欺瞞

 一ヶ月前に聞いたはずの彼の声はひどく懐かしくて、それだけで泣いてしまいそうになった。会えて嬉しい、顔を見れて嬉しい。だけど、裏切られたことへの怒りや悲しみも奥で渦巻いている。どこから話せばいいかわからず、声にならない声が何度か漏れた。
「わた……私、いちばんになった」
 そんなことが言いたかったわけじゃない。咎めたかったんだ。なんで来なかったの、って。怒ろうと私の顔が強ばりはじめたとき、ラムズがそっと微笑んだ。
「頑張ったね」
 誰よりも小さな微笑み。ほんの少し目尻が下がり、口角が気持ちばかり上がるだけ。それで、透きとおった雫が静かに垂れるような、柔らかな囁き声が落ちる。でも、その顔が本当に好きだと思った。
 いつも冷えきった眼をして、血の通わない表情でこちらを見下ろすばかりなのに、このときばかりはあまりに綺麗な眼差しで、膝から崩れ落ちそうになった。
「パメラっ!」
 そばに来ていたライネルが私の体を支える。
「もう帰ろう。いいでしょ、会えたじゃん」
 私が何か言う前に、ライネルがラムズに向かって口を開いた。「違う店で飲んで。早く出ていってよ。もうパメラに付きまとわないで」
 彼女を見た。女の勘は鋭い。ライネル、初めて話したんじゃないの? 
「ねぇ」彼女の腕を放す。咳払いをして、丁寧に問いかけた。「ラムズと話したことあるの」
「ない。初めて話した」
「嘘でしょ。わかるから」私はラムズを見た。「ねぇ、会ったことあるの?」
 彼は静かに答えた。「ねえよ」
 ラムズの嘘はわからない。でも、ライネルが嘘をついているのはわかる。
 私は彼女を揺すり、目と目を合わせて問いただした。「あるでしょ、なんで? どこで? なにしたの? どういうこと? なんのために話したの?」
「……別に、パメラの客と話しちゃいけないなんて話はないでしょ」
 ライネルは目を逸らした。
 裏切ってたってこと? ライネルもラムズと話したくて、だから私に諦めさせようと──。無意識に掲げていた手を、誰かが掴んだ。
「パメラ」
 手首から冷たい温度が回り、頭が冷えていく。ライネルのこと引っぱたこうとしちゃった。まぁ、してもよかったけど。
「ラムズは黙ってて。うちらの問題だから」ライネルを睨んだまま、淡々と言った。「話すのは勝手だけど、客を取るのはご法度でしょ。しかも友達なのに」
「……違、いや。だから、やめたほうがいいって言ったじゃん」ライネルは意地悪く笑った。「パメラなんて興味ないって言ってたよ。私と話すほうが楽しいって」
「あんたさあ!」
 今度こそ掴みかかろうとしたのを、またラムズに抑えられた。「なに?! ちゃんとあとでラムズにも話は──」
「殴んのはやめとけ」
「どうして? 裏切ったんだよ? 友達なのに」
 ラムズに腕を掴まれたまま、私は彼女に叫んだ。
「ねえ、なにしたの? どういうことよ?!」
「とりあえず、店出ろ」
 私は彼に引っ張られ、ライネルもしぶしぶ私たちの後ろからついてきた。
 夜風が頬を撫でる。思ったより寒く、ぽつぽつと鳥肌が立った。長袖のフードを被っても、風が吹き込んで露出していた肌を冷やしていく。
 ラムズはジャケットを脱ぐと、私の肩にかけた。
「着とけ」
「なにそれ」
「風邪ひくよ」
 ライネルは物言いたげな目でラムズを睨んでいる。彼はその目には一瞥もやらず、店の壁に体を預けた。
 落ちつかない様子で辺りを見回すライネルに、私はもう一度畳み掛けた。
「で。早く話して」
 彼女は少しばかり胸を張り、変に語調を強めた。
「ちゃんと抱いてくれたよ、私のことは。パメラ、胸小さいからダメだったんじゃない?」
「はあ?」
 たしかにライネルのほうがスタイルはいい。身長は高いし、胸や尻が大きい。着込んでいてもわかるくらいだ。でも別に私だって小さすぎるわけじゃないし──ってそうじゃなくて。
「ラムズがそんなこと気にするわけないでしょ」
「小さいあんたに言うわけないじゃん。がりがりだからそういう気が起きないって言ってた」彼女はせせら笑うように答えた。「ねぇ? ラムズ」
 彼は興味なさげに答える。「ああ、言った」
 嘘だ。絶対嘘だ。ぎちぎちと血管が張っていくような気がする。
「別にがりがりってほどじゃない。骨が見えてるところなんてないもん」
「でも私の体のほうが好みだって。あんたチビだし。ラムズとじゃ低すぎんでしょ。入れんの大変だよ」
 怒りと困惑で頭がいっぱいになる。彼女の言葉が理解できない。絶対変だ。ここまでした私が邪険にされて、店の外で会っただけのライネルが大事にされてるなんて、そんなのありえない。
「すぐ他の子に手出すような男だし、あんたのことは興味ないみたいだし、クラウスと幸せになんな」
「いちいちライネルにそんなこと決められたくない」じろりと睨む。「本当にシたの? いつ? どこで?」
「宿借りて。ぜーんぶやったよ。最初から最後まで。ね?」
 ライネルがラムズに放ると、彼は背を壁に預けたまま、また軽い調子で呟いた。
「ああ、したよ」
 酷い。私とはしてくれなかったのに。酷い、酷い、酷い。酷いよ。
「もっとちゃんと言ってあげてよ。おバカなパメラはまだラムズを信じてんだから」
「あー……」ラムズはつまらなそうに声を上げたあと、振り向いた私に目を合わせた。艶っぽく嗤いかける。「お前が待ってるとわかってて裏切るのは、楽しかったぜ」
「嘘だ。嘘つき。嘘つき、嘘つき! ライネルとするわけない! そんなの想像できないもん! 絶対してない、してない!」
 私が彼に掴みかかると、その両手首をぎちぎちと抑えられた。冷たい低音が落ちる。「したって。舐めんの、お前よりはうまかったよ」
 目に涙が滲み、喉の奥がつんと締まっていく。「嘘だ。嘘つき、嘘つき。嘘つき。まったく気持ちよさそうにしてなかったじゃん。絶対違う。するわけないもん。私にはいろいろ言ったのに、ライネルはそんな。店の外で会っただけで」
「したいと思った女なら関係ねえだろ」
 なにそれ、なにそれ。酷い。全部嘘だったってこと? たしかにラムズは酷いけど、だけど。でもそこは嘘じゃないって思ってたのに、そんなの。
「で、でも私のことはまだ……」
 ぽつんと小さく残る光に縋りついた。最悪本当に抱いていたとしても、私が彼に捨てられないなら、それなら──。
「飽きた」彼は嗤い、手を離して軽く後ろへ小突いた。「帰んな」
 足が震えもつれる。腕が力なく落ち、視界が黒に犯されていく。隣のライネルが勝ち誇ったようにぺらぺらと口を動かした。
「ほらね。言ったじゃん? 私にはちゃんと仕事させてくれたよ。服脱がして、ベルト外して、ズボン下ろして、全部やらしてくれた。あんたなんて」
 ぴたりと思考が止まる。すっと緊張が抜け、脳を覆っていた黒が止まった。「嘘でしょ」
「本当だから。信じたくないだけでしょ。さっき捨てられたくせに」
「ヤったのは絶対嘘」
「違う」
「嘘」
「ラムズもそう言ってんのに?」
「ラムズは……好きに、嘘つくもん」
「あっそ」
「でもライネルは絶対嘘ついてる」
 彼女は眉を上げた。「なんで?」
「ラムズがベルト触らせるわけないもん!」
「……私には、触らせてくれた。あんたは気を許してもらってないんでしょ」
 ほらね。嘘だ。あれはそういうんじゃない。いろんな客と仕事してればわかる。絶対に踏み込んではいけないところって、誰にでもある。ラムズはそれが宝石だ。
 彼女とか、妻とか、そういうの関係なく、彼は何があっても触らせない。これは絶対に間違ってない。
「なんなの? ちゃんと全部正直に言ってよ」
 彼女は口を窄めたまま、あさっての方向を見て無視をしている。ライネルじゃ埒が明かない。私はもう一度ラムズに尋ねることにして、彼に詰め寄った。
「あ、会ったんだよね? 本当はなにしたの?」
「さあ」軽い口振りで答える。「もう言ったろ」
「ちょっと、本当に怒るよ。どうして誰も本当のこと言ってくれないの?」
 扉が開き、店から人が出ていく。
 ラムズはライネルのほうを見下げ、煩わしそうに答えた。「もう話したら。無理あるぜ」
 ライネルは目を見開く。「ちょっと」
「お前が悪い」
 ラムズはからかうように言った。
「なにしたの? どういうこと? ……あ。え?」
 ライネルはそもそも、そんな狡い真似をするような女じゃなかった。本当にラムズを気に入ってるなら、正々堂々私に勝負しに来るはずだ。それにラムズは私にライネルを殴らせなかった。二度も。
 ヤったわけじゃなくて、でも話したことがあって、ライネルは何度もクラウスと結ばれろなんて言って──。
「あんただったんだ」
 締まっていく喉から、干からびたような低い声が出た。
「ラムズに言ったんでしょ。私が人気になっても店に来ないでって。だから来なかったんだ」
 彼女は観念したように肩を竦めた。「パメラのためだよ。それに、ラムズは二つ返事でOKしたよ。それってつまり、結局パメラのことはどうでもよかったってことでしょ」
「なにそれ」
「それに、リリーに頼まれてキスもしてた」
「は」
 ぎちりと歯を鳴らす。ヒールで砂をぐりぐりと擦った。
「抱いてくれたわけじゃないけど、リリーが金渡したら、喜んでキスしてたよ」
「あぁ、そう」私は振り返り、ラムズを見た。「ほんと?」
「したね」
「すんごい甘いやつ」ライネルはわざわざ付け足した。
「いくら渡したわけ?」
 彼女は五本の指を広げる。
「銀貨五枚? たったそんだけ?」
「そう。そんだけでやってくれたよ。だから言ったじゃん、相手にするだけ無駄だって」
 信じたくない。……でも、ただのキスだ。私だっていろんな人としてる。ラムズはお客さんなんだから、他の娼婦としてたって何もおかしくない。それにお金をもらってしたんだから、そんなの。
「なあリジュー、いつまでやってんだよ。こっち戻らないわけ?」
 ぱっと後ろを振り返ると、さっき店から出てきた男がそばに来ていた。見覚えのある顔だ。
「ハーミズ……」
「わぉ! 覚えててくれたの? さすがだね〜。リジューが目をかけてるだけある」
 一度、ウェルリッチ氏と一緒にやってきた少年だ。いや、少年の見た目をした何か。ウェルリッチ氏とラムズの前で、「どっちの宝石が綺麗か」なんて馬鹿げた質問をした男。
 こいつが絡むとろくなことが起こらないような気がした。客になることもなさそうなので、私は侮蔑も込めて睨みつけておく。
「お前うるせえから戻れ」
 ハーミズは彼の体を小突いた。「つれないなぁ〜。冷たい男だし。ねぇ、パメラちゃん?」
「関係ないでしょ」
「あるよ〜あるある。僕もその子が来たとき、リジューと一緒にいたからね」
 ライネルは慌てたように口を開いた。「とにかく、そういうことだから。もう店には来ないっていう約束になったの」身振り手振りが無駄に大きい。「だからパメラ、私たちは帰ろう」
「なに慌ててんの?」さっと言い返す。「まだ隠してることがあるってこと?」
 ライネルは首を振った。「別になにも」
「嘘つきなお嬢さんだね。銀貨五枚なんて、そんなやっすい金でリジューがキスするわけねーだろ」ハーミズはキヒヒヒと笑い、赤い眼を爛々と輝かせた。「クズ石だって買えやしない。それに喜んでしたなんて、あんなにしつこく付き纏ってたのに? ずいぶん杜撰な記憶力だね」
「ハーミズ、言うなって」ラムズは溜息混じりに落とした。
「もう言っちゃった」彼はぺろりと舌を出し、蒼白気味のライネルを見てさらに楽しそうに笑った。「僕は言わない約束、してないもんね」
 そのあと私の肩を掴み、覗き込むように腰を曲げた。
「どう? 知りたい? 僕はいつもなら嘘のほうが得意なんだけど、今回に限って真実のほうが面白そうだから。今ならなんでも答えてあげる! しかも……タダで!」
 胡乱な目で彼を眺めた。変な男だ。でも聞いておいて損はない。私は遠目でライネルを見、そのあと彼に焦点を戻した。ゆっくりと頷く。
「教えて。変な脚色しないで、本当のことを言って」
「りょうかいです」ぴっと眉に手を寄せる。「あの夜、ラムズはライネルたちを待っていたんだ」