シュレディンガーの心臓

 何を聞こうかと頭を巡らせたが、夜の仕事しかしてこなかった私にはたいしたものは思いつかなかった。
「ラムズはお貴族様よね? お仕事、大変?」
「そこそこ。面倒だよ」
「子供はいる?」
「いない」
「あら、そうなの。まだ若いものね」くすくすと笑い、また尋ねる。「婚約者はいるでしょう?」
「いねえな」
「え、まだいないの? 決めてないの?」
「そうだな、決めるつもりもねえかな」
「でも、お貴族様は結婚しないといけないでしょう? 跡継ぎが必要って聞いたわ」
 彼は私の首に手を回し、ネックレスを外した。代わりに新しいものを取り上げる。
「大丈夫、てきとうにやってるから」
「……ふーん。じゃあ、彼女や懇意にしている方もいないの?」
「いねえな」
「えぇ〜! びっくり〜! こういうお店にも来ないんでしょう? てっきり、最初は見た目に反して一途な方だと思ったのに」
「見た目に反して」そう繰り返すと、目尻を寄せて笑った。
「じゃあむしろ女遊びが激しいの?」
「さあ……」感情の抜けた声が降りる。「ふつうじゃねえか」
「そう言う人に限って、毎日女の子を漁ってたりするのよ」
「毎日はねえな。面倒だから」
「面倒って」少し笑った。「じゃあどんな子と遊ぶの?」
「……かわいい子?」
「ちょっとぉ、絶対嘘でしょ。それなら今日最初に声掛けてた女の子と話してるはずだよ?」
「バレた」
 そう即答されるのもちょっと悲しい。「本当はなに?」
「さあ、そのときによんな」
「もう〜。モテるでしょ?」
「困ってないね」
「うらやましぃー」
 ネックレスを見る、伏し目がちの瞼を眺める。ダイヤモンドみたいに長い睫毛が煌めいている。そのあと揃いの銀髪に目をやった。
「どうやったらこんなに綺麗な髪になるの? 同じ銀髪のお客様でも、こんなに綺麗だった方はいないかも」
「銀髪のお客様?」
「ラミアのお客様とか、お相手したことあるわ!」
「へえ。どうだった?」
「キスが上手だった〜! 舌が裂けてるからかなぁ? 楽しいの」
 ネックレスを触りながら呟く。「お前けっこう素直に話すよな」
「え? 素直って?」
「ふつう他の客の話は躊躇うんじゃねえの」
 私は思わず口に手を当てる。「わーん、きっとラムズのせいよ〜。だってぇ、あんまりお仕事してる気になれないんだもの。気ぃ悪くした?」
「いや? そのままでいいよ」
「なにそれ、優しーね」
 最初から色っぽい声だと思っていたけど、静かなアルトがあまりに心地よくてだんだん心が和んできた。彼の指が肌に触れる感覚にはいちいち緊張してしまうけど、それを掻き消すように気分が凪いだ。ずっとこうして話していたいとすら思う。
「声も素敵だね?」
「ありがとう」
「かっこいいー」
「どうも」
「よく言われる?」
「そんなに」
 私は頭をひねった。「こんなにかっこいいのに?」
「お前みたいに、『かっこいいかっこいい』とは言わねえ」
 とんと手を打った。「そういうこと。あんまり格好いいから、みんな萎縮しちゃってるのかも。近寄り難いオーラがあるわ」
「そうかもな」
「逆にどんな反応される?」
「んー……」首を傾げ、彼のダイヤのピアスが揺れた。「人によるな。照れるやつもいるけど、他より厳しい目で見るやつもいる」
「思ったより苦労するのね? 女の子でもそーお?」
「そうだな、全員に好かれるわけじゃねえよ」
「気になった子に嫌われたことはある?」
「容姿で?」
「んー、うん」
「上手くいかねえだろうな、って子はいたよ」
「どうするの?」
「諦めるよ」
 そっと体を揺らす。「意外〜。頑張らないの?」
「時間の無駄だろ」
「うわ、ひど。それって好きって思ってないじゃん」
 薄く笑った。「たしかに」再び口を開く。「お前は?」
「私なら頑張るわぁ〜。嫌われない限り、アタックするう」
「成功した?」
「成功したこともあるわ! でも、仕事が仕事だからなぁ。決まった相手はあんまりいないかも」
「ほしいの?」
「お金持ちのお家に嫁ぎたいなぁ〜!」ちらっと彼を見る。「ラムズだったらとっても嬉しいわ」
 ほのかに唇に笑みを寄せ、からかうように言った。「お前もたいがいだな。今日会ったばかりだろ」
「早すぎ?」意外と好感触なのが嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「さっき殺されそうになった男によく言う」
「あ、そういえばそうだった、忘れてたわぁ!」手を頭に当てて悪戯っぽく微笑んでみる。「都合の悪いことはすぐ忘れちゃうのよね。お嫁さんにしてもらっても、殺されちゃうのは嫌だなぁ〜」
「しねえから安心しろ」
「え? どっち? 殺さないってほう?」
「まさか」
「ちぇー」そっと尋ねる。「遊女は嫌?」
「いや、誰とも結婚はしない」
「誰とも? どうして?」
「面倒だから」
「ちょっと〜。好きな子ができたらそんなこと言えなくなるよ」
 彼は私の髪飾りに視線を送っている。「どうなんの?」
「え?」
「お前は本当に好きな男ができたら、どう思うの?」
「そんな直接聞かれると、んんー」指で腕を何度かかいた。「ずっと一緒にいたいって思うんじゃない? 相手を支えたいとか、力になりたいとか。そばにいてほしいって思うし……。最後死ぬときまで暮らすよっていう約束がほしくなるわぁ」
「一緒に死ねるわけじゃねえだろ?」
「そうだけど……。それでも、ギリギリまで相手の人生の一部になれたら嬉しいなって思うわ」
「へえ、そっか」彼は唇だけを歪め、静かに声を落とした。「じゃあ、そう簡単に客に結婚してなんて言うなよ」
「冗談だってば〜」
「本気にする男もいるだろ」
「そういう人には言わないから、大丈夫」彼が触っていないほうのピアスを転がした。「心配してくれてるの?」
「お前、下手くそだから」
「はぁ〜? 何がよ?」
「相手」
「ちょっとぉ。でも選んでくれたのはラムズじゃない」
「俺にはいいが。客は俺だけじゃねえだろ」
「んんー、まぁ」こつこつと自分の膝を指で叩く。「説教してるの? ラムズは娼婦じゃないでしょ」
「まあ。だが、娼婦の真似事はよくしてたから」
 くりくりっと目が動いた。「え、そうなの? 男娼?」
「そんなとこ」
「いつ? どの店? こんな顔のいい男が男娼してたら噂になるよ? 聞いたことない」
「お前は知らねえよ。ずっと前だから」
「ずっと前?」
「それに『そんなとこ』って言ったろ」
 自分の前髪をくるくると弄ぶ。「じゃあ逆に、どう相手したらいいの?」
「俺に聞くの?」
「ラムズから始めたんじゃん」
「そうでした」彼は笑い、瞳を少し揺らした。「まあ例えば……好意を伝えるのは悪くねえが、決定的なことは言わないほうがいい」
「決定的なこと?」
「さっきの『結婚してほしい』とか。場合によっては『好き』とか」
「かっこいいもダメ?」
「そっちはいいんじゃねえ、喜ぶ人は多いだろ」
「素直でいい子って、よく言われるんだけどなぁ〜」
「お前はもう少し強かだろ」
 どきりとして彼を見つめた。へらりと舌を出す。「バレたぁ〜?」
 ラムズは静かに笑い、弄っていた私のネックレスを離した。
「言葉ってな、強すぎんの」
 彼が首に手を回し、吐息が私の唇を湿らせた。
「表情と振る舞いだけでいい」
 そっと外すと、新しいものを取り上げる。こちらに向きなおると、また首へ手を伸ばす。かすかに冷たい指先が首を滑り撫で、かち、とネックレスの止まる音が聞こえる。瞳が合った。
「ん?」わかった?、そんなニュアンスで眉をほんの少し持ち上げる。
 私はどぎまぎして彼の手を掴んだ。「触り方がえろい〜」唇を尖らせ、意味もなく自分の手を揉みほぐす。
「お前も頑張れ」
「お客さんに慰められたくない〜」
 彼はもう私から目を離して、新しい宝石を掴んでいた。
「んー、そうだ。……髪、触ってもい?」
 彼はゆっくりと答えた。「まあ、いいよ」
 ラムズは相変わらず私のピアスを見ていたけど、私はそろそろと髪に手を伸ばした。ほどよく跳ねた髪は思っていたより柔らかくて、すっと指がすり抜けるくらい滑らかだ。さらさら。こういう髪質ならストレートに流れそうなのに。
 髪から耳をとおり、首筋に手を当てた。顔も冷たい。本当に人形……いや、陶器みたい。滑らかな肌だ。ふつうの男の人とは大違い。首筋を指が伝い、角張った骨を這い、鎖骨をゆるゆると撫でる。
「誘ってんの」
「えへへ、わかる?」
 彼はくすりと笑い、私のピアスを外した。新しいのに付け替える。「そうやって笑うのは、悪くないね」
「え、ほんとぉ?」
「ああ」
 これだけで気分が上がるなんて、けっこう私は単純なのかもしれない。胸元に手を当てる。「なんでこんなに冷たいの?」
「病気みたいなもん」
「酷い病気〜」
 笑みがうっすらと浮かんだ。「だよな」
 会話が止まるのがなんだか嫌で、私は絶えず口を動かしつづける。
「……ラムズ、し終わったら速攻帰るタイプでしょ」
「いや?」
「本当? 嘘だぁ。だって面倒くさいでしょ?」
「寝てればいいんだから、楽だろ」
「そこ? じゃあ腕枕もしてあげる?」
「まあ。だがお前らはそういうの、望んでないんじゃねえの」
「あ〜。でも、長い時間一緒にいてくれるのは嬉しいわ。ラムズもまだ帰らないでほしいなぁ」
「なんで?」
「かっこいいから〜!」
「お前の好み?」
「そうかも。私はどう?」
「ふつう」
「酷いなぁ〜、もう少し取り繕ってよぉ」
「取り繕ったら信じてくれる?」
「それは、信じないかも」
「ほらな」
「でも嬉しいもん」軽く笑うだけのラムズに、ちょんと唇をつついてねだってみる。「いじわるぅ〜」
 ラムズは手元のブレスレットから顔を上げた。青眼がこちらを見て、それだけで胸がどく、とひとつ鳴った。眼を眇め、ほんの少し右に頭を傾ける。あまりに熱っぽく蠱惑的な視線に目が釘付けになる。強ばった肩をそっと引き寄せ、耳元で湿った吐息を漏らした。
「綺麗な子だね。お喋りなのも、けっこう好きだよ」
 堪えきれなくなって、さっと顔を下ろした。いつもの倍増しで魅力的だった。声色も表情も、全部が全部心を滅多打ちにしてぎゅんぎゅん絞ってくる感じがする。一気に顔が熱くなり、脈拍が喘ぐように早まった。
「……反則、だから」
 彼はくくと笑った。「娼婦がこんなんに負けてどうすんの」
「ずるいよ。でも嘘だよね」
「嘘はついてねえが」
「ふ、ふーん……」お喋りなの、好きなのかな。「うるさくなくてよかったわぁ」
「こんな返しじゃ、お前がつまらねえだろ」
「わかっててやってるの?」
「いつもならもう少し喋るかな」
「なんで今は素っ気ないの?」
「宝石を見てるし……」つうと首筋を指がとおり、ガーネットのピアスを優しく撫でる。「オフモードだから」
「オフモード?」
「あまり飾ってない」
「えっ、それって気を許してくれてるってこと?」
 彼は笑い、こちらを見ないままに答える。「違えな、取り繕う価値がねえってことだな」
 さっき綺麗とか言ったくせに。酷い男だ。「意地悪」
「知ってる」
「いつも女の子をいじめてるの?」
 薄い笑みが落ちて、ネックレスのダイヤモンドが彼の瞳を煌めかせた。「優しくしてるよ」
「嘘だぁ。がつがつやるタイプでしょう?」
「相手がそう望むならね」
「ラムズの好みは?」
「ない」
 拍子抜けする回答に、一気に力が抜ける。「もしかして、やっぱりショゴスミなの?」ひそひそ話をするように、声色に艶を込めて聞いてみた。
「ショゴスミ? ショゴスのこと?」
「あー、そうだけど。私たちの言葉で……んーと。つまりペニスが使えないってこと! ショゴスってふにふにしてるでしょう?」
「ああ、なるほどな」
「そうなの? 治してあげようか? そういうの治すのも、お店でできるのよ」
「ショゴスミじゃねえ。だから大丈夫」
「ふーん……」
 私は彼の足に手を添えた。せっかく美青年に抱いてもらえると思って楽しみにしていたのに。この調子じゃ本当に興味を持ってもらうことは難しそうだ。
「お前にとっては、やるほうが楽か」
「そうねぇ〜。だって、ラムズとってもかっこいいもの。みんなラムズに抱いてほしいって思ってたわ?」
 彼は小さく笑い、髪飾りに手を伸ばす。何度も角度を変えて宝石を見ている。
「お前も?」
「そうだよ! だから頑張ったのに」
「ああ、それでご褒美って言ったんだ」
「うん! ラムズはキスも嫌い? 女の子も?」
 髪飾りをそっと外す。しばらく見てから、また新しいものを手に取った。
「いや、別に嫌いじゃねえよ」
「それなら少しくら──ッツ、ひゃ、い」
 青の視線が交わり、顎に手を添えられる。冷たい親指が下唇をゆっくりとなぞった。
「抱いてほしいの?」
「ん、ん……うん」
 流し目が柔く顔を撫でて降りていく。瞼が被さり、長い銀の睫毛が目元に黒を落とす。胸元がどくどくと脈打ち、爪先が痙攣する。
「みんなに抱いてほしいと思われてんのに、やすやす体を売るやつがいるか?」
 彼は手を離した。答えを間違えたらしい。
 高鳴っていた胸が沈んでいく。何事もなかったように、持っていた髪飾りを頭に付けられる。
「お前んとこだってそうだろ。高級遊女はそう簡単に体を許さない」
「……まぁ」
「いちばんになりたいなら、お前もそうしたら」
 痛いところを付かれる。店に入りたての今じゃ、そんなことしてたらお客さんがつかないのに。
「ラムズは男娼のつもり?」
「攻守が逆転すれば、そういうことになるんじゃねえ」
 すんなり納得した。たしかにお客様側が私たちを望んでるんじゃなく、私がラムズを望んじゃってるかもしれない。
「自信なくすわあ……」
「俺が変わってるだけだから、気にしなくていい」
「自分でわかってるの?」
 私に合わせるように、ラムズも笑ってくれる。「わかってるよ」
「私の胸や体にも興味ない?」
「ないね」
「性欲、ないの?」
「そうだな、ねえかな」