自慰

 次に彼と狩りに行った日のことだった。
 闇夜の落ちる細い路地裏。青白い月明かりだけが頼りで、ラムズの誘導に従って人を襲った。女を動けないように刺したあと、血を飲もうと屈み体に手を置いたとき、彼女の感情が流れ込んできたことに気づいた。異常に驚いて思わず尻餅をついてしまう。ラムズが腰を掴み立たせる。
「どうかした?」
 裏側から透ける月光で彼の銀髪が青く煌めいている。プラチナのように妖美で、罅割れた鏡のように不吉に見える。
「いや……。なんでもない」
 首を振って女に近づく。指が震える。こんなところで怯えてるわけにはいかない。怪我をしている脇腹の辺りに触れた。
『どうして聖女ジュアナ・ラピュセルに襲われたの? 彼女は何をしているの? 隣の男は誰? ジュアナ・ラピュセルは聖女でしょ? どうして……。あぁ、子供がいるのに。死ぬの? このまま私は殺されるの? やめて。痛いわ。聖女だというのは嘘だったのね。格好いいわねと娘に話したばかりだというのに……。裏切られたわ。悲しい。悲しい。悲しい』
「やめて!」
 思わず叫んでいた自分の声に気づく。顔が青ざめいく。武者震いが止まらなくなり、手足が痙攣しはじめた。嫌だ。やめて。ごめんなさい。ごめんなさい、本当にごめんなさい。
 ラムズが近づいて、女の体に口をつけて血を飲んだ。すり足で後ずさっている私を掴み、肩に手を当てて口づけられた。
「ッ!? んッ!?」
 抵抗する手は別の腕に抑えられる。私の口に血が送りこまれた。女の血だ。見知った味に心臓が落ちつき、ゆっくりと腰を下ろす。すべて私の腔内に血を入れると、また同じようにして血を口移しで寄越した。
「ぁ、はッ……。ん……」
 ついでとばかりに舌を弄られ、嫌でも抱かれたときのことを思い出す。離れようとしてもがっちり体を抑えられる。
 血が甘いのか、キスが甘いのかわからなくなってきた。
 ぼうっとした頭で彼に掴まる。何度か血を飲まされたあと、ようやくラムズが私から離れた。
「……やめ、てよ」
「一度俺を介せば、感情は流れないんだな」
 はっとして唇に触れた。本当だ、そういう仕組みになってるんだ。盃に入れたものは感情がわかったけれど、人を通すと変わるらしい。ボトルのことを考えると、時間が経ったり、体液の持ち主が死んでも感情は流れなくなる。
「触りたくなかったんだろ」
「でも慣れておかなきゃ」
「カモフラージュ魔法でもかけりゃ、気づかれねえよ」
「……だったら今もかけてよ」
 彼は血に濡れた唇を歪め、くぃとその先を上げた。「やだね」
 あれから彼との関係は複雑の一途を辿っていた。今のように冷たく酷いような素振りをすることもあれば、突然体を引っ張られ後ろから抱かれることもある。私を抱きしめたままソファで座り、何事もなかったようにチェスを弄っている。私が駒を触ろうとすると魔法で腕を縛ってしまって、本当に何がしたいのかわからない。
 そして彼はあまり外で血を飲まなくなって、私の血ばかり飲むようになっていた。特に座っているときは断りなく後ろから吸い、一緒に肌を噛んで──食べているみたいだった。
「った、い。いたい。いたいってば」
「んー」
 何も言わず、また首筋に顔を埋める。首の側面に噛み付いて、血を飲みながら皮膚を抉った。びりびりした痛みと、どこか陶酔を誘うような甘さが体を巡りはじめる。
「どうして私のを吸うのよ」
「もともとああいうふうには吸わない」
「……ああいうふうって?」
 わざとらしく耳に吐息をかける。「気に入ったやつのを飲むのが好き」
 椅子から立ち上がろうとするとすぐにツタが巻きついてラムズの体に固定された。「やめて。……シたから、そうなったの」
 彼は後ろでくつくつと笑った。「さあ、どうかな。案外お前が許してくれるから」
 腰に回されている腕に爪を突き立てる。血が出るくらい強く引っ掻いた。
「許してない」
「あと一ヶ月もねえだろ。我慢して」
 |徒《いたずら》に彼の皮膚を|抓《つね》る。指を逆方向に曲げ、そのままぼきりと骨を折った。彼の反応はない。
「他の人に言わないわよね。私を……抱いたこと」
「自慢するような性格に見える?」
「まぁ、もともと興味なさそうだものね」
 そのあとは抵抗を諦め、宝石を触る彼の横顔を見ていた。凝視していてもまったく気づかない。いや、気づいているのかもしれないけれど、どうでもいいと思っているんだろう。彼が宝石を見ているときは、その場に宝石と彼しか存在していないみたいだ。瞳の裏側が宝石のごとく煌めいて、自然に唇が弧を描き、呼吸も瞬きも忘れて見入っている。
 その情景は、とても美しかった。
 私なんてその場にいないみたいで、ここが薄暗い地下室であることも、酷い拷問をするような男だという事実も、全部忘れた。古びた皮のソファ、少し錆び付いた白い魔石灯、どんな汚らしい家具も気にならない。人間ではないからだろうか、それともラムズだからだろうか。
 絵になるような美観の中で、自分の胸元で感じる鼓動や僅かに鼻から漏れる呼吸音が物凄く耳障りに感じる。知らぬ間に、彼のほうへ手を伸ばしていたことに気づいた。
 宝石を見る彼の瞳が、好きだ。
 ラムズは私を放した。するりとツタが抜けていく。訝しげに思いながらも立ち上がった。彼はこちらに見向きもせず、机上に並べた宝石の香水瓶を手に取っては眺めている。
 遠目でその姿を見て、胸の奥がきりきりと傷んだ。あの瞳は痛いくらいに優しいのだ。心の底から宝石を愛しているんだろう。あれはそういう瞳だ。
 自分の右頬を摩る。私がヴァロレンス王国の国章を初めて彫ってもらって、その顔が映る鏡にうっとりしていたときの私の瞳と似ている。いや、それ以上かもしれない。
 引きずるように重い足を動かし、寝台のある牢屋へ戻った。白いシーツに体を放りだす。
 優しくしてくれたあの夜が忘れられない。
 耳元で囁かれた、あの淡く清澄な掠れ声が忘れられない。
 宝石を見るときと同じような、柔らかな愛のある眼差しが忘れられない。
 あの瞳が好きだった。
 ラムズを嫌いなのは本当だ。血を飲んでいる今も、彼は「俺のこと本当嫌いだよな」とどこか嬉しそうに言うし、憎い気持ちも嫌な気持ちもちゃんと持っている。
 布団を被る。抱きしめたり血を飲んだりはするものの、ラムズはあれから、あの瞳で私を見ることはしない。あんな声を出すこともない。彼なりに気を使っているのかもしれないし、わざとそうしているのかもしれないし、何も考えていないのかもしれない。正直有難かった。でもキスだけはやめてほしい。いくら表情が違くても、何度もあの日のことを思い出すから。
 涙が零れる。頬が熱くなる。
 私は誰かにああいう瞳で見てほしかったんだ。尊敬の眼差しでも期待の眼差しでもなく、こちらを慈しむ眼差しがほしかった。誰かにジュアナ≠愛してほしかった。ずっと昔に見た母親の眼差しが恋しい。ラムズに期待しているのはそれだけで、あの眼差しなら誰でもよくて、あの瞳だけ抉りとって保管しておきたいと思ってしまった。そしてずっとそれを眺めていたい、と。

 彼が地下室にいない時間、たまにあの日のことを思い出すと、罪悪感に駆られながらも秘部に手を伸ばしていた。この地下室にいるあいだはジュアナでいていい、たまには休んでもいい。これは別に誰かとしているわけじゃないんだから──自分に言い訳をしながら、くちゅくちゅと蜜壺を弄った。
「ぁ、……ん。んんッ…………。はぁ」
 どうやってやればいいのかわからず、嫌でも彼の指や屹立を思い出してすることになった。イく感覚もよくわからない。肉芯を上下に摩り、細かな疼きを逃がさないように腰を捻る。こうしていると彼とのキスが恋しくなる。
「ン、ぁッ……。や。らむ、……やッ、は……」
 あの日を思い出すと胸がときめいて、だから彼の名前を呼んでしまう。でも……彼を使ってシているみたいで、それは私と致そうとした他の男と同じことをしているようで、なんだかラムズに申し訳なくなる。そして……自己嫌悪に陥る。馬鹿みたいだ。
 ある程度満足したら中途半端なところでやめて、濡れた指を舐め、布団を被って何かから隠れた。

 いつかもそうやって慰めていた。
 横向きに寝転がり、両足を擦らせてあいだの指をどんどん愛液で濡らしていく。彼の形を思い出すように中指を折ってナカを刺激した。ひく、ひく、と小さな甘露が見え隠れする。
「は……ッ。やん、ぁ……ら、らむず、ぁ、……ぁん」
 慣れてきたのか、回数を重ねるごとに気持ちよくなっている気がした。下腹部を巡る熱を追いかけるように夢中で指を動かし、知らぬ間に涙を零しながら喘いでいた。
「ぁん、やッ! は、ぁ……あ、ぁあ。むず、あ。ら……ぁ、むず」
 肉感が最上級まで引き伸ばされたころ、そのあとどうしていいかわからず手を放した。
「はぁ……は、ぁ」
 荒い呼吸を繰り返し、鼓動を落ちつける。びくびくと疼いたままの淫花から手を放した。そのとき寝台が軋む音がして、大袈裟に肩が震え驚いた。声が上擦る。
「は、え……。あ、の……。え、と」
 いつからいたの。嘘でしょ。嘘でしょ? 見られたってこと?
 ラムズは寝ている私を冷たく見下ろし、そのまま脇に手を差し入れて体を持ち上げ、私を自分の前に座らせた。後ろから腕を回し、私の手を取る。
「教えてやるから」
「……は、え。だ、だいじょ、ぶ。あ、の……いつから、えと」
 淡々とした声が後ろで落ちる。「地下室に来たら声が響いてたから。最初は何かに苦しんでるのかと思って──まあ、違っててなにより」
 顔が熱い。最悪だ。見られたなんて最悪すぎる。手で顔を覆って、身を縮めた。
「めん、ごめんなさい……。貴方のこと、そういう……。そういうふうにして、ごめんなさい」
「気にしてない。やんなくていいの」
 瞳孔がぐるぐると回る。恥ずかしくて死にそうだ。でも思っていた反応と違くて若干戸惑った。こういうの見つけたら、ふつう……襲ったり茶化したり、しないんだ。太腿に落ちた彼の手の後ろに自分のものを重ねた。彼のほうが少し太く骨ばっていて、でも男にしては華奢で滑らかだ。指を絡める。
「ぁの……ん」
 酷いいたたまれなさで、どうしたらいいかわからなかった。
 彼は後ろから私の手を取り、秘部に指を当てた。ゆっくりと撫ではじめる。さっきまで弄っていた柔肉が急に熱く火照ったようになって、びくびくと口を開け媚蜜を吐きだした。
「イってないんだろ。これ、こうしたら気持ちいいと思うよ」
 どうして平然とそんなことを説明するんだろう。耳に触れる冷たく平易な声が寧ろ劣情を煽り、顔まで真っ赤になる。
「ん、ん。うん、やる」
 言われるがままじゅくじゅくと弄る。彼は手を添えて指の動きを誘導した。
「そんな強くしなくていい。これくらいのほうが──」彼が触りなおすと、一気に津波のような快感が押し寄せた。彼の腕を力強く掴む。
「……ぁ、は、ん……。やぁ、……」
「わかった?」
 ふるふると首を振り、なるべく同じように動かした。彼よりは落ちるが、さっき自分でしたときよりも気持ちいい。
「あとはこうして」温かな潤みを指で絡め、秘園に撫で付ける。そのあと裂け目を指の腹で抑え、陰口の中にぐちゅりと入れた。
「ぁ! ん、んぁ……」
 奥の壁をやわやわと愛撫する。「わかる? ここ触って」
「ん、ん。ぅん、ぁ、ん……」
 彼はすぐに抜いてしまった。焦れったい快楽を全身が渇望している。抜かなくていいのに。そのまましてくれればいいのに。涙を潤ませながら、彼に手を引かれ同じように指をナカに入れた。指示されたところをぐちゅぐちゅと押す。
「……れで、そのあと、どうする、の」
「たまにやめたり、動かしたり、強弱を付けるといいんじゃねえかな。イきそうになったら変に体勢は変えないで、そのまま同じことしつづける」
「……うん」
 彼はそれから触ってくれないし、とはいえ完全に高ぶってしまった体を放置することもできなくて、そのまま自分で弄りつづけた。教えてもらったおかげで、いつもより強い快感が下腹部を覆い、蜜で蕩けたような声が漏れた。
「ぁ、……は、はぁ。あん、ゃ、あ……」
 絶え間なく悦を送りつづけ、次第にちかちかと絶頂の影が見え隠れしはじめた。
「は、ぁ、や。だ……ん……」
「やめたらだめ」
「や、……こわ。んッ……」
 抜こうとした手の上に、彼のそれが重ねられる。中指を押すように動かした。ぐちゅ、ぐちゅ、と水音が立ち、彼の手のほうにまで粘液が染みていく。
「ぁん、あ、や、ッ……らむ、らむず。ああ、ぁっ! ん、んんんんん!」
 気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。ついにその頂きを捉え、稲妻が走ったように体が震えた。普段しているときよりも刺激的な快楽に脳が痺れる。びくん、びくんと、その余韻で秘部が呼吸する。
 彼は手を放した。自分の指を舐めたあと、体の横に回していた足をどかす。膝を立て、ベッドボードに体を預けた。
 私は振り返って彼を見る。何を考えているかわからない、無表情な仮面が首を曲げてこちらを見ている。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……。あの男たちみたいなことして……変なことさせて、えと、あ、の……」
「何も思ってねえって。ただ人が来るようなところではやんなよ」
「あ、ん、ん……」
 そりゃそうだ。ふしだらだ、聖女なのにこんなことしてたら絶対におかしい。自慰行為だって本当はしてはいけないことだ。ごめんなさい、ごめんなさい。もはや何に謝っているのかもわからず、虚ろに言葉を繰り返した。
 ラムズは俯いた私の顔を、顎をすくって上に向けさせる。
「責めてるんじゃなくて、襲われるからやめろって言ってんの。名前なんて呼んでたら、抱いてほしいのかと勘違いされるよ」
「……あ。ん、そ、そっか。うん」
「ここでは好きにしていいから。他ではやんなよ」
 彼は頭をとんとんと叩くと、そのまま寝台から降りた。思わず彼のジャケットを掴んだ。
「か、勘違いじゃない」
 なに言ってるんだろう。なに言ってる、なにしてるんだろう。イった直後だからか頭が溶けちゃってる。理性が消えてる。言い直そうともう一度口を開くと、先に彼が言った。
「聞かなかったことにするな」
 そのまま私の手をそっと外し、部屋から出ていった。放心状態で腕が落ちていった。いつもは悪戯みたいに抱きしめたりキスしたりするのに、今回は何もしなかった。ラムズが何がしたいのかわからない。酷い。
 いや、でもこれでよかったんだ。抱いてもらっていたら絶対に後悔した。私がおかしかっただけだ。彼はそれがわかっていてああ言ったし、自分でできるようにしてくれたんだろう。でもあれを断るのは──、残酷な仕打ちでいて、硝子のように脆い優しさに頭がくらくらした。