逃亡
細かいラムズの返答が聞けたわけではないけれど、ともかく、話の概要はだいたい掴めた。ライネルが気を回してラムズに私と会わない約束と、話を合わせる約束を取り付け、リリーはキスをせがんだ。
「金貨五枚で私と会うのをやめたってわけ」
ハーミズはそばかすのついた顔を歪め、呆れた顔で首を振った。
「今の話でどうしてそうなんだよ。そっちは先に『会わない』って言ってたって。交換条件には出してない」
「……ふぅん。でも、二つ返事だったんでしょ」
「そうだね。侯爵が身請けすることになったとか、君のためによくないからとか言ったら、すんなり納得してたよ」ハーミズはにこにこと笑う。「というか。ここまで話したんだからもう本人たちに聞いたら?」
ハーミズはわざとらしく身を引くと、後ろにいたラムズに向かってひらひら手を振った。
私がラムズに話しかける前に、ライネルが私の手を握った。
「ねぇ! 悪かったよ。勝手にいろいろして。でも本当に心配してやったの」
「……でも、私が楽しみにしてたことは知ってるでしょ」
「知ってるよ。だけど知ってたからこそ怖くて……。あんたの幸せを考えたらさ」
「私の幸せって何? クラウスと一緒になること? ライネルに決めてもらう必要なんてない!」
「でもおかしくなってんじゃん! 前よりずっと精神ガタガタだし、どうせクラウスのこともラムズに相談するつもりだったんでしょ? そうしたら『行くな』って言われるに決まってる!」
私は口を結んだ。少なからず彼女は間違えたことは言ってない。たしかに相談するつもりだった。それで彼が『行くな』って言ったら────。足元を見て、滲んできた涙を堪える。
「別に、関係ないじゃん。私が誰の言うことを聞こうと」
「あたしたち友達じゃん。金でキスを買うような男、信じちゃだめだよ」
ハーミズはひゅうっと口笛を吹いた。「すげぇ、こいつ。素で言ってる?」
ラムズが黙ったままなので、ちょいちょいと脇をつついている。「なんか言ってやんなよ」
彼はハーミズを見下ろし、薄い笑みを零した。「じゃあ、信じちゃだめだよ=v
ライネルはきっと彼に目を据え、私の体を引っ張った。「悪いやつだって。絶対そう。そもそも人間じゃないんだよ。騙されてるんだよ。顔がかっこいいだけで、パメラのことなんて何にも思ってない」
私は腕を振った。「勝手に……勝手に、いろいろ言わないでよ!? 金でキスを買うって──」悔しくても、ハーミズの言うとおりだ。「私たちだって一緒じゃん。それにライネルもリリーと一緒に提案したんでしょ? ラムズは嫌がってたって言ってたし」
「パメラを大事に思ってたら、金貨五枚でもやらないでしょ」
「……それは。宝石が好きなんだから」
「浮気されてもいいの!? 上手くいっても、きっと何度もそういう目に遭うよ!?」
「そんなの、クラウスのところに行っても同じでしょ!? 正妻はいるんだから!」
ライネルは押し黙った。
口に苦い唾液が広がっていく。どうしたらいいかわからない。ライネルの気持ちは嬉しい。私のことを思ってくれているのはわかった。だけど、私の感情やラムズのことを決めつけられたくないし、私の人生を彼女に選ばれたくもない。そもそも否定されたくない、私の気持ちも彼のことも。どんな人だって、好きな人には変わりないじゃん。友達なら応援してよ。
……かといって、こんなふうにライネルに声を張り上げたいわけじゃなかった。
ぐるぐると黒い燻りが体を回っている。浅い呼吸を繰り返し、右手で左の手首を引っ掻いた。わかんない、わかんないよ。ライネルの言うことを聞いて、クラウスと一緒になんないといけないの? それが私の幸せなの?
ぎぃ、と店のドアが開く。またラムズの知り合い? ──と思ったら、『がらん堂』の店員だった。彼はドアのいちばん近くに立っていたライネルに手招きする。
「あの、少しうるさいんだけど。ずっとここで言い争ってる気? 他の人たちも連れて別の……」
店員はぶつぶつとライネルに咎めはじめる。
私の前で壁にもたれかかっていたラムズが、こちらに近づく。冷たい手が私のそれと絡む。
「来て」
私が顔を上げると、彼はそのまま踏みだした。ライネルがいるほうとは逆方向に進みはじめる。足の長い彼に追いつけなくて、私は小走りでついていく。
「ら、ラムズ。待ってよ。どこ行くの? ライネルたちは? 置いていくの?」
彼はこちらを振り向くことすらせず、ただひたすら歩いてしまう。
「すぐ見つかるよ?」
私は足をもつれさせながら後ろを見る。ライネルはまだ店員と話をしている。何度か振り返りつつ歩いていると、100メトルほど離れたところで私がいないのに気づいた。
「ねぇ、気づいたよ。追いかけてくるよ」
ライネルは心配そうに辺りを見回している。店の外で控えていた傭兵とともにこちらに歩いてきた。なぜか私たちが見えないのか、視線が合うことはない。
あと少しで追いつかれそうだというところで、ラムズは私の腕を引っ張り、細い路地に詰め込んだ。後ろからお腹に腕を回し抱きすくめられ、口を手で覆われる。
「静かにしてて」
彼のハスキーな低音が耳を湿らせる。小柄な私の体はすっぽりと彼に包まれ、あちこちでラムズの体つきを感じた。こんなにきつく抱きしめられたことあったっけ。私はこくこくと頷いて、自分のうるさい鼓動に意識を凝らした。
しばらくするとライネルの声が聞こえてきた。
「どこに行ったの? また魔法をかけて、見えなくなっちゃったってこと?」
傭兵は頭をかいて答える。「そうかもしれないっすね〜。魔法のほうはからきしなんで、ちょっと見破るのは……。きっかけがあれば、よっぽどの魔法じゃなきゃ解けると思うんすけど」
ライネルは周囲を見回した。私たちのいる路地にも足を踏み入れる。そこで、そっと目も覆われた。冷たい掌にびくんと肩が揺れる。
「見ちゃだめ」
掠れた吐息が耳元で囁く。心臓の音でバレそうだ。ライネルに見つかりそうっていう不安のほうか、ラムズに口や目を覆われているっていうドキドキのほうか、どっちのせいでこんな動悸が激しいんだろう。こんなに密着していても、ラムズの心拍や息遣いは聞こえてこなかった。ただあの甘くて苦い香りが身を包み、背中越しに伝わる少し硬い彼の体にどきまぎした。体の熱が上がっていく。
しばらくして、ラムズはゆっくりと手を離した。いなくなったのかもしれない。
私を見下ろし、悪戯っぽく目を細める。「誘拐成功」
そんな茶目っ気のあること、言わないでよ。馬鹿みたいに鳴っていた心拍がようやく落ちついたのに、私はまた彼から顔を背ける羽目になった。
ラムズは私の手を繋ぎなおすと、そのまま路地の奥へ入っていった。行き止まりのはずだ、壁がある。
彼は壁の前で小声で詠唱し、それに迷わず踏み込んだ。目を瞬く。初めて見た。噂には聞いてたけど、本当にこんな魔法、あるんだ。
おそるおそる壁の中に体を入れる。ふっと浮いた感覚がしたあと、新しい路地に出ていた。彼は迷いなく道を進み、私は黙ったままついて歩いた。聞きたいことも言いたいこともたくさんあったけど、今は話したい気分じゃなかった。
……それに、どうして連れ出してくれたんだろう。もしかしたら。もしかしたらって、期待してもいい。二重の意味で浮かんだ問いかけを、私はそっと横に置いた。
いつかの宿屋に来ていた。彼が使うには少しボロすぎる店。『異端の会』と書かれた看板が斜めに下がっている。
ラムズと一緒に二階に上がり、ある一室に入った。前に私が襲われたとき寝かされていた部屋だ。いたたまれなくなって、部屋の奥へ後ずさった。
「移動に使うだけだから」
ラムズは小さな机を動かすと、その下に刻まれていた|魔法円《ペンタクル》の前に立った。
「ここ、乗って」
「どこ行くの。どこに連れていくの。私別にラムズのこと許したわけじゃ」
彼は体を押して、円の中に入れた。
「怖いよ。何するの? なんの魔法?」
「|転移《テレポート》。ひとりずつしかできねえから。完全に移動するまでは、そこから出んなよ」
「やだ、使ったことない。怖い、上手くいくの?」
彼は目を合わせた。「大丈夫。ただ立ってるだけでいい。着いたら、|魔法円《ペンタクル》から出て」
「着いたってどうやってわかるの?」
彼はくすりと笑った。「見ればわかる、大丈夫」
ラムズは詠唱を始めてしまった。私はきょろきょろと部屋を見渡す。彼と一緒にいると、普段やらないことばっかり体験する羽目になる。エルフとか、浄化魔法とか、魔法の水とか。さっきの壁にこの|魔法円《ペンタクル》に──。
視界が歪み、白い瞬きと虹色の煌めきがちかちかと舞った。タク、タク、タクと時計の針の音が聞こえる。三つ音を聞いたところで、白い霧が晴れた。
「わ……なに。こ、こ」
呆気に取られ、開いた口が塞がらなくなった。とっても綺麗な部屋だ。貴族の部屋だ。たぶんここ、ラムズの家だ。
下で|魔法円《ペンタクル》が白く光った。私は彼に言われたことを思い出し、慌てて円から出る。
改めて部屋の中を見渡した。まっさらで傷ひとつない白壁に、いくつもの額縁が飾ってある。そこに入っているのは全部宝石だ。ネックレスやピアス、ティアラ、いろんなものがガラスの中に閉じ込められている。
足元の絨毯は星屑の動く星空模様で、端のタッセル部分に宝石が使われているのがわかった。椅子や机、ベッド、なにもかもに宝石がついている。机にも宝石箱がいくつか並んでいて、前につけていたネックレスも乗せてあった。
天井にはダイヤモンドのシャンデリアが下がり、外は夜なのに眩しいくらいに明るかった。部屋の窓枠にも宝石が備え付けられ、シャンデリアの光に反射して色とりどりに光っている。
「すごい……」
「どうも」
はっとして後ろを振り向いた。ラムズも来ていたらしい。彼はちらりと部屋を見渡す。たぶん、触ってないか確かめたんだろう。
もちろんなんにも手を付けていない。そんなに馬鹿じゃない。
「ここ、ラムズの家?」
「ああ」
彼は部屋から出るように促す。
「……なんで連れて来たの?」
何も言わず、ドアノブに手をかける。私は彼の服を引っ張った。「ねぇ、教えてよ」
ラムズは振り返り、私の目元をそっとなぞった。柔らかく碧眼が細まり、低い吐息が降りる。
「泣きそうな顔、してたから」
彼は体を前に戻し、扉を開けてしまった。
そんな理由で……連れて来ないでよ。そう言いたくても、声にならなかった。
あの場にいたくなかった。ライネルと言葉を交わすのは苦しく、自分がどうしたらいいか考えるのがもう嫌んなっていた。クラウスのことも、ラムズのことも忘れたかった。そのまま消えてしまいたかった。
ただぼうっと彼の後ろをついて廊下を歩くと、ついにどこかの扉の前で止まった。
「この部屋、使っていいよ」
「使っていいって?」
「飯は食った?」
「……んん、あんまり食欲なくて」
「風呂は?」
「あるの?」
「そりゃあ」
まぁ、こんな大きそうな家──いや、城なら、あるよね。歩いてきた廊下を見る。ここにも豪華な絨毯が敷かれている。あちこちに宝石細工の置物が置かれ、アクセサリーを飾った額縁が壁に掛けられている。今まで歩いたことがないくらい、長い長い廊下だ。まだ向こうにも部屋がたくさんある。
私はふと思い立って、彼に尋ねた。
「使用人とか……侍女は?」
「いない」
「……え? 誰もいないの?」
「ああ。必要ねえから」
全部ひとりでやっちゃうんだ。ぼんやりと廊下を眺める。青白いランプが唐草模様の絨毯を照らし、幻想的な光景を作り出している。
「部屋で待ってて。服は貸すから」
「……泊まるの?」
彼はからかうように言った。「帰れんの」
物理的に帰れるかどうかを聞いたわけじゃないだろう。私は俯いて、ぎゅうと手を握った。
「わかんない、けど。何度も言うけど別に許してないし──」
「許してもらおうとも思ってねえよ」彼はそっと答えた。「今日の家の代わりにすればいい」
「……私と、するために連れてきたわけじゃないの」
期待半分、不安半分だった。いや、期待が八割くらいあったかもしれない。手首を摩る自分の手を見つめたまま、彼の答えを待った。
長い長い沈黙があったような気がした。ラムズは私の頭にとんと手を乗せ、優しく答えた。
「もう、お前とはしないよ」
彼はそっと背中を押し、部屋に私を入れた。扉が閉まる。顔を覆い、声を押し殺して泣いた。