哀訴

 今に始まったことじゃないけど、眠れるわけなかった。しばらく布団の中で目を瞑っていると、だんだん体のあちこちを掻きむしりたくなって、勢いよく布団を引き剥がしベッドから降りた。
 無益に部屋の中をぐるぐると歩き回る。
 ラムズの言いたいことがわからない。最後は急に話を切り上げてしまった。好きにしろって言うなら、私のお願いは叶えてくれればいいじゃん。クラウスのところに行くって決めたわけじゃないんだから、こうして会えたんだから、最初の約束を叶えてよ。
 数十分間無駄な問答を繰り返しつづけた。ついに動かしていた足が止まり、力なく腕が落ちる。
 ……酷いよ、ラムズのために頑張ったのに。二週間も前にいちばんになったのは、もっと早く会えるかもしれないって思ったからなのに。あいつらの気持ち悪い感触はまだ残ってるのに……それでも、無理やり頑張った、のに。
 全身で寒気がする。胃の中のものを吐きだしそうだ。手首にぎちぎちと爪を突き立てる。私は小走りで部屋を横切り、奥に置いていた鞄からナイフを取り出した。もう無理。
 絨毯を汚すわけにはいかないと思ったので、ベッドまでナイフを持ってきた。毎日毎日触っているせいか、手に持つだけでほんの少し心に平穏が戻った。細い柄を握る感覚がしっくりくる。血で少し錆び付いた銀のくすみが懐かしい。
 強姦されたときの気持ち悪さを思い出したら、これで切った。痛ければそっちに意識が向くから。血が流れるのを見ていれば、心が落ちつくから。ラムズのことを思い出して寂しくなったら、これで切った。痛いのは彼が私の血を飲んだときの感覚と似ているから。私の赤い血は、唯一彼が喜んで飲んでいた気がするから。
 左の手首は昨日切ったばかりの傷がまだ少し痛かった。左手にナイフを持ち替える。
 ラムズなんて知らない。知らない、知らない。家に連れてきたのに、なんにもしないで、好きにしろって言うのに、私の言うことは聞いてくれないで。リリーの胸は触る癖に私のは触ってくんない。みんなしてクラウスと幸せになればいいって言う。わけわかんない。誰も私の気持ちは考えてくれない。本当はそんなんじゃないのに。私はラムズが──。
 恨めしい墨の塊が胸の内でとぐろを巻き、みるみる体を覆い濁らせていく。腰までかけていた布団を抱きしめた。胸の圧迫感が喉元までせり上がる。
 ナイフを持っている手が震えた。痛くないと我慢できない。いつもより痛くしないと、他の感情を忘れられない。左手首に刃を当て、ぐいと皮膚に押し込んだ。下に力強く引く。
「ッツ! た! 痛ッ!」
 痛い。痛い、痛い。強くやりすぎた。思わず叫んでしまった。馬鹿じゃん、私。自嘲気味に笑い、まだ悲鳴を上げる手首に意識を凝らした。
 かなり深いところまで切ってしまったようで、布団の上で既に血溜まりができ始めていた。
 痛いけど、……痛いだけだ。やっと痛いだけになった。真っ赤な血のリボンが手首の後ろへ回り、ぽた、ぽた、と池に落ちていく。綺麗な赤。前に見たラムズのガーネットも、これくらい綺麗だったかもしれない……。
 意識が白んでいくのに任せた。このまま寝ちゃえばもう考えなくてすむ。もしかしたら明日には死んでるかも。まぁ、そんなわけないか。いつか傷は閉じちゃうし、水に漬けるでもしてないと──。
「んッ、あ……、んんッ?!」
 突然肩を押さえられ、誰かに口を奪われた。冷たく甘い液体が喉に流し込まれる。勢いで飲み込んでしまった。
 体が離れる。霞んでいた視界にラムズの姿を捉える。
 必死に目を尖らせた。「なに、……してんの」
「切りすぎて、血が足りなくなってる」
「関係、ないじゃん」
 彼は手首を掴み、止血するために白い包帯で傷の前をキツく縛った。
「……血、飲まないの」
「阿呆かよ」
 なぜかそれが引き金になった。抑えていた涙がさっきの血みたいにどろどろと流れていく。最初の涙が落ちると、とめどない雫はいくらしゃくりあげても止まらなかった。
「うぇ、ッ。あ……ック」
 何度も目を擦った。胸や喉の息苦しさに体を丸める。
「あッ、あほ、だよ。でも、ラムズのほう、が。もッ、と。あほじゃん」
 私は重い腕を無理やり上げ、傷口を彼のほうへ向けた。「なんで、ねぇ。なんで? なんで、だめなの。いいッ、じゃん。それも、価値、ないってこと?」
「お前、貧血気味だろ」
「これはもう……流れてる、もん」
「今飲むやつがいるか」
「んな、の。ラムッズ、気に、しない、でしょ。やだ、ひどい。嫌、なんだ。どこまで、否定されん、の」
 上げていた手首から、鮮血の雫が焦らすように伸びていき、切れた。布団に落ちた。赤い染みがじわ、と薄まる。
 ラムズはベッドに座り私を引き寄せた。左腕を掴み、自分の口元に寄せる。彼の冷たい唇が皮膚に触れる。まだ流れたままの血を舌でそっと掬った。
 ぞくぞくと疼くような寒気が背中を走る。冷たい眼が眇みこちらを視界に映して──、何も言わず瞼を下ろし、また傷口を舐めた。たまに彼の赤い舌と、普通の人より尖った牙が見え隠れする。ちろちろと傷口を舌が這うたび、ナイフで切ったのとは違う痛みに体が熱くなった。
「おい、し?」
「聞くなよ」
「……なんでよ」
 彼は薄く息を吐く。「美味しい、甘い」
「包帯、いらない。もっと、飲んでよ」
「薬が効いたらな」
 今回は、ラムズは傷口を弄ってはくれなかった。ただ落ちていく血を掬うだけ。それでも、ここ最近でいちばん幸せな時間だな、なんて。やっぱり私はアホなのかもしれない。
 彼の顔をじっと眺める。髪とお揃いの銀の長い睫毛も、私を掴むしなやかな指やそれについた薄ピンクの石みたいな爪も、全部全部好きだった。
 血は止まっていくのに、私の涙は一向にやまなかった。どこを縛ればやむんだろう。首?
 彼は残った包帯で私の手首を縛った。終わっちゃった。
「死にたくなったら、殺して、くれるんだよ、ね」嗚咽が言葉の邪魔をする。
「ああ」
「じゃあ、ッ、殺してよ」
「死にたいの」一切装飾のない声が尋ねる。「なんで」
「だ、だって誰も、誰もッ! 私の気持ち考えてくれないじゃん!」
 苦しいだけの胸を手で押さえる。必死に言葉を繋いだ。
「頑張ったのに、なんでだめなの? 約束したのに、どうして? なにがだめなの、私が何かした? どうしたらいいの。ねぇ」
 彼の胸に縋りつき、服を引っ張った。
「明日帰ったら、それで、終わり? 私はクラウスのとこ、行かないといけないの? なんで、ねぇ。どうして、嫌だ」
 しゃくりあげて、冷たく見下ろす彼に目を合わせた。「ラムズの言ってること、わかんない。教えてよ、どう思ってるの、ねぇ」
「行きたくねえの」
「え、え? クラウス? き、決めて、ないの。わかんないの、だって」
 みんなが行けって言うんだもん。それがいいって言うんだもん。私のいちばんの幸せがそれだって、ラムズが好きだって言うとみんなに否定されるんだもん。
「みんなが行けって、言うから。だから。ラムズだって私に、そう言うじゃん」
「俺は……」彼の吐息が零れる。「俺と一緒にいるより、クウラスのところに行ったほうが幸せになれると思う。強要する気はねえが」
「じゃ、あ。ラムズの意思は? 私に離れてほしくないとか、どこにでも行っていい、とか」
「言いたくない」
 服をぎゅうと掴んだ。「なんで?! 教えてよ、どうして?!」
「俺が離れてほしいって言ったらクラウスのとこに行くのかよ。ここにいろって言ったら、俺のとこにいんのかよ?」
「ちがう、別に。そんなの」
「そうだろ」彼の双眸がこちらをしかと捉える。ひとつトーンが落ちた。「……そういう風に生きるなって、お前の友達は言ったんだろ」
 するすると腕が垂れていく。ラムズは続けた。
「前に言っただろ。俺は無理やりお前の意志を曲げたくない。俺に選ばせんな、自分で決めろ」
 彼の言葉は核心を付いていた。逃げてたのは私か、私だ。どっちつかずな態度で、誰にでも誤魔化してたのは私だ。視界が水浸しになって、抑えていた感情が堰を切ったように溢れだした。
「行きたく、ない。行きたいわけないじゃん」彼の胸を力なく叩いた。「なんで行きたいって思うの? みんなどうしてそれが正しいみたいに言うの? 私は……みんながそう言うから、クラウスのとこに行くの、考えなきゃいけないんだって。行きたくないって言ったらだめなんだって、だから」
 私は自分の両腕を上に向けた。肘の裏にかかるところまで、びっしりナイフで切った傷が残っている。一日に何度も何度も切っているせいで、もっと痛いところを探したくなるせいで、傷を付ける範囲が広がってしまっていた。
「ぜんぶ、ラムズのためにしたんだよ? ねぇ。ラムズのこと思い出して、早く会いたくて、辛くて、だから切ったの。耐えられなくて。辛くて仕事やめたかったけど、ラムズに会いたかったから、だからずっと……切って、それで頑張ったの」
 彼の腕を引く。「行きたいわけないじゃん。向こうに行ったらもうラムズに会えないじゃん。別に身請けなんてしなくていい、働いたまんまでもいい。だけど会えなくなるのはやだ。好きでいちゃだめなの? ラムズが酷い人だから? ねぇ、だめ?」
 勝手にラムズの胸に顔を埋め、ぐすぐすと泣きはじめた。「ねぇ……ラムズ、ねぇ。好きなの。大好き。ラムズは? 私のこと好きじゃないの、頑張ってもまだだめ? 前に俺のことが好きな子が好きって言ってたよね。私頑張ったよ。あいつらのこと思い出しても、ラムズのためにいちばんになったよ」
 ラムズの腕を掴み、爪痕が付くまできつく指を曲げた。どんなに話しても伝わってない、伝えきれない。涙声でひたすら心の内を掻き回した。
「まだ足りないって言うなら、もっと頑張るから。何したらいいか教えて。どうしたらわかってくれるか教えて。なんでもするから。ラムズのためならなんでもするから。リリーよりもいっぱいお金稼ぐし、ラムズにもあげる。だからねぇ、わかってよ。私がすごく好きだったら、好きになってくれるんでしょう? 嬉しいって思ってくれるんだよね、抱きたいって思ってくれるんだよね」
 彼が私の体を剥がし、こちらに目を合わせた。感情のない硝子玉のような眼が、涙に濡れた私の顔を映している。何を言わせても辛い言葉を返される気がして、言葉を切ることができなかった。
「もうしないなんて言わないで……」声が掠れていく。「ねぇ、いやだ。クラウスなんてどうでもいいの、本当。本当はどうでもいいのに……みんなが言うから、だから話してたの。ラムズを好きって言うとライネルが怒るから。他の女の子が馬鹿みたいな目で見るから。何が正しいのかわからなくなって、自分の気持ちに蓋をしないといけないのかなって。だから誤魔化してたの、嘘ついて、意地張ってた」彼の肩に手を伸ばす。「ラムズに選ばせてごめんなさい。自分で決めるのが怖かった、間違えたくなかったの。だけどほんとはラムズのことしか考えてないよ。ただもう……」
 途切れ途切れの声を懸命に繋いだ。
「別にいい、間違っててもいい。ラムズがどんなんでもいいから、好きなの」
 彼は私の腕へ手を伸ばした。突然のことにびくと肩が震える。皺のない細い指が傷跡をひとつずつなぞっていく。羽根がくすぐるような感覚に、手首から全身へ微かな悦が這い進む。
「ねぇ……」ごく、と喉を鳴らす音が嫌に大きく聞こえる。「何か、言ってよ」
 ラムズは首を傾げ、痛々しい傷に目を落とした。銀髪がピアスと一緒に揺れる。赤い舌がちろりと唇を舐めた。
「あー……」掠れた声がぽつりと呟く。「めちゃくちゃにしてやりたい」
「……え?」なんて言ったの?
 ゆっくりと瞼を上げ、青眼がこちらを捉えた。体をベッドボードに押し付けられる。彼は顎を掴むと、噛み付くように唇を重ねた。