夜雨
「昨日は……いろいろ、ごめん」
「あ〜、もう気にしてない! 全然大丈夫」
正直そのあとのことで頭がいっぱいで、もうライネルに何を怒っていたのかも忘れてしまったくらいだ。頭をひねってなんとか記憶を探り当てる。
「私のこと思ってやってくれてたんだし……それはわかってたから」
「まぁ、ね。でも私が店に来んなって言ったせいで、あんたはここ数日すごい傷ついてたし……。それは悪かったとは思ってる。本当に」
私はけらけら笑った。「いいよぉ。それもラムズは嬉しいんだって。だからもういいや〜。気にしてない」
「え?」彼女は目を瞬く。
「え〜、わかるでしょ。えへへ〜」つい頬が緩むのを抑えられず、手で抑えた。「いっぱい好きって言ってくれた〜。幸せすぎ〜!」
「じゃあなに……あんた……」彼女は溜息をつき、声色が少し下がった。「結局あの人、パメラのこと引き止めたんだ」
「いやぁ、そんなことないよぉ。ラムズは最後まで『クラウスのとこに行ったほうが幸せになれる』って言い続けてたよ」ゆらゆらと体を揺らす。「自分の気持ちを隠して、私のこと考えてくれてた。だからラムズは優しいよ?」
「自分の気持ちって?」
「私のことが好きってことに決まってんじゃん!」
るんるん気分で鞄を仕舞い、ばっちり化粧した顔でにこっと笑う。
「今日もお仕事がんばろ〜!」彼女の肩をとんとんと叩く。「全然、ラムズは優しいから大丈夫だよぉ。ん〜。優しくはないかもしれないけど、めっちゃ愛してくれてるの」
「わかったよ。じゃあ私の見立てが悪かったんだね、それも悪かったよ。応援する」
「やったー! じゃあ昨日の話、聞いてくれる? もぉ〜本当に最高だったんだよ。たぶん私の人生でいちばん幸せな日だった! いや、これからもずっと幸せかな?」
にぱにぱ笑う私を呆れたような目で見る。
それから私たちは、仕事が始まる時間までずっと昨晩の夜の話で盛り上がった。
今になって考えると、ラムズが『約束を破ったおかげで縋ってもらえて嬉しい』なんて言ったのは、私とライネルの仲を気にしてくれたからなのかもしれない。彼が嬉しいって言うなら、ライネルのせいで彼に会えず泣いた日々も報われる。だってラムズが、私が縋っててかわいいって言ってくれたんだもん。それなら少しくらい傷ついたって別にいい。あれだけ愛してもらえるなら、ラムズが喜んでくれるなら、多少心や体が犠牲になっても構わない。
「え〜。あんな淡白そうに見えて、意外と束縛魔なのかな?」
リリーにも話が回っていたようで、悪気のなさそうに謝られたけど、それも許してあげた。その態度も含めてね。別に私の前でキスしたわけでもないし……お金もらってたし。それにこれも、ラムズが嬉しいって言ってたからいいやって。嫉妬してるのがかわいいとか……やっぱりだいぶん私のこと好きだよね。そういう男心はきゅんきゅんする。
「でも私の仕事のことについては何も言ってなかったなぁ〜。知ってる上で好きって言ってるから、大丈夫だとは思うけど……」
ライネルは頷く。「ともあれ、思ったより愛は深いみたいだね。ちょっと変わってるけど……人間じゃないなら仕方ないか」
「そうそう〜! だってサァ〜『もっと好きになって』なんて言うんだよ? わー、好きになるよそんなの!」
顔を覆って高い声できゃあきゃあと騒ぐ。ライネルたちは半分呆れながらもようやく叶った恋を祝福してくれた。
酷く久しぶりに感じた仕事は、最初のやる気を灰色に塗りつぶすほど退屈で億劫だった。今までは多少客とのセックスに楽しめることもあったのに、あまりに物足りなくて演技がたいへんだった。今日は中でもかなりかっこいい貴族様、しかもプレイもまぁまぁ上手い方が来てたのに、それさえ味気なく、反応の悪さに心配されちゃったくらいだ。もちろん完璧に誤魔化したけど。
「だいぶん大きかったんでしょ? ヤリまくったせいで、客のやつ入ってる気がしないんじゃない?」
「違うよぉ〜」ぶんぶんと手を振る。「入ってるのヨユーでわかる。客もいつもどおり気持ちよさそうだったもん〜。単純に……その上を知ったって感じぃ?」
ライネルが苦笑いを返す。
でも嘘は言ってない。むしろ不思議なくらいだ。正直彼のが入っていたときは少し小さくなってたんじゃないかって、そうとすら思う。あの快感は大きさとか腰の振り方とかじゃないんだよな〜。なんなんだろ、わかんない。これも人間じゃないから?
愛してもらえたからって仕事に手を抜くのは嫌だったし、ラムズが喜ぶような宝飾品をもらうためにはちゃんとお相手しないといけない。だから最後のお客さんまで手は抜かなかった。つまらなくとも機嫌がいいのはたしかで、笑顔を作るのは楽だった。
でもその日もその次の日も、彼と繋がった日が遠のくにつれ再び地獄を見る羽目になった。毎日セックスをするような仕事だからこそ、逆に彼が恋しくて堪らなくなる。別にお手上げだ〜ってほど客のプレイが酷いわけじゃない。ふつう≠ノはイける。でも……その中途半端な行為のせいで余計に彼が欲しくて、彼の腕や声が恋しくて、いっそう彼とのプレイに飢えて、渇してしょうがない。言うまでもなく自慰行為なんて話にならず、毎日毎日体の奥で快感への欲求が燻り積もっていく。
ラムズが「離れられなくする」って言ってたの、こういうこと? わかっててここまでやったのかな。既に十分好きだって言ったのに、本当に本当に酷い。意地悪だ。やっぱりあの日あんなにしちゃダメだったんだ。自分で擦りすぎて痛くなった股をぎゅうと閉じて、孤独感と寂寥感でがらんとした体を抱きしめる。早くも涙を流し眠れない夜に逆戻り。
四日目になって、私はとうとう『がらん堂』に行くことに決めた。お金は使わなくていいから会いに来てってちゃんと伝えたはずなのに、来てくれないんだもん。毎日会いに行くのは重くて捨てられるかもとも思ったから、三日は我慢した。でもう限界。体をどうにかしてくれないと壊れちゃいそうだ。彼の声やあの儚い微笑みが恋しくて、冷たい腕で抱きしめてほしくてたまんない。
仕事が終わり矢継ぎ早に支度をすると、ライネルと一緒に店を出る。大粒の雨が隙間なく降っている。声をかき消す勢い。少し歩くだけでずぶ濡れになりそうだ。
「パメラァ、本当に今日行くの? 明日にしなよ」
「え〜」入口の前で外を見る。「でも……。会えるかもわからないから、聞くだけ聞きに行きたいんだもん」
「まぁ、あんたの好きにすればいいけどさ」
「ん〜……」
生返事の私に肩をすくめ、ライネルは一足先に走って帰ってしまった。
せっかく会いに行こうと思ったのに。やっぱり今日は諦めるべきかな。雨のせいでさらに沈んだ心に鬱々として、意味もなく爪先で地面を蹴った。
ドアの外、顔を出して左右を見ると呼んでいたはずの傭兵が来ていなかった。護衛のためにいつも待ってるはずなのに。私が身を乗りだすと、何かが腕を掴みすっぽりと体を覆った。
「ッ?! だ、だれ?!」
客? 裏口なのに、待ち伏せされてたの? 藻掻く腕ごと抑えられ、くつくつ笑う声が聞こえた。
「パトーニャ」
「あ、え?」
私は体をひねる。黒い外套を着たラムズが立っている。フードを被り、その隙間からプラチナみたいな銀髪が覗き、影の中で青眼が光っている。ボタンの閉めていない中の服を見れば、やっぱり宝石のついたアクセサリーを下げている。彼の銀髪はほんの少し濡れていて、ダイヤモンドの水滴がわたしの頬に落ちた。
「来てくれたのぉ?! え、こんな日なのに。嬉しい……嬉しい!」
体の向きを変えると、ぎゅうと抱きついた。ずっと外にいたのか、外套のひんやりとした生地が頬を撫でる。
「あれ、雨はぁ? ここって軒下だっけ?」
私が顔を上げると、仄暗い街灯の下でバドルの翼を繋ぎ合わせたような傘が浮いているのに気づいた。これのおかげで雨が当たらないらしい。
「なにこれ?」
「魔道具」
「馬車で来なかったの?」
「面倒で、あまり使わない」
転移魔法を自由に使えるラムズからしたら、御者が付き纏う馬車のほうが煩わしいんだろうか。城に侍女すらいなかったくらいだもんなぁ。
「でもこんな魔道具、初めて見たぁ」貴族の使う魔道具ならそこそこ知ってるはずなのに。
「人間は使わねえかもな」
「どうなってるの?」
「バドルやワイバーンの翼を張り合わせて、水を弾くような魔法をかけてる」
たしかにバドルの羽は水を弾くってどこかで聞いたことある。魔法がかかってるおかげで、傘の下にあるものもまったく水が入らないような空間になっているみたい。
「家まで送るよ」
「ん、うん」
どきまぎしながら彼の横を歩いた。左手に小さな魔石を持っているから、それが上の傘と連動しているんだろう。傘は宙で浮いたまま、ちゃんと一緒についてくる。
激しい雨のせいで街ゆく人はほとんど小走りで、悠々と歩くラムズに目を向ける人はいなかった。ばしゃばしゃと水溜まりが跳ねこちらに水滴が飛んでくる。でもそれは、見えない壁に阻まれるように溶けて消え、彼のそばにいる限り濡れることはなかった。
「すごいね、魔法。馬車より便利?」
「今は歩いたほうがいいだろ」
ザァザァと地面を打つ音がどこか遠い世界のように聞こえる。白っぽく見えるほどの雨粒は、進むたびに観劇の垂れ幕を開けるみたく消えていく。
「どうして? たしかに濡れないけど……」
彼がちらとこちらを見て、青眼を眇めた。「思ったより平気そうだな」独り言のように漏らす。「あと三日くらい放っておいてよかったかな」
彼の腕を掴み揺すった。「なにぃ? 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない! ……──あ」
彼の言う意味がわかって、腕をぎゅうと抱き俯いた。私といる時間、長くするために歩きのほうがいいでしょ、ってこと? 馬車じゃすぐに家に着いちゃうから?
「お家、まだ帰んなくていいもん」
「三日後の昼、空いてる」
彼は私の言葉を聞かなかったふりして、そう囁くように透明な息を落とした。
「ん、うん。空いてるよぉ」
「正午に行くから。準備しておいて」
「どこ行くの? デート?」
「どこがいい」
「えぇ〜。私が決めるのぉ? いつもバーで飲んでばっかりだから……。う〜ん……」
「バーじゃねえとこね。了解」
ちょっとぉ、と甘えた声で腕を引っ張った。少し笑う彼の横顔が見える。
それから家までの道すがら、他愛ない話をして歩いた。彼としたい、愛されたいってここ数日考えつづけていたのに、いざ会ったらそんな気持ちは全部吹き飛んでしまった。快楽を求める気持ちより会えた喜びが大きすぎて、一緒に話している時間が幸せだった。始終彼は素っ気なかったけど、別によかった。来てくれたってことは、私のことをちゃんと気にかけてくれてるってことだから。
「ねぇ……、まだ帰らなくていいんだよ。行かないで」
家に近づくにつれ、どんどん気持ちが憂鬱になっていく。私は彼を引き止めるように腕を引っ張った。
「これから用があるから」
「おねがい……。寂しい。ねぇ、寂しい……」
さっきまでの幸せが嘘のように、重い寂寥感が戻ってきた。同時に奥で燻っていた欲求が顔を出し、体をぐるぐると覆いはじめる。彼に抱きついて縋った。
「……足りない……。足りないの。ねぇ……」上目遣いで彼を見上げ、鼻にかかった声で漏らす。
ラムズは足を止め、私の髪をそっと撫でた。「何が?」
「……ッ、わかるでしょ? ずるいよぉ。お願い……。どこでもいいから。お外でもいい」
彼は嗤い、首を傾げた。「こんな雨の中?」
「魔法あるじゃん……」
「そんな趣味ねえよ」
冷ややかな視線にも声にも身が竦みそうだった。腕を強く抱く。
「やだぁ。あと三日なんて待てない。ずっとずっと待ってたんだよ。耐えられない」
「やりすぎた?」他人事のように笑う。
「うん! ラムズのせいだよぉ? ね〜。責任取ってよ」
「めんどくせえ」
彼は私を引き剥がし、こつこつとヒールを鳴らし歩いていってしまう。雨が腕を濡らしたことに気づき、急いで彼を追った。少しでも離れたら濡れちゃう。ここまで送ってもらった意味がなくなる。
「ねぇ……」
勝手に指を搦め、ゆるゆると腕を振る。ラムズは無視したまま、家路への道を進んでいく。もう真っ直ぐ歩けば着いてしまう。間違えた道を教えればよかった。
俯いたまま彼のあとをついていく。来てくれたのは凄く嬉しいけど、全然足りない。もっと構ってくれてもいいのに。
ついに足が止まり、彼がこちらを見下ろした。
「じゃあ、帰るよ」
「やだ〜。ねぇ、やだ。行かないで」
我儘だと嫌われるかな。でも前に、嫌なことは言っていいって言ってくれた。それに……絶対酷いもん。せっかく来てくれたのにこれしか会えないなんて。
「三日後って、会えるのはお仕事始まるまででしょ? そのときはしてくれるの?」
「さあ」
冷たく返ってきた言葉に下唇を噛む。「なんで?! 嫌だ。ラムズがそうしたんじゃん。意地悪。いじわる、いじわる……」
力なく腕を下ろすと、彼は何も言わず体の向きを変えてしまった。行っちゃう。帰っちゃう。そのとき、私ははっとして彼のコートを掴んだ。
「待ってよ。お家にまだアクセサリーあるって言ったじゃん。持ってくるから」
「だから?」
「……だから」言葉尻が消えていく。「してよ。だめ?」
「気分じゃない」
宝石あげるって言ったら絶対してくれると思ったのに。断られた寂しさのほかに、少しだけ心に温かみが戻った。つまりこれって、別に宝石があるから私とするってわけじゃないってことだよね。
「ま。待っててね。取ってくるから」
彼は腰元からプラチナの懐中時計を取り出した。針がサファイアでできている。ちらりとそれを確認したあと、気怠そうに頷いた。
「早くして」
「……うん」
そっと家の扉を開き、いつもの癖で鍵を閉める。寝静まった家の中をそろそろと歩き、階段をのぼり、自室に入った。親に触られないように隠しておいた木箱を開き、中の宝石をいくつか取り出す。どれにしよう。全部持っていくべき? だけど……またこんなことがあるなら全部あげるのは……。
迷った挙句、私はすべての宝石を木箱に詰め立ち上がった。抱きかかえるように持って、足音を立てないよう注意深く歩いていく。扉を開くと、外で待っていたはずのラムズが立っていた。思わず後ずさる。
「ど、どうやって。鍵閉めたのに」
「あんな鍵」
彼は笑い、部屋のベッドに腰を落とした。いかにも高級そうな外套や整いすぎた容貌が、私の古びた汚い部屋と、あまりにチグハグで恥ずかしくなってくる。
「勝手に入っちゃだめ……。お母さん、寝てるのに」
「したいんだろ」
「してくれるの?」
ラムズは表情を変えないまま、二回ほど指をおろし手招きした。しずしずと歩き、彼の隣に座る。
「なんで気が変わったの?」
「全部くれるんだろ」
「……え?」
彼はそっと窓を指さした。窓ガラスはちょうど彼が立っていた道に面している。
「見えたの? 見えるの?」
「悩んでるのはわかったよ」
私は箱ごと彼にぐいと押し付けた。「してくれないのも、会えないのも寂しいけど……。それでも好きだもん。だから……。ラムズがだめって言ったら……悲しいけど、諦める。だから別に、いらない」
駆け引きとか、ラムズは好きじゃなさそうな気がした。私が自分の気持ちを隠していたらいつまでも彼も本音を言ってくれなかったし、逆にちゃんと伝えたら愛してくれた。ここで中途半端に少しの宝飾品を渡しても、きっと雑に受け取って帰るだけだろうなって思った。もちろん、全部渡しても帰るかもしれないけど。でもそれがラムズなら、私はそれでもいい。