サファイアのブローチ #R

 年始の明け景を見て、城の自室でしばらく宝飾品を愛でいつくしんだあと、日が暮れかかっているのに気づいた。そうしてとうとう、件の宝飾店『ボゥ・エトワー』へ出かけることにした。俺に誕生日プレゼントをくれるらしい。かわいらしい響きに頬が緩む。
 この日に自ら新しい宝石を仕入れようと動くことは滅多にない。明け景に見る宝石の美しさに、しばらく茫然としてしまっているからだ。それは新しい宝石に失礼だし、そんな態度でいることに罪悪感も覚える。(有り体にいえば、人間のそれに近しいものだろうと賢しらをしてみた。)
 同族にはこれを神からのご褒美だと歓ぶやつも、皮肉と嘲りを込めた狼藉だと訴えるやつもいる。もちろん、俗な戯れの範囲で。当の俺も、神がどちらの理由で贈っているのかに興味はないし、考えても正答と見えることはないだろう。
 話を戻そう。そう、宝飾店『ボゥ・エトワー』のことだ。
 あれは四百年ほど前に開店した、主に人間の貴族や大商人がターゲットの高級宝飾店だ。一代目の店主は好かんやつだったが、婿入りした男が経営に携わるようになってから、なかなかどうして利用しやすい店になった。
 昔は宝飾店から気まぐれに宝石をくすね、店仕舞いにまで追い込んでしまうことがままあった。はて、これじゃあ玉虫色だと質されそうだ。店の宝石をすべて頂戴し、店もその人間も跡形もなく儚めてしまった>氛氓、これでだいぶん伝わりやすくなった。
 だが近ごろは(俺の時間感覚でいう近ごろ≠セ)、よほど気に入らない店でない限り目立って手は出していない。今回出向く『ボゥ・エトワー』も、開店して以来、ただの客人として贔屓にさせてもらっている。
 そもそも、宝石が好きなのだから言うまでもないことだが、俺は宝飾店が好きだ。その輝きを最上に引き立てる白い照明と、最高級の澄み切ったディカルタルガラス。自室の宝飾品を選りどりみどり並べた様子とはまた違った緊張感があり、店の統一された盛飾は愛おしく思える。服屋などと比べると店員は気の長い穏やかな者が多く、俺が宝石を眺めているのをゆったりとした面持ちで待っていてくれる。
 買わずにただ見つめている時間は至福のときで、煌々と輝きを見せる幾多の宝飾品から、購入するひとつ、ふたつを決めるのもなかなか。どれにしようか、ああでもないこうでもないと考えあぐね選ぶのは愉しく、それを決めた瞬間も、相応の金額を支払うのも、そして持ち帰り、晴れて自分のものとなった宝飾品を愛でる時間も好きだった。ただ手に入らなかったもののことを考えて、もどかしい思いをすることはある。それがときおり、あまり褒められない手段に走ることも……あった気がする。
 『ボゥ・エトワー』に魔の手を寄越さないのは、偏に仕入れる宝石の質がいいのと、こちらを深く詮索してこない店員の態度を気に入っているからだ。高級店ならばこの程度難なくクリアしていくのだが、どうも百年を超えて店に通っていると妙に思われることがある。誤魔化すための魔法をすり抜け、鋭い勘を発揮する人間がまれにおりまして、するとたいへん心苦しいことに家族に別離の歌を送ってくれと頼む羽目になる。あ、いや。たいがい家族も一緒に殺してるから、送るんじゃなく歌ってもらってるんだっけ。
 ともあれ、例の店主には好感が持てる。俺とも宝石の趣味が合っているように思う。商品をそれはそれは丁重に扱い、我が子を送りだすような慈しみの表情、仕草で購入品を手渡してくれる。いつかにとある宝石の保管方法について尋ねたときも、なるほどたしかに由緒ある宝飾店店主にふさわしい回答が返ってきた。これほど永く生きる俺でも、その手の権威らはたびたび文明を更新するもので、教えを乞うことは珍しくない。

 店の扉を開く。年始の今日はどの店もたいてい閉まっているが、『ボゥ・エトワー』は俺の誕生日祝いのために開けてくれたらしい。ご大層なことだ。
 店主は顔を上げ、穏やかな表情で「こんにちは、お待ちしておりました」と言う。
「こちらこそ。わざわざご用意いただいたようで」右手に持ち、左で抱えていた花束を掲げる。「年始の祝いに、よければ」
 白百合の大ぶりの花束は、この店の格式高い内装に合うだろう。たまに花を飾っているのも見たことがあった。
 彼は少しばかり目を見開いて、驚きを隠すように口を開けた。「これはこれは。美しい百合ですね」
 手袋を外して花束を受けとる。店の奥へ置きにいった。すぐに戻ってくると、淡く蒸気させた顔でにこやかに言った。
「明日より飾らせていただきます。いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます」
「いえ」
 彼はショーケースの下から、白いベルベットの包みを取りだした。
 ああそれが、俺に贈る予定の宝石か。思っていたより大きいな。わざわざ造らせていると言っていた。なんの宝石だろう。最近はタンザナイトが流行だと聞いたから、そのあたりが使われているかもしれない。もしくはパイライトなどの希少石、ないしはオニキスのように好みの別れそうなもの……。自分で選んで贈ってもらうのもいいが、何かわからないというのも恐悦。しかも宝飾店が努めて用意した一品だ。下手なものは造らせないはず。
 店主は焦らすように──これは完全に俺の主観で、多少の緊張は感じられたものの、おおむね普段どおり開けていた──丁寧に包みを広げていく。食い入るように見ようとする眼をなんとか抑えた。
 別のことを考えよう、さっき街で見かけた少年のこととか。走って広場に向かっていたが、こんな日にひとりで外出しているのは珍しい。迷子には見えなかったし、手荷物がなかったところからも突発的な家出だろう。あまりいい家族に恵まれなかったのかもしれない。たしか体のあちこちに痣があったな。タイミングもいい、明日から奴隷として売り飛ばされるかな。
 一瞬間、一見しただけの記憶を掘りおこし、少年の行く末を測るほうへせっせと意識を注ぎこんだ。そのおかげでいくらか贈り物からは思考がぶれ、必要以上に感情的にならずにすんだ。
「こちら、お誕生日のお祝いでございます。おめでとうございます」
 お誕生日、お誕生日ね。便利で助かる。今となっちゃ明け景と重なるので別日にするべきだったかと思うこともあるが、どの日が誕生日だろうと勝手に増やすので、やはりいつでもよかったのだ。当日に祝われるのはちと珍しいが──と、わずかに震えのある店主の声色には気づかぬ振りをして、「ありがとう」と微笑む。改めて宝石に意識を戻した。
「あー…………。んー……」
 誤魔化すように声を漏らして、店主の差しだすブローチを手に取った。想像以上に美しい宝飾品に、人間でいう深呼吸らしきアレソレをしなければいけなくなった。咳払いをして、彼に突き返す。
「いい品だな、包みなおしてくれ」
「は、はい」
 いつもは冷静な彼が、少し戸惑ったように返事をする。だがすぐに繕って、柔らかな手つきでブローチを包みこんでいく。
 ああ、どうか包まないでほしい。今すぐ見せてほしいし、今すぐ身につけたいし、いや、やっぱり数時間は眺めていたい。もどかしい気持ちが縦横無尽に駆け回っている。……だが今はだめだ。おそらく手に取って愛ではじめたら最後、日付が変わるまでこの店に居座ることになってしまう。
「あまりお気に召しませんでしたでしょうか?」
 彼はあくまでそっと尋ねた。ほんの少し気にかかっただけで、俺がどう答えようとも構わない、そんな意図を伝えるように、そっと。
 あえて視線を揺らし、ひそやかに答える。
「違う。好きだったから、あまり……ここでは落ちついて見ていられないと思ったんだ。悪い。また挨拶に向かうよ」
 なにひとつ嘘は付いてない。これほど豪奢なものを用意できるのは、まさに『ボゥ・エトワー』のような老舗のなせる技。店主でなけりゃ抱きしめてキスまでしているところだ。いや、ほんとに。
「……そうでしたか」
 表情にも声にも出していないが、いくらかほっとした様子だった。
 俺がここで多少取り乱そうと、この店主が誰かにそれを話すとか、俺の弱味だと思うとか、その手の心配はしていなかった。(こいつは宝石が好きなだけで、宝石が好きな俺を好意的に思っているだけだ。突っ込んだことはしてこない、だから贔屓にしてるんだ。)
 そうではなく、体面を保っていられないのが格好悪いし、感情を見せるのは恥ずかしくて嫌なんだ。
「本当に嬉しいよ。ありがとう。ちと照れくさくて」目線を下ろし、二度ほど瞬きをしてみせる。
「いえ」店主は緊張が解れたように肩を下ろした。明らかに安心している。「よかったです」
 ──とまあ、洒落どおりにおどけてみたが、やっぱり人間はいじらしいな。
 彼が見たいのはシャンデリアの下で儚くサファイアと睦む俺であって、血走った眼で光り物を集める魔鳥ではあるまい。俺は美しいままのサファイアのブローチ≠受け取りたいんだ。
 そうして先ほど脳裏に焼きついたブローチを、目の前の店主の顔で塗りつぶした。いくらやっても後ろから透けて見えてくるが、多少はマシか。どうにか城に着くまでに、ここにあと十人分くらい塗り足さなければ。
 俺は唇を柔らかく曲げ、首を傾げる。
「本当にありがとう。君が造らせたのなら、そのセンスをとても好ましく思うよ。よく……見てるんだな?」曖昧に語調を弱め、またトーンを上げた。「今年もどうぞよろしく」
 はい完璧。俺が手を出すと、店主は目を瞬いて、白い手袋を付けたままの右手を持ち上げた。それを包むように何度か優しく振って、手を離す。
 店主からプレゼントを受け取る。
「じゃあ」
 意識だけはもうほとんど上の空だった。だが、向こうはそれより酷そうだ。
「はい、ありがとうございました」
 店主は視線を定めなおすと、目尻に皺を寄せ、深く頭を下げる。奥に潜む憂い顔は、ひとまず見なかったことにした。

  *

 数時間件のブローチを愛でつづけ、いくらか冷静になったところで今回のプレゼントについて考えなおすことにした。
 この宝石は、明らかに俺≠イメージに造ったものだ。特にサファイアの濃紺はおおよその場面で光らせる眼と似た色をしているし、それを飾る石座、繊細で複雑な模様を描く銀細工はさしづめ俺の髪と謳えるか。徒に前髪を触り、その銀を光に透かした。
 そして美しくもどこか冷たい、遠い深みを見せるカット……彼の思う俺の像≠ェ手に取るようにわかる。
 溜息と共に机に置く。
 これじゃあ俺が自惚れ屋みたいだ。こんなに麗しく崇高な宝飾品、あまりにも不釣り合いだ。いや、今に始まったことじゃないか。悲しいかな、これまで目にしたいかな宝石よりも美しかったことなど、ついぞないのだから。
 騙しているようで嫌だな、と思ってすぐ、本当に騙していたことを思い出した。だが店主にとってこれが俺≠セというなら、今まで身につけていた宝飾品も救われるやも知れない。
 つまらない自虐はやめにして、店主のほうに話題を移す。
 特段あの男に色目を使った覚えはないが、どうにも気に入られているらしい。これまでも宝飾店の店主や宝石職人とは懇意にしてきたが、あれほど高級なサファイアをもらったのは数えるほどしかない。言葉を交わした数は多くない。俺自身に惹かれているというよりは、やはり宝石を愛する俺を一目置いているというが正しいか。
 ブローチを手の中で優しく揺らす。眩いきらめきが視界を彩る。
 迂闊に手を出して今の関係が変わるのも嫌だし、向こうも変化を望んでいるわけではないのだろう。俺への贈り物が増えて店の品揃えが悪くなるのもいささか気乗りしない……だが、もう幾らか親しくなってみても面白いかもしれない。そんなに俺の審美眼やら宝石愛やらを気に入っているのなら、嬉しい言葉を聞けそうだ。誰に褒められても嬉しいものだが、やはりその手の権威に認められるほうがいっそう悦びは大きい。
 彼はあくまで客と店員の立場を守っているようだから、今回をきっかけに、俺のほうから閑話を楽しめる仲にまで進めてみようか。帰り際に見え隠れした憂色は、むしろ気を持たせるのに都合がよさそうだ。
 こちらは上得意の客人、難しくない。会話を俺が望んでいると知れば、彼も口を開いてくれるはずだ。このブローチを見るに、生半可な敬愛ではない──気取らない素直な褒め言葉が聞けるかもしれない。
 ブローチを光に翳し、何度も角度を変えてカットの奥を見つめた。
 これはこれは、恋する乙女ってのと似た想念を抱きはじめたらしい。どのみち俺も彼らも、求めるものは変わらないのだ。えーっとたしかそう、愛≠ニ名乗れば格好がつくんだっけ。
 ではその愛とやらを探しに、もう一仕事してくるか。