赫い氷鬼

 腕が痺れ、足ががくがくと笑う。冷たかった体が火照っている。頬や首筋が熱く、一方で全身に寒気が回っている。筋肉が緊張し、肘の骨が床に当たって痛い。
 見かねた遊女が、談笑しているラムズ・シャークと伯爵へ声をかけた。
「そろそろ……交代してあげては?」
 彼に何か言われる前にと、私は絶え絶えに声を上げる。
「だ、大丈夫、だから。気にしないで」
 彼は喉の奥で笑い声を漏らしたあと、組んでいた足でまた腰を下に押し付ける。
「なあ、低い」
「は、はい」
 よろよろと腕を持ち上げる。わなわなと胴震いし、今にも腕の力がかくんと失せ倒れそうだ。でもどうしてもやめたくなかった。周りの女たちに負けるのは嫌だったし、ここで音を上げてせっかくのチャンスを不意にもしたくなかった。もしかしたら、ずっと頑張っていたら彼に認めてもらえるかもしれない──少なくとも、根を上げて交代してしまうような女よりずっといいはずだ。
 幸い、その少しあとにラムズ・シャークが席を立った。曲げていた腰を少しのあいだだけでも戻そうとしたが、ふと思いとどまる。きっとこれも……彼は望んでない。私は依然絨毯の模様を眺めつづけた。
 ラムズ・シャークが席を立ったのは、知り合いの者が声をかけてきたかららしい。彼もこの店のお客様だろう。
「リジュー、やっぱお前センスいいよな」
 ふっと彼が笑う。「遊べって言うから」
「最高だよ。本当に好きなのは宝石か?」
「ご覧のとおり?」
 声をかけてきた男からの視線を感じる。私のことを話しているんだろう。顔は上げず、ただ必死に耳を傾けた。
「まぁそんなことより、例の仕事のことだが……」
 二人はソファから離れていく。伯爵はまだ飲んでいるから、しばらくすれば戻ってくるはずだ。心ばかり腕を楽にしつつも、私は絶対に体を上げなかった。
 そうして彼が戻ってきて、同じように足を背中に落とす。ずっと同じ体勢でいたのに、なんにも言われなかった。小さな寂しさを覚えたが、唇をぐっと噛む。大丈夫。彼はいかにもそんな男だったもの。サディストはそんなものだ。それでもいつかは、『堪え性があるな』って気に入ってもらえる。
 今までそうやって客を掴んできた。前の店ではいいところまで金を稼いでいたんだ。だからきっと今回だって大丈夫。

 それから何分同じ格好をしていただろうか。ふいに腰の重みが消えた。あまりに意識を凝らしていたせいか、お客様の会話をまったく聞いていなかった。
「それではわしはこの辺りで」伯爵の声が遠ざかっていく。「君、奥の部屋を借りていいかい? この二人と一緒だ」
「もちろんですとも。ささ、こちらへ」
 伯爵は図太い声をこちらに放った。
「シャーク男爵にも部屋を取っておくから。存分にその子と楽しむがよいぞ」
「お心遣い、痛み入ります」
「ははっ、よいよい」
 伯爵の重々しいブーツの響きが軽くなっていく。彼が去ったのだろう。
 私の腕を冷ややかな温度が包んだ。体を軽く持ち上げられる。
「向こう、いるから」
 もう片方の手で部屋を指し示したあと、ぱっと離された。勢いで前に倒れこむ。もともと限界が来ていた腕は地面を受け止めることができず、頬を絨毯に強く打ちつけた。足も腕もぼろぼろだ。馬鹿だ、私。これからが本番なのに。
 横たわったまま痙攣した重い腕を持ち上げ、片方をゆっくりと摩る。セットしていた髪は、ワインや氷水のせいで崩れてしまっている。
「早くしな。客が逃げるよ」
 初め、ラムズ・シャークの隣に座ろうとして失敗した子だ。脇に手を差し入れ、私の体を持ち上げてくれる。他の子が数人寄って、顔を暖かい濡れタオルで拭く。
「あんたのためじゃないよ。でもあの人、もうパメラ以外を部屋に入れる気ないみたいだから」
「頑張ってたのは見てたから、助けてあげる」違う子が優しく微笑んだ。
「ん、うん。うん……」
「あのクズ、ちゃんと飛ばすんだよ」
「わかってる、うん」
 紫に変わっていた唇に、艶やかなリップが塗られる。濡れていた胸元のショールが剥がされ、最初につけていたものより豪華なネックレスをかけてもらった。ピアス、髪飾り、乳房を覆う透けたレース、すべて着替えさせてもらう。
 今までこの店に来て、こんなに優しくされたことはない。彼を射止めるつもりでやったことが、ここにきて彼女たちからの同情心も買えたようだ。素直にほっと心が温まり、私は何度も頷いた。
「大丈夫、いける」
「立てるの?」
「……ん、うん」
 女の子たちに掴まって、よろよろと立ち上がった。人気の遊女が私の手に小瓶を握らせる。
「いざとなったら使っていいから」
「え、え? これって。でも高いものじゃ」
「そうだけど。支配人が絶対彼も客にしろって。相当金持ちみたい」
 ゆっくりと手を開く。シンプルなガラス瓶に淡い桃色の液体が入っている。店の裏で密かに使われている媚薬だ。満足させるのが難しい男──飛ぶのが遅いとか、そもそもショゴスミだとか、そういう男に対し酒に混ぜて楽しませるのだ。
「でも彼、こういうのすぐに気づきそうじゃない?」
「じゃあ、しばらくしたら酒を運ばせるから。間違いなく薬の入ったほうを飲ませるんだよ」
「うん。わかった」
 私の腕や足を揉んでくれていた遊女たちがすっと離れた。マッサージしてくれていたおかげで大分マシになった。一瞬よろけそうになった体をなんとか支えて、彼の待つ部屋に一歩ずつ足を進める。

 薄いカーテンを開けて、中を覗く。彼は肘掛け椅子に腰を下ろし、ズボンに付けていた懐中時計に幸せそうに見入っている。懐中時計にもダイヤモンドが散りばめられている。全身宝石で着飾っていることからも、相当好きなのだろう。伯爵ほど豪華な服装ではないにしても、男爵にしては華やかすぎる格好だった。
「ラムズ・シャーク様。パメラです」
「そのベッド、てきとうに乱しておいて」
「あ、あの」
 いきなり難関だ。つまり彼は娼館で遊ぶつもりはないってこと? 男は顔も上げず、ただただ手元の懐中時計を弄んでいる。
「お相手したいわ。がんばるから」
「なんの」
 伯爵がいたときよりずっと冷たい声だった。明らかにこちらに興味のない声。
「えっと……また、足かける?」
 彼は顔を上げないまま、くすりと笑う。「なに、そういうの好きなの?」
 あなたがやらせたんでしょうと喉まで出かかった。危ない、危ない。私は快く微笑む。
「え〜、ラムズ様が望むなら?」
 語尾を上げて十分かわいらしい声を出せたはずだ。彼は懐中時計を机に置くと、それに繋がっていたチェーンを今度は眺めはじめた。
「いらねえ」
 らちがあかない。私は部屋に踏み入れると、彼の座る椅子の前までつかつかと歩いていった。体を飾る宝飾品がしゃら、しゃら、と後を追う。
 正面のベッドに腰を下ろして、じいっと彼に視線を縫いつける。
「遊んでくれないの? 少しでいいからこっちを見て」
 肘をついていた彼が、瞳孔だけをわずかにこちらへ上げる。二度ほど瞬きして、銀の睫毛が光に閃く。何に興味を示したのか、手に持っていたチェーンをズボンに戻した。こちらに体を向ける。
「付けてもらったの?」
「え? なにを?」
「……これ」
 彼は手を伸ばし、私の首元のネックレスに触れた。愛おしそうに微笑み、柔らかな眼差しが注がれる。私じゃない、宝石に。
「ん、うん。貸してもらった」
 ラムズ・シャークはようやく私と目を合わせた。
「悪い。本当にそういうの、興味ねえから。やったことにしておいて。だから伯爵を待つあいだは、この宝石見てていい?」
 今まででいちばん優しい声だと思った。しかも随分丁寧に長いセリフを喋った。思わず「うん」と口から落としそうになる。甘美な微笑みにつられて頬が緩みかけるのを、どうにか堪えた。
 私、よく考えて。時間いっぱいまで宝石を見て過ごすってことよね? 私についたアクセサリーを? 女の子たちにも叱咤されたばっかりだ。そんなの絶対ダメ。気持ちよくして、飛ばして、ちゃんとお客様にしないといけない。
「えっと……見ててもいいから。お仕事させて?」
 眉をわずかに寄せ、宝石を見たまま答える。「なにがしたいの」
「あの……、だから。好きなことしていいよ? 鞭とか、持ってくる?」
「鞭?」彼は嘲笑を眼に湛えた。「叩いてほしいの」
「だって……」
「どこまでならしていいの?」
 わずかに眼が滾った気がして、これで間違いなかったのだと心中で頷く。
「頑張るわ! さっきだってずっと我慢してたでしょう? こういうのは得意なの」
 彼はふっと笑うと、ぱちんと指を鳴らした。静かな破裂音に疑問を浮かべる間もなく、首が何かに掴まれた。見えない手がぎゅうぎゅうと締めていく。首筋に指が埋まる感覚がする。
「っツ、あ…………ぁ、あ」
 喉が潰され呼吸ができない。頭の奥が痺れ、顔が徐々に冷えていく。瞼が閉じられない、魚のように口がぱくぱくと震え空気を求める。前にいるラムズ・シャークの膝を掴む。やめて。苦しい。喋りたいのに声にならない。空気を掻くようにわずかに吐息が落ちていく。指先がみるみる冷たく重くなり、意識が白に犯されはじめる。彼が怪しく微笑むのが幻覚のように朧ろになったころ、ようやく喉の圧迫感が消えた。
「っは! ハァッ!」
「全然我慢できてねえじゃん」くつくつと嗤い、咳き込む私を見下ろしている。
「った、っは。ハァ」息が戻ってくる。「こ、殺す気?」
「どこまでやっていいか聞かなかった?」
「こんなのダメに決まってるじゃん」
「お前が頑張るって言ったんだろ」
 充血した目で彼を見、小鼻を膨らませた。本当はもっと怒ってやりたかったけど、幸い殺されたわけではない。だいぶん行き過ぎたサディストなんだろう。オーナーを呼ぶほどじゃない。
 私は息を整えたあと、なるべく優しい表情を作った。
「もう少しプレイらしいこと……しない?」
「そればっかりだな」
「殺すんじゃなきゃいいから……」
「嘘付け」彼は鼻で笑い、私の指に視線を送った。
 何か言う前に人差し指が逆方向に曲がりはじめた。「た! いた、たたたたたいッ! 痛い!」
 手で抑えて戻そうとしても、力が敵わない。幸い手加減してくれたのか、直角に曲がるよりも前に魔法は止んだ。
「いた、い……。痛いよ」涙目で彼を見上げる。
「諦めろって」
「わかった……」さわさわと指を撫でる。どうなってんの、魔法にしても詠唱もなしにあんな高度なことをするなんて。「そっちは付き合いきれない、諦める。でも気持ちよくするほうならいいでしょう?」
「面倒くせえなあ」
 露骨に嫌悪感を剥きだしにし、睨めつけるように目を尖らせた。冷ややかな眼差しに心臓が凍りつく。
「……髪にもついてんのか。じゃあいいや」彼は椅子から立つと、ベッドに腰掛けなおした。「ほら、床に座って」
 かちゃかちゃとベルトを外し、ズボンのチャックを開く。私は地べたに座り正面で彼を見上げた。
「舐めて。立たせられたらやってもいいよ」
「ん、うん」
 私はベッドに近づき、彼の膝に手をかけた。一切装飾のない声が降りる。
「触らないでね、俺の宝石。ベルトとか」
「わ、わかった。大丈夫」
 彼の腰に手を回す。服は言われていない。宝石に触れなきゃ大丈夫……。私はスボンの隙間から彼の一物を取り上げる。立たせてと言われたものの、あまり柔らかくないし、小さくもない。そして他の人よりずっと白かった。使ってる? これ。美しいとまでは言えなくとも、少なくとも肉棒らしい醜さや禍々しさはあまり感じられない。ペニス周りの茂みはほとんどなく、彼の髪色に影をこぼした程度の薄さだった。下半身までモデルのように美しいのかと、私は溜息を落とした。
 おそるおそる顔を近づけ、口に含む。味も匂いもしないし、滓や恥垢がついていることもない。凹凸はあってもどこか滑らかで、最早清潔感すらあるような気がして、肉棒を咥えているとは思えなかった。
 私は懸命に舌や手を使い、彼のペニスを愛撫しつづける。くにくにと舌で先をつつき、じゅぽ、じゅぽ、と音を立てて唾と一緒に奥まで咥えこむ。喉を締めて舌や頬の裏側いっぱいにそれを包み、上下に頭を振った。裏筋や根元にちろちろと舌を這わせ、優しく添えた手で扱く。
 そのあいだ、彼は私の耳元を弄っていた。いや、耳じゃなくて耳朶にぶらさがったピアスか。それに飽きると、髪に飾られた小さなティアラに触れ、向きを変えて楽しんでいる。
「っね、ねぇ」
「なに?」
「もうちょっと……こっちに集中してくれない?」
「好くしてくれんだろ」
「そ、そうだけど」彼が耳をくすぐる。冷たい指先に鳥肌が立った。「宝石ばっかり見てたら、気持ちよくてもそういう気分になれないよ?」
「お前の仕事だろ、頑張れよ」
 頬を膨らませる。媚びるように上目遣いで彼を見た。
「お願い。どうしたらいいか教えて? もっと強く握ってもいい?」
「んー。なんでもいい」
「えぇ、これは?」さっきより強い力で擦ってみる。私の唾液で滑りのよくなったそれが、じゅるじゅると音を立てる。
「いいんじゃない」
「もっとしてもいいの?」
「いいよ」
 やっぱり彼、ショゴスミなんだ。そういう人って強く擦りすぎている人が多い。私はさっきよりもずっと力を込めて擦ってみた。……反応なし。
「まだだめ?」
「まだって?」
「もっと強くしてみる」
 半信半疑ながらもさらに強く握ってみた。強すぎる気がするけど、まったくなんの反応も示さないんだもん。せめて痛いって言うとか、顔を顰めるとか、逆に良さそうにするとか、もう少し何かあってもいいのに。
 ほとんど潰していると言っても過言でないくらいに強く握ったのに、彼はやっぱり何も言わなかった。永遠にピアスや髪飾りをいじっている。
 弱音を吐きそうになって、必死に目を見開いた。ずいぶん強い力で扱きながら、再び舌を使ってペニスをいじめる。