた。


「満足したか?」
「……してるわけないでしょ。こんなことしたって無駄じゃん」
「"俺"を刺せばいい」
「それで私の望みを叶えたつもり?」
「ああ」
「私は……」


声が汚く掠れた。喉が詰まって、言葉にならなかった。ラムズは何も私のことをわかってない。私はラムズを傷つけたいわけじゃない。傷なんかつかないって知らなくても、壊せないって知らなくても、私はきっと、この左目を刺せなかった。

じゃあどうしたいの?私はどうなりたいの?教えてほしい。ラムズがいないとどこにも行けない私に、私の望みを教えてほしい。どうしたら幸せになれるのか。どうしたら笑ってラムズのそばにいられるのか。ラムズがメアリを撫で、愛し、慈しむのを見守りながら、それでも満たされる術があるなら、教えて──


「教えてやろうか」


ぽた、と一つ雫が落ちた。血の海に混ざって見えなくなる。私の心を読んだかのような声に、ゆっくりと視線を動かした。


「何を?」
「レヴィの望み。レヴィを満たすもの。俺が与えているもの」


そんなのない。そう呟く唇の裏で、教えて、と答えていた。ありもしないものをどうやって生み出すの?何も与えてこなかった過去をどう変えるつもり?嘲笑う私を真っ直ぐに見返して、"ラムズ"はきらきらと瞬いた。