氷結

 彼は受け取った箱の中を開き、幸せそうにそれを眺めた。いくつか手に取って、浮かせた魔石の明かりに透かしている。
「あんまり……高いものではないよね。ごめんね」
「高いか安いかは気にしてない」穏やかな声が帰ってくる。
 ひととおりの宝石をざっと見たあと、彼がこちらを向いた。
「じゃあどこか行くか」
「え、デート? いいの?」
「俺さ」彼は頬をするすると撫でる。「他の誰か、まして自分さえ蔑ろにして俺のことを考えてくれるの好きなんだ」
 どきまぎと視線を走らせる。「そぉ……なんだ。どうして? ラムズだったら、それくらい普通に好かれてそうだよ」
 寂しそうに目が細まる。「そうでもねえよ。人間はみな──」視線が逸れた。「ほしいものが多すぎる」
 彼は立ち上がった。「疲れてない?」
 話題を変えてしまうらしい。気になったけど、掘り下げられたくないのかもしれない。
「うん!」明るい声で返事をしたあと、わたしは慌てて口に手を重ねた。大きい声を出したら親に聞こえちゃう。「大丈夫。行こう?」
 彼はドアのほうではなく、窓に向かって進んだ。窓を開け足を引っ掛ける。私が止める間もなく彼の姿が消え、下に落ちる。急いで窓辺に駆け寄ると、何事もなかったように道に立つ彼が見えた。
「に、二階だよ……!?」
 囁き声で叫ぶ。彼はバドルの傘を少し傾けこちらを見上げる。両手を広げた。「こっちのほうが早い」
 雨音はうるさく、いつも落ちついた低音で話す彼の声なんて本当なら届かないはずなのに、耳に直接響いた。これも魔法?
「私にも行けってこと……?! 受け止められないよ……!」
 彼は笑う。小さく首を傾け、静かに言った。「信じて」
 こんなところで迷うより、抜き足差し足で家の中を通ったほうがきっと早い。だけど、彼の言葉を聞くと飛び降りたほうがずっといいような気がしてくる。だって楽しいし、ちょっと冒険みたいだから。
 窓辺に足をかける。仮に失敗しても骨折するくらいだ。ラムズなら治してくれるし、大丈夫。
 目を瞑って飛び降りる。雨の雫とびゅうびゅうと風きる音が一瞬聞こえ──脇を掴まれた。約束どおり、彼は受け止めてくれていた。
「ラムズってけっこう細いのに。すごいね」
 彼は微笑みで返事をし、地面にゆっくりと体を下ろしてくれる。案外簡単だった。やっぱり楽しい。ラムズといると、いつもの世界、雨の日や二階の景色でさえ違って見える。

 しばらく一緒に歩き、「この店行ったことある」という私の声であるバーに入った。単価が高く他より落ちついた店で、魔道具の灯りなどの装飾品が美しい。隠れ家のような小じんまりとした建物なのも好感が持てる。
 友達となら来ないけど、ラムズとならこういうお洒落な店に入りたい。
 カウンターに座ってそれぞれカクテルを頼む。ラムズは渡した木箱からいくつか宝石を取りだしそれを眺め、お喋りな私の相槌を打っていた。
 一時間くらい過ごしたころ。私がお手洗から帰ってきたとき、奥のテーブルで見慣れた人物が座っているのに気づいた。美人そうな女の子と並び、小洒落た服を着ている。前より羽振りもよくなったらしい。
 もやもやとした気持ちで椅子に戻る。
「どうかした」
 宝石を見ていたはずなのに、ラムズは私の変化にすぐに気づいた。私はグラスを意味もなく机の上で擦り、不機嫌そうな声で漏らす。
「元彼がいたの。リスカ始めたの、あいつに切られたせいでさぁ……。喧嘩もいっぱいしたし……。それなのに今、なんだか幸せそうだから羨ましいなぁって」
 彼はグラスに映った元彼の姿を捉えた。「へえ」
「彼女、私よりかわいいし。あいつはたいした男じゃないのに。なんだかそういうのってムカつくじゃん」
「どうなってほしいの」
「え〜。私より不幸だったら嬉しい」冗談っぽく笑ってみせる。
 あの子も殴られてるのかなぁ。でもそのわりに、本当に普通そうに話してるよね。健全なカップル。私はラムズと同じように、グラスに映った彼らを見た。しばらくすると元彼が鞄から婚約指輪を出した。
 ここでプロポーズするんだ。最悪〜。運悪すぎじゃない?
「わりといいダイヤモンドだな」彼は自分のカクテルグラスをくるくると回している。
「そうなのぉ? たしかにこっちからでもわかるくらい、大きいし光ってるけど」
 私は彼の服の袖を緩く引っ張った。「かわいいと思う? あの子」
「興味ない」
 それはそれで嬉しいけど。「かわいいかはどうかは〜?」
 ラムズは私をちらりと見て、軽い調子で言った。
「人間の中じゃ整ってる」
「ん〜……。私は〜?」
 彼は青いスパークリングワインを喉に通した。「いつも言ってる」
 さらっと言うと、私が何か返す前に頭を向けた。
「それより、ここに友達いる?」
「え? いないよ。さっきの元彼がいるくらい」
 もうすぐ深夜を回るころだからか、客は元彼のカップルに、男の三人組、おそらく同じ娼婦らしき女が二人、あとは店長だけだ。
 くしゅ、と小さくくしゃみをする。雪でも降ってきたのかな、珍しい。店の中の温度が下がっている気がする。店主は首を傾げながら魔道具の調整をしはじめる。
「これ着て」
 彼は自分の外套をわたしの肩にのせた。外套自体が発熱しているようにほんのり暖かい。袖を通すとあまりにぶかぶかで、にへらと笑った。
「ラムズは寒くないの?」
「全然」
 天井からみしみしと音が聞こえる。蜘蛛の巣状に霜がはり、みるみる這い進んで釣り下がっていた魔灯を包む。
「ね、ねえ。おかしくない?」
 彼のコートのおかげで私は寒くないけど、よく見れば床も凍っている。
「あの男、不幸になってほしいんだろ」
「え? あ、うん」
 店内の異常に気づいた客たちが立ち上がり、店長に文句を言っている。でもカウンターのそばで足踏みをしていた客が動きを止めた。氷が足を覆い、床から離れられなくなっている。
「おいで」
 動けない客のあいだをラムズは悠々と歩き、後ろの席に座っていた元彼に近寄った。彼の魔法のおかげで私は動ける。ちらちら周りを見ながら彼についていく。
「結婚おめでとう」
「あ、え。お、まえ、誰だよッ……」
 青白い唇で途切れ途切れの声を漏らす。隣の女を引き寄せ、二人で肌を擦って温めようとしている。
 元彼は私に視線を移した。「お、ま。え。なんの、用、だよ」
「ねぇ、どうい、うこと?」
 女はもらったばかりの婚約指輪を付け、その手でそろそろと元彼の体を摩った。ラムズは彼女の手を取り、にこやかに笑いかける。
「もらってい?」
「え、あ、いいわ、け」
 すぅ、とラムズの手に小さな竜巻が現れる。風は白んだナイフの形にみるみる整いはじめる。凍った青白い女の手をテーブルにのせると、薬指ごとナイフですぱんと切断した。
「ッ?!」
 指が凍っているせいか、血も流れなければ痛みも感じないらしい。ただ目を白黒させている。
 私はラムズの服を掴んだ。「ねぇ……ちょっと」
 彼は柔らかく目を細める。「まだだよ」
 もうわかっていた。店の温度が下がったのはラムズのせいだ。部屋全体に氷を張らせてる。別にそんなこと頼んでないのに。
 元彼も周りの客も、ひとり問題なく過ごしているラムズが原因だと気づいているようだった。でも氷漬けにされた足は動かないし、凍てついた温度で口も効けない。瞳孔を彼のほうに向けるので精一杯だ。
「もういいよぉ。だめだよぉ……」
 彼は私の頭を優しく撫で、唇にそっとキスを落とした。「いい子にしてて。な」
「だけ、ど」
 彼は人差し指を自分の唇に寄せる。眇めた青眼の奥が妖しく光り、心拍がどきりと脈打つ。静かに、黙ってろ、そういう合図だ。私は急いで数回首を縦に振った。
 ラムズは机にのったワイングラスを掴み、二周回した。一瞬にして湯気が立つ。温かくなったそれで、白く凍りかけていた女の顔が溶けていく。
 ラムズは彼女の唇にグラスを押し当て、無理やり喉へ流し込もうとした。唇から落ちたそれが胸に滴り、シューシューと音を立てて皮膚を蝕んでいく。
「ぁぁッ?! あぁああぁあ!」
 いつの間にか毒に変わっていたそれが肌を溶かし、赤肉や骨を露わにする。
「いやなら飲んで」
 ぞっとするような寒々しい声だった。自分に向けられた声じゃないのに、氷点下の声色で心臓が凍りつく。女は急いで口を開けた。ワインが口に入った瞬間、彼女は泡を吹きはじめる。
「ぁ、ぁあぁ……ぅあ、あ……」
 喉を掻きむしり、目玉が浮き彫りになっていく。見ていられなくなって目を瞑った。しばらくして床に体が落ちる鈍い音がした。
「……あ。あ、あ?」
 元彼は懸命に凍った腕を動かし、彼女に触れようとしている。
「ねぇラムズ。……なに、してるの? 頼んでないよ。助けて、あげて。他の人……も」
「ああ、忘れてた」
 彼がぱちんと指を弾くと、客の足を覆っていた氷が凄まじいスピードで全身まで這い上がった。頭のてっぺんまで凍らせると、中の人間の体まで氷へすげ変わった。透きとおった六体の氷像が倒れ、大きな音が地を震わせる。天井からは氷柱が下がり、床や壁は既に真っ白の霜が飾っている。早くも雪の城へ早変わりだ。死体から割れた氷の欠片があちこちに散らばり、きらきらと瞬いている。
「こいつは生かしておいたほうがいいよな。不幸にしたいんだから」
「……え、え?」
「俺たちの記憶は消すから」
 ラムズは元彼の額にそっと指を添える。元彼は徐々に目を閉じると椅子に倒れ込んだ。
 彼が私に向きなおる。恐怖で固まったままの私にそっと笑いかける。
「どうかした? 寒い?」
 ついさっき人を殺した者の顔とは思えなかった。客と店長、元彼の彼女、合わせて七人をたった今殺した。でもそれにしてはあまりに清々しい表情で、美しい微笑で、落ちついた声色だった。
「ちが……ちがくて。あの……」砕け散った氷片を視界に映す。「みんな……殺す必要、あったの?」
「目撃者がいると煩わしいだろ。記憶を操るの面倒なんだ」
「ラムズぅ……」
 どうしたらいいかわからなくなって、私は彼の腰に抱きついた。いや、縋れる人が彼しかいなかった。
 目の前で人が殺された。氷のほうは死んだことすら信じられない。まるで魔法──いや、魔法なんだけど。ただのマジックか何かのように……。でも女の人は……。
 別に人が死んだのを見たないわけじゃない。魔物に襲われることもあるし、盗賊や浮浪者、|獣人《ジューマ》や悪魔に殺された人間はたくさんいる。意外と死は身近にある──。
 でも、今日殺したのはラムズだ。それも私が言ったから。
「私のせい? 不幸になればいいって言ったから?」上目遣いに彼を見る。
「あー、それよりも」ラムズは私の頬を撫でた。青の視線が見下ろす。「あいつとの記憶を塗り替えようと思って。嫌な記憶を思い出しても、これに勝ることはあるまい?」
 ゆっくりと彼が歩いてきて、私はすり足で後ずさった。とん、と冷えた机に手が触れる。「……怖いよ」
「お前にはしないよ」
「宝石ほしくて、殺したの」
 無表情で喋る彼がどうしても生きた使族に見えなくて、心臓がけたたましく警鐘を鳴らしている。
「それもあるかな」
 怖い。彼が怖い。こんなに人間離れした顔つきだったっけ。こんなに異質な響きの声色だったっけ。目の中、こんなに透けてたっけ。
「……ねぇ」視界の隅、顔や胸元の爛れた女が見える。急いで目を逸らした。「嫌だ、怖い」
「心外だなあ」表情を落としたような顔が笑う。
 彼が私の腰に手を伸ばし、突然のことにびくりと肩が震えた。冷たく瞥見され、体を持ち上げて机に乗せられる。
「ラム、ズ」
 彼の胸元に手を伸ばす。彼は体を近づけ首の後ろに手を回した。冷ややかな温度がうなじをなぞった直後、息を奪われる。唇を優しく舐めたあと、わずかに空いた隙間から冷たいそれが挿し入る。
「ん、ぁ……んッ」
 今キス流れじゃなかったじゃん。咥内をざらりと舌が這い、唾液を流し込まれる。静けさの降りた店内でぴちゃりと水音が漏れる。意外とすぐにキスから解放され、今度は首筋に顔を埋めた。許可なく皮膚を噛まれる。血液が溢れ吸われていく。
 なにしてるんだろ。怖いって言ったのに。しかもこんないっぱい人が死んでるところでキスするなんておかしいよ。でも体だけは正直で、吸われれば吸われるほど見知った痛みと恍惚感に疼いていく。心臓が熱く脈打ち、どこか体が火照ってくる。