曖昧
彼に教えられたとおり、薔薇の形に加工された薄ピンクの石で体を洗い、香水瓶のようなものに入った液体を使って髪を撫でつけた。
普段通っている公共浴場とは雲泥の差で、貴族様が羨ましくなった。みんなこれくらい綺麗なお風呂に入ってるのかな。
青白く薄暗い浴場でひとり、ぼうっとしたまま何もしない時間を過ごすのは少し心が癒された。
彼から借りたタオルで体を拭き、寝衣に腕を通す。シルクかな、これ。さらさらで触り心地がいい。レースのあしらいが袖や胸元を飾り、ところどころ透けた素材がアクセントを加えている。膝丈の薄水色のワンピースの裾は、煌めく小粒の石が唐草模様を描いている。普段使うドレスに見劣りしないくらいかわいい。でもただのネグリジェだ。……そういうとき用の服って感じじゃ、ないよね。
言われたとおり|魔法円《ペンタクル》にのって、貸してもらった部屋に戻った。絨毯に座ってタオルで髪を乾かしていると、静かに扉が開き、ラムズが入ってきた。
「ソファ、座って」
言われたとおり机の前のソファに腰を落とした。店で使っているものよりも高そうだ。背もたれや肘置きについた装飾が凝っていて、白皮の細かな毛並みがあまりに滑らかで頬ずりしたくなる。
「……なんの魔物だろぉ」
「変異したロコルケットシー、だったかな」
彼は隣に座ると、私の髪を触った。
「ん、なに?」
「乾かしてやるよ」
ラムズが髪に櫛を通すと、濡れていた髪の水気が一瞬で消えていった。ほんのり温かくなっている。
「それも魔法?」
「ああ」
「いいなぁ。貴族様ってこんな感じなんだ」
彼は静かに答える。「……いや、俺のはあんまり参考にしないほうがいい」
「えぇ、みんなもっと違うの?」
「人間の貴族は、ここまで魔法を使ってない。魔力が足りなくなると思う」
「そっか。お風呂のも?」
「床に魔石は敷いてねえだろうな」
じゃあこの絨毯とか、廊下に飾ってある宝石とか、あのあたりは全部ラムズ仕様なのかもしれない。
「移動も|魔法円《ペンタクル》は使わない?」
「妾は、どうかな。まったく使わないことはねえと思う」
そっか、ラムズはクラウスのところに行ったときの話をしてるんだ。私はそれきり口を閉ざし、手首の傷にちくちくと爪を立てていた。
髪を乾かし終わったあと、ラムズは食事を持ってきた。ホワイトチャウダーと、ほんのり焦げ目のついたフォカッチャ、ナッツとベリーのサラダ。一緒にホットティーを置いてくれる。
うちの店もそこそこいい皿を使っているはずだけど、ラムズの持っているものはそれよりも高級そうだった。センスがいいせいもあるかもしれない。私に使わせてくれるのは、高級なお皿でも宝石が付いてないからだろう。
「このスープ、誰が作ったの?」
コックくらいはいるのかな。
「俺」
「え? 料理も自分でしてるの?」
「ほとんど作らねえから、期待しないで」
こくんと首を下ろして、おそるおそる口をつけた。ほんのり甘くて美味しい。ただ、なんとなく彼が作ったというにしては案外ふつう≠セな、と思ってしまった。
「別に美味しいじゃん」
「どうも」
「なんでもできるんだね」
「必要なことは」
「……でも、ラムズのことだから、もっと料理も極めてると思った」
「それ以上は無理なんだ」
どこか違和感のある返答に首を傾げる。苦手って意味……じゃなさそうだよね。使族的になにかあるのかな。
「食欲は?」彼が尋ねる。
「……うーん、これくらいなら食べられると思うけど」
「食わねえと倒れるよ」
私は目を逸らし、ぼそりと呟いた。「誰のせいだと思ってんの」
「俺か」
何が俺か、だよ。ばーか。
食べ終わって食器を持っていこうとするラムズに、後ろから声をかけた。
「ちゃんと戻ってきてね」
「……ここに?」
「そう、ここに」
彼は静かに答えた。「わかった」
数分してから、ラムズは約束どおり部屋に戻ってきた。彼も一応家に来てから着替えてはいたけど、そんなに外と変わり映えしなかった。アクセサリーも付けたままだし……寝るときは外すよね。
まだソファに座ったままだった私の隣に、彼も腰を下ろした。さっき持ってきていた宝石箱を机にのせ、箱を開けてブレスレットを手に取っている。
ぎゅうと自分の手を握る。胸の周りが痛いくらいに締まっていく。先延ばしにしてたけど……ちゃんとはっきりさせたい。話を聞きたい。腰をずるずると滑らせ彼に近づき、大きく息を吸い込んだ。
「説明してくれるよね」
「何を」
彼は足を組み、ブレスレットを摘んで宙で眺めている。
「……だから。どうしてそんな簡単に……約束してたのに、ライネルの言うこと聞いたの」
「友達って言うから」
「つまり?」
「お前の幸せがクラウスと一緒になることだって、言われたから」
ぎちりと歯を噛んだ。
「ラムズもそう思うの? 私が行った方がいいって?」
「俺はお前のこと、身請けする気ねえよ」
頭ががんがんする。下ろした髪から香る甘い匂いが、今は頭痛をさらに悪化させている気がした。
「だからクラウスのところに行った方がいいの?」
「お前が決めることだろ」
「そう思うなら、ライネルの言うこと聞かなくてもいいじゃん」
ひとつ沈黙があって、彼はそっと答えた。「お前が納得できなかったら、俺と会うことになると思った」
片眉を上げ、視線が強ばった。「どういう意味?」
「俺は運命に縛られてる。他に選択肢はなかった」
はっとして、彼の姿を改めて視界に映した。運命ってつまり、時の神ミラームに作られた使族ってこと? ミラームに作られた使族が自分の運命を知っていて、その運命どおりにしか生きられないって話は知っていた。
人間はミラームに作られていないし、ミラームに作られた使族と親しくする機会もなかったので、詳しいことはまったくわからない。
しもろどもろになりながら、ひとつずつ言葉を重ねた。「それって、じゃあ……。ラムズの意思で約束を破ったわけじゃないってこと?」
「意思……」虚空に声を落とす。「別にそれでいいとは思ったよ。お前の納得できねえ答えなら、俺のこと、探すだろ」
「ん……ま、まぁ」
今日『がらん堂』に来たのだって、前にラムズがそこで知り合いから話を聞いたって言ってたからだ。
「だけどさ、ラムズがライネルとの約束を守っている限り、結局私は本当のこと知らないままだったんだよ。あのときはハーミズって人がいたからよかったけど……」
彼はくつくつと笑った。「んなのどうとでもできるだろ」
「え?」
「今回は本当に勝手にあいつがしたことだが、頼めば同じことをしたよ」ラムズは宝石の角度を変えながら、淡々と言葉を流した。「お前の好きにすればいい。俺はずっとそう思ってる。ライネルとの約束は問題にならないと思った。だから従った。お前がクラウスのところに行くと決めれば、実際俺は必要ねえからな」
「じゃあ……」ソファの皮を意味もなく擦った。「リリーとは? なにしたの?」
「キス」
「本当にそれだけ? フレンチキス、したんだよね。何分? どこで?」
醜い自分の感情に嫌気がさした。私にこんなこと聞く権利、ないよね。私のほうがもっと……もっと酷いことたくさんしてるのに。
馬鹿みたいだ。彼がリリーに関心がないことはわかるし、ただ私と同じように仕事をしただけなのに。
喉の奥がきりきりと締まる。息が苦しい。
「やっぱいい、別に……。これは、聞かなくていいことだった、ごめんなさい」
最後の声はどんなに堪えても震えてしまって、そんな自分に無性に腹が立った。無意識に傷跡を引っ掻いていた手を、冷たい指が掴んだ。
「なんで謝んの」顔を上げると、薄く笑みをのせた彼がこちらを見ていた。
「いや、別に」
「お前が聞きたいことはなんでも答えるよ。俺の言葉が足りねえなら、そう言って」
ぐるぐると視線が回る。彼はいつもこうだ。冷たくしたいのか、優しくしたいのか、曖昧な態度ばっかり取る。
ラムズは手を離した。
「十分もしてねえと思う。『がらん堂』の個室借りて、三人で部屋に入った。リリーの背が低いから、机にのせてキスしたよ」
彼は首を傾げる。銀の睫毛が二度ほど瞬いた。
「キスだけじゃねえかな。首と耳舐めて、胸触った」
私は。そんなことしたことなかったじゃん。
怒るのは間違ってる。わかってる。私もしてるもん。もっといっぱいいろんな人としてる。それにラムズは絶対、やりたくてしたわけじゃない。どうせリリーにも興味ない。だから怒れない。だけ──ど。
細い指先が頬をなぞった。「永遠にやらされそうだから、リリーが声出したらやめるって言ったんだ。それで胸も触った」
そのあとは? それで、終わり? 本当にそれだけ? なにもしなかったの?
嫌な妄想が脳裏に映る。喉がからからに干からびて、声が出ない。ぱくぱくと口が開き、吐息だけが落ちた。
「そのあと何度かリリーが店に来てたけど、会ってない。仮に金を積まれても、最後まではしねえよ」
「え、」かすれ声で尋ねた。「……な、なんで?」
「もしそういうつもりなら、最初からお前にも金くれって言う」彼は言いなおした。「娼婦が用意できる金なんてたかが知れてる。お前ら相手に男娼ごっこはしねえ」
シビアすぎる返答に、素直に喜べなくなる。膝を掴んでいた手を内側に寄せた。
「でも……。それならどうして私はだめなの? 『もうしない』って、なんで? 最初はしてくれるって言ってたじゃん」
彼は持っていた指輪に視線を移した。サファイアが密やかに明滅する。
「お前は、俺としないほうがいいと思った」
「どうして? クラウスのこと? それとこれとは別じゃん。約束してたんだから……それは果たしてよ。そのあと考えるもん。どうするか決める」
意地を張ったまま、そう力強く言った。ラムズは軽い笑みを落とし、私の頭をとんと載せる。
「別じゃねえよ。俺はお前の可能性を潰したくないから、しない」
彼は私を見て、持っていた宝石を机に置いた。何か言う前に横抱きにされる。
「な、なに?」
「もう寝ろ。ゆっくり考えて、それで明日帰んな」
「やだ。なんでも答えるって言ったじゃん!」
「もう十分答えたよ」
彼は布団に私を下ろした。逆光で暗くなった顔、碧眼だけが歪に光っている。「おやすみ」
「ねぇ! どうして? 途中までは話してくれてたのに、なんで!」
ラムズはもう答えなかった。天蓋ベッドの柱から手を放し、部屋を出ていった。