腐食果実

 ラムズ・シャークという男が店に入ったとき、遊女たちのあいだには静かなざわめきが波紋していった。「誰が彼につくか」「どこの貴族か」「金は持っているか」そんな声があちこちから囁かれる。
 それもそのはず、彼は娼館では特別持て囃される容姿の持ち主だった。色の透けたような白い肌に、鋭く冷たい眦、ダイヤモンドみたく煌めく銀髪。すらりとした体躯にくびれた腰、しなやかで細長い指先、薄い唇に寄せた色っぽい艶笑。この店の常連である伯爵のお供にやってきたみたいだから、彼自身は男爵かそこらの貴族だろう。でもそれにしては羽振りがよさそうで──高価な宝飾品をいなせに着こなし、いっそう見栄えをよくしている──、さらに伯爵と懇意にしている男爵なら言うことはない。金のない男なら箸にも棒にもかからないけど、彼は違う。あれほどの美青年ならば絶対に客にしようと、遊女たちの眼が色香の裏で滾っている。
 でも遊女の期待は空頼みに、彼はひとりの遊女にも触れようとしなかった。それはそれで私たちの心に火を付けたが、こうも清廉だと妻や恋人をよほど大事にしているのかと疑心も渦巻く。
 人気の子が無理やり彼の隣に座り腰を擦り付けたときは、「失礼」と席を立ってしまったものだから、残りの遊女はくすくすと笑い声を上げた。
「何かおかしい?」
 戻ってきた彼は、あくまで微かな笑みを浮かべたまま、丁寧に尋ねた。ここぞとばかりに、私の隣に座る子が胸を突き出して答える。
「あの子、かなり人気の娘よ。あなたが席を立っちゃうから。かわいそう」
 うっすらと憫笑を浮かべながら答える。ラムズ・シャークは彼女の胸元に視線を送っている。触らずとも興味はあるんだろうか。
 私たちは皆ほぼ裸同然の格好をしている。薄いベールを胸元と腰に巻き、上から小粒の宝石の並ぶネックレスを下げている。それぞれでデザインは違い、高級遊女はそれ相応の装飾品を纏っている。とはいえ殿方がすぐに遊べるよう、最低限身に付けているだけなんだけど。
 私は胸元のネックレスに触れる。周りにいる他の子と比べれば、そうとうシンプルで安いものだ。
「それは悪いことをしたな」
 ほとんど悪びれのない顔で、静かに声を落とす。雫を紡いだような澄んだアルトもまた素敵で、きっとここにいる遊女の誰もが耳元で囁かれることを想像しただろう。もちろん、私も。
 彼は女のように細く美しい手でグラスを取った。たまにスナックを摘み、物憂げな表情で小さく咀嚼する。皺もシミもない、暗い臙脂のコートから覗く白百合の腕は、一挙一動が優雅でいて繊細だった。伯爵よりも上品に馳走に預かり、ときおりほの見える妙に長い赫の舌や白い八重歯が色っぽく、遊女が何人も彼の仕草を目で追っていた。
「あたしがそっちに行ってもいい?」
 胸元を見られていることに気づいた彼女は、さらに身を乗りだして、きゅっと笑みを繕った。
 お客様たちはソファに座っていても、遊女は絨毯の上に体を投げだし、お客様の椅子を囲んでいるばかりだ。選ばれた子しか椅子には座れないし、殿方のお相手はできない。
「見てるほうが好きだな」
「えぇ〜。どうして? 触れてもいいのよ?」夜蝶の売女らしく表情を崩し、薄いシルクのベールをめくってみせる。
 私はついこのあいだこの店で働きはじめたばかりだ。ラムズ・シャークはもちろん気になっていたけど、あんまりでしゃばるとあとで他の女の子たちにいびられてしまう。
「シャーク男爵、少々付き合いが悪いぞ?」
 はっはと大きな口を開け、両足に女を乗せた伯爵が話しかける。女はワインの入ったグラスを手に取り、伯爵の口へ流し込んだ。
 膨れた喉仏が下に降り、まだ戻ってくる。
「まさかそちらの毛がおありというわけでもあるまい?」
「いえ」彼は軽く片手を広げ、少し首を傾げた。「このとおり困っておりませんので」
 自分で言うなんて嫌味な男。でも、誰もそれを否定できない。たしかに彼は類まれな甘いマスクを被っている。怜悧な顔立ちでいて、ときおり見せる薄い笑みはうっとりするような妖しさを漂わせている。
 伯爵が歪な金歯を見せて下品に笑い、膝にのった女が彼に味方するようにラムズ・シャークへたしなめる。
「どんな殿方だって、女はいくらあっても足りないものよ。そうでしょう?」
 同意を求めるように伯爵の髭を摩る。周りの女たちもきゃあきゃあと笑いながら互いの腕を叩きあった。
「麗人にそうも|詰《なじ》られると応えるなあ」
「じゃあほら、ね?」彼女は艶やかに笑いかける。
「俺はちと変わった余興を楽しむんだが」ラムズ・シャークは伯爵をちらと見た。「──彼女らに相手をしてもらうのは忍びなく」
「ほう? いいじゃないか。金はたんまり払っておる。たいていのことはさせても構わんぞ」
 何人かの遊女は不安そうにちらちらと目を逸らした。経験の浅い子たちだろう。経験上、こんなふうに啖呵を切った男が本当に酷い性倒錯を持っていた試しはない。
 絶対になんでも叶えてみせると、私はきゅっと眉を寄せた。思わず逸らしたくなるほど魅惑的な彼の双眸を、硬い意思でしかと見つめる。
「じゃ、お前でいいよ」
 ばちりと眼が合った。
「へ? あ、わた、わたし?」本当に呼ばれるとは思ってなかった。
 周りの子たちが「この前来たばかりじゃん」と、ラムズ・シャークに聞こえないよう嫌味を飛ばす。
「ぜひ、お相手させていただきます」
 緊張に震えた指先を隠すように交差すると、こてんと頭を右に倒す。にっこり微笑みかける。
 前のお店ではそこそこ人気の遊女だった。ここでのいちばんには勝てないかもしれないけど、私は私なりに精一杯やってみせる。それで彼と──。これから彼とするであろう行為を想像して、体の中心がきゅんと疼いた。
 黒塗りの皮ソファで右肘をつき、流し目の蒼がこちらを見下ろす。左手の形のいい指先が二度ほど降りる。
「おいで」
 湿った甘い声は、たった一言で私を濡らした。じんわりと粘ついた水が膜を張る。周りの女の子たちが羨ましそうに私を見ている。
 少しばかり鼻をくいと上にあげて、彼の座る椅子のそばまでにじり寄った。立ち上がろうとしたら、彼は同じ低い声を落とした。
「上がらなくていいよ。そこで四つ足をついて」
「あらあら。もうなの?」ひとりが嫌味っぽい高音を鳴らす。
 前戯なしで、しかもこうして他のお客様や遊女がいる前で遊ばれるのは意外に多い。見せつけるのが好きな客なんだろう。やっぱりね、たいした趣味なんて持ってない。
 私は勝ち誇ったような笑みを遊女たちに見せたあと、彼へ向けてお淑やかに微笑んだ。ソファの前で手をつくと、くっと腰を下げ、尻を持ち上げてみせる。
 腰にかかったシルクがいつめくられるのかと、きゅんきゅんと胸が高鳴っていく。見られるのは嫌いじゃない。他の子たちにひけらかすこともできるし、上手くできたらまた彼に選んでもらえる。
 でもいくら待っても布が擦れる感覚はなくて、代わりに背にずんとのしかかるような重みを感じた。
「え?」
「あー、もうちょい屈んで。高い」
 横を見れば、宝石の施された長ブーツが目に入る。腰に靴をのせたってこと? 私はなんとか表情を保ったまま、少し膝を曲げた。
「こっち、下ろして」
 彼は踵で肩側をとんとんと叩く。そのたびに骨に重い響きが伝う。
 目尻が熱くなる。こんなことされるなんて。しかも人前で。地面についた手にじんわりと汗が滲みはじめる。我慢しろ、私。思ってたのと違うけど、彼に選ばれたのは私だ。これくらいなら大丈夫。サディストの客は相手をしたことがある。
「はぁい」
 不快感を一切漏らさず、私は甘く色っぽい声で返事をした。左側には馬鹿にしたように私を見る子がいるかもしれないから、ひたすら絨毯の模様だけに集中することに決める。いくら馬鹿にされたっていい。彼女らは足に触れることさえ許されていないんだから。
「いったい何をするかと思えば」伯爵の声が聞こえる。「裸の|女子《おなご》に靴をのせるか。なかなかお前もやりおる」
 彼の嗤いを凝らした声が聞こえる。
「そうでしょうか? ガラスティ伯爵にお気に召していただけたのであれば、この遊女も救われるでしょう」
「それで? 余興というのはそれで仕舞いなわけではないよのう?」
「ああー……」
 ろくに興味のなさそうな声が降りてくる。から、とガラスの硬質な音が聞こえた。
「これ、もうよろしいですか?」
「もちろん」
 ちらりと右を見上げれば、目が合ったラムズ・シャークが碧眼を柔らかく細めた。持っていたワインを一口含んだあと、静かに手首を傾けていく。ひそやかに透けた赤ワインは、グラスの中で焦らすように山を下っていく。首筋をゆっくりと液体が滑る感覚に、ぞわぞわと鳥肌が立ちはじめる。肩がびくんと跳ねた。うなじにかかる髪から、ワインの朱がぽた、ぽた、と滴っていく。
 なんて言おう。なにを言えば喜んでもらえるんだろう。甘さと酸っぱさが融けたアルコールが鼻をつく。
「わーん、ちょっと冷たいなぁ。酷いよぉ」甘露を添えて嬌声を上げる。
「足りねえか?」
 ぞくっとして視線を走らせた。突然変わった言葉遣いに、心臓がどきまぎしている。そっか、こういう人なんだ。たしかにこのほうが似合う。
「違うわよ。あったかいのがほしいの〜」さりげなくおねだりしてみる。
「じゃあそれ取って」
「っ、え、え? これ? これはダメだよ!」
「熱いのがほしいって言うから。ならこっちでいいか」
 別の女の子が驚いている声が聞こえる。なに、そんな驚くような──
「ッ?! ひゃッ、ッッッツツツ、はッ!」
 製氷が頭の上を転がり落ちていく。尖った氷が頭を何度か打ったあと、溶けた氷水が髪や顔をびっしょりと濡らした。氷がいくつも床に落ち、崩れた髪が前に垂れる。あまりの冷たさに頭皮が悲鳴を上げている。酷い、酷い、酷い。アイスペールをかけたんだ。まだ氷はバケツいっぱいに入ってたのに。
 凍えるほど寒い。全身が震え、歯がかたかたと互いを重ねる。
「寒かった? 悪りい、蝋はだめだって」
 止めてくれた女の子に心から感謝した。でも、氷水だって蝋と同じくらい酷い。
「つめ、つめ、た、い……」
「あ! あたし、とりあえずパメラの服を替えてきてあげるから」
「なんで?」彼の声も、被さった氷と同じくらい冷たかった。
 ラムズ・シャークは腰を曲げると、覗きこむように私と顔を合わせた。「このままじゃ嫌?」
「だ、だいじょう、ぶ……」
 硬く凍りかけている唇を小さく開いた。彼は満足そうに笑い、声をかけてきた遊女へ放る。
「だって。足が疲れたから、このままで」
 一部始終を見守っているであろう伯爵は、それほど驚いた声は出さなかった。私は彼に|足置き《オットマン》よろしく靴をのせられたまま、小一時間耐え続けた。漢字ふりがな