復讐

 次の日から、私は毎日毎日隙を見てはラムズを襲った。許されていた剣を使って何度も彼に切りつけ、腹に穴を開けた。だいたい彼は無抵抗で、たまに腕で防いだり剣を素手で掴んだりすることはあれど、ほとんど致命傷を負い──それで、また、すべて元通りの体に戻った。
 何回刺しても殺せない。魔法なら殺せるんだろうか。魔法を返してと叫べば、「宝石を魔法から防ぐのは面倒だから嫌」という。つまり宝石がない限り、魔法であっても彼のことは殺せないということなんだろうか。
 ただの八つ当たりだ。ヴァロレンスで起こったことでない以上、彼のせいで処刑されたわけではないはずだ。だけど……やっぱりすべて彼のせいだと思ってしまう。
 私が狩りに出かけようとしないので、ラムズは連れていくのを諦めた。どうしようもなく私が飢餓感に襲われていると、彼は無理やりキスをし、自分の舌を切ってその血を飲ませた。
 一定量口の中に入ると、隠し持っていた短剣を掲げて首に突き刺そうとする。いったいどこに目がついているのか、蔦がするすると回り腕ごと縛った。
「飲むときくらい大人しくしてろ」
 血に染まった口腔が見える。私は目を据わらせて、低い声で唸った。「うるさい。貴方がバラして、そのせいで私は処刑されるんだ」
「そうかもな。もういいの?」
 しばらく逡巡した。自分でも矛盾した行動を取っているのはわかっている。でも、なによりおかしいのはこの男なのだ。私を攫い、血を飲ませ、人間を殺させ、不貞を奪おうとした。それなのに監禁中は理由なしに甚振ることはせず、血を飲ませるのは私の神力のせいだといい、国を救うため優しく抱いた。性欲に呑まれかけていた私を救い、それでいてキスはするし私の血も飲んでくる。私をジュアナのままでいいと諭し、休めばいいと労り、死ぬのが怖いと泣けば慰める。わけがわからない。情緒がおかしくなっても仕方ない。彼自身が矛盾したことばかりするのだ。だから私もどうすればいいのかわからなくて──憎む相手と救ってくれる相手が同じだなんて、そんな無茶苦茶なことはない。
 お腹は空いている。食べなければこの前のように化け物になってしまう。人を殺さずに済むのなら、彼の血を飲むほうが結局マシみたいだった。なによりそれを許してくれているなら、今はそれに甘えたほうがいい。
「……飲む」
 彼は私から剣を取り上げると、もう一度唇を合わせた。自分で舌を切るだなんて呆れる。切った先の舌は飲み込んでいるのか、ただただ生温かい血が喉を潤していく。
 血を移されているあいだ、既に治った舌で私のそれを遊んだ。弄ぶようにつつき、歯茎をやわやわとなぞり、長すぎる舌で喉を擽る。頬の裏を掻き撫で、唾液と血の混じった液体がぴちゃぴちゃと音を立てる。
「ぁ、ッは、……は、ぁ……」
 彼の血は甘くて、倒錯的なキスも甘くて、剣でも振らなければ頭が溶けてしまう。知らぬ間に舌を絡ませ、もっとほしいとせがむように体を近づけた。美味しい、甘い。美味しい。気持ちいい。
 そっと唇が外れる。
「お前もどうせ治るだろ」
「はあ? 何が」
 彼はソファに体を押し倒すと、噛み付くようにキスをした。彼の体重で息が苦しくなる。喘ぐように呼吸をすると、浮いた舌を捕らえられた。ぎちりと噛まれ、そのまま舌の腹を喰い千切った。
「んっ!? んんんん、んんんんんん!」
 あまりの激痛に目が見開き、体が硬直する。溢れる血をぜんぶ吸いだしたあと、彼は喉を鳴らして顔を上げた。
「お前が外行かねえからだろ」
「もう殺したくない」
「散々殺ったくせに」彼は意地悪く嗤う。「自分で言ったんだろ、見た未来は変わらないって」
 肩が震える。うるさい。お前のせいだ。うるさい。死にたくない、死にたくないんだ。でもその感情が嫌で嫌で堪らなくて──全部お前のせいだ。
 ソファに転がっていた剣を取って彼に襲いかかった。先に手首を切りつけたあと、くるりと剣を回し胸元に向かって振りかざし──直前で角度を変え翻った剣で彼のベルトを狙った。
 柔らかなものを切った。見れば直前のところでラムズは剣先を素手で握り、掌いっぱいの鮮血が零れていた。血は剣をわずかに伝い、残りは床に大きな水溜まりを作り、魔石灯に反射して一部が光った。
「お前……」
 知らない声だった。
 ラムズはすぐさま剣を自分のほうへ引き、勢いで私の体がつんのめった。体を受け止めると、がちがちに蔦で体を縛り付け膝立ちにさせる。顎を強く掴み目玉に向かって剣先を突きつける。
「今宝石狙ったよな」
 ぞっとするような声だった。
 背筋が一瞬にして凍り、冷や汗が滝のように流れはじめる。手足が痺れ、食いしばった歯からかたかたと音がする。
「俺それだけはやるなっつったよな」
 心臓が警鐘を鳴らし、呼吸が追いつかないほど肩が上下する。鋭い剣先にも、心を刺し抜くような眼差しにも、極寒の恐怖で目が逸らせない。瞼を閉じられない。
 彼はまず、そのまま剣を目玉に突き刺した。
「ぁ!? ぁぁああぁぁあぁぁあああ!」
 痛みに悶える私の体を起こし、もう片方の目もこじ開け、同じように脳の後ろ側にまで剣で貫く。鉤爪のような親指の爪で瞳の両側からぐりぐりと眼を抉った。
「なんでやんの。なあ。よくしてやっただろ」
「ぁ、あ……た、あ……いた、いたい。痛い痛い痛いぁあああぁあああ、やぁ、あ」
 傾いた顔は眼が笑っていなく、唇だけ嘲るように傾けた。「必要以上に嫌われたくはなかったがまあ、もういいや」
 体を床に押し付けると、口を開かせ、歯茎に刃先を当てた。
「め……め、あ、ゃ、め。やめ……」
「お前が悪いんだろ。なあ? あと一歩遅れたら傷がついたんだ」
 歯の根元ごと切り取るように、凄まじい力で刃を横に引きがたがたと切りつけていく。赤い血肉を散々傷をつけたあと、奥に深く差し込み、それぞれの前歯を無理やり抉りとった。
「た、ぁ、ああ、ぁぁぁああぁあ、あ、あぁあ」
 頭ががんがんする。あまりの激痛に意識が何度も途切れ、そのたびに痛みに跳ね起きた。死にそうになるのに死なない。痛い。痛い。痛い。やめて。やめて。やめて。
「なら付けてくんなと思ってんだろ。付けてないと苛々すんだよ。でもお前のために来てやってんだろうが」
 喉に剣を刺し、引っ掻き回すように口内を嬲った。声にならない声が漏れ、血か唾液かわからないものがだらだらと流れていく。
 彼は立ち上がり、深い溜息を吐いた。剣を心臓に突き刺し床まで貫通させると、何も言わずに出ていった。

 顔や口の怪我が治ったあと、私は痛みを堪えながら胸に刺さった剣を抜いた。熱い息をして、床を這うようにソファへ戻る。机の下にあったボトルに手を伸ばして、残っていた血を全部飲み干した。
 悪かったとは思っていないが、馬鹿なことをしたとは思った。あんなに怒ると思わなかった。もしかして……本当にヴァロレンスを滅ぼすだろうか。母親に手を下すだろうか。
「なに、やってんだろ……」
 ぐすぐすと泣きはじめる。
 そもそも人の大事なものに手を出すなんて、あの男とやっていることが同じじゃないか。それに……憎しみに身を任せて、復讐のために彼を襲うなんて。自分が死ぬことの怖さに自暴自棄になり、ヴァロレンスのことも大事な人のことも忘れるなんて。
 ──なに、やってんだ。

 それから一週間、彼はずっと牢屋に来なかった。血を与えてくれる人も、血を持った人間を運んでくれる人もいない。不味いふつうの食事すらなく、もちろん水もない。監禁されてから今まで、彼が食事を持ってこなかった日はなかった。それどころか、毎日一回はどこかのタイミングで必ず体を浄化魔法で綺麗にしてくれさえした。
 お腹が空いた。何か食べたい。お腹が空いた。
 空腹感というものは、最初の数日がいちばん辛いのだ。一週間じゃこの前のように骨と皮だけになることはなかったけれど、耐え難い空腹に何度も意識を失った。

 八日目の昼ごろ、ようやく彼が地下室に降りてきた。小ぶりのピアスだけを付け、ポケットに入れた宝石付きの懐中時計を苛々と触っている。
 私の牢屋の前まで来ると、怪我をした人間を床に転がした。
「飲んどけ」
 吐き捨てるようにそう言い、踵を返して立ち去っていく。
「な、……ん、で」
 掠れた声が漏れた。
「なに」
 振り返った彼は、ただ冷え冷えとした視線を向けるばかりだった。
「そのま、ま。放っておけば、いい、のに」
 彼は目を眇めた。「触ったわけでも傷をつけたわけでもねえからな。お前がもっと無能なら殺すが、そもそも殺せねえし、あと三日後には解放する約束をしたし」そのあと顔を歪めて雑に言い捨てる。「正直顔も見たくない」
 何度かブーツの爪先を落とし、苛立たしそうに視線を左右に揺らした。「ほんっとう、反吐が出る。お前にあんだけ良くした自分にも腹が立つ」ぎらぎらと眼を尖らせ、鋭い声を投げた。
「あぁ、ああ!」
 腕を振り、近くの格子に思い切りぶつけた。生き物のように瞳孔がちかちかと揺れている。
「……まあ、まあ。わからなくもない。たしかに、俺の勝手でそれだけお前を傷つけたのは事実だ。その腹いせだろ。俺でもそうする。だから、まあ、まあ、そうだな」
 明らかに様子がおかしい。彼は本当に本当に宝石に狂っているのだろう。好きなのは知っていたが、その|何如《いかん》でこんなに壊れてしまうなんて。
「気になってるだろうから言うが、母親やジルに手は出してない。壊してねえからな。そこまではしてない。してねえが」一度大きく息を吐き、どこか虚脱感のある声が落ちた。「お前を許せそうにない」
「め……、ごめ、ん。なさい」
「あ?」
 私は男の傷をまさぐり、血を口に入れて喉を滑りを少しでもよくした。ごほごほと咳き込んだあと、もう一度言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」それでも、許しを乞うために嘘をつくのは嫌だった。「悪いとは……思ってない。そんなに傷つくのは想定外だったけれど、でも……。でも、貴方自身じゃなくて貴方の大事なものを狙うのは、卑怯だった。それに国や母のことを忘れて動いてしまっていた。だから……反省はしてる」
 悪いとは思っていなくとも、自分の罪を償うため、彼にできれば許してほしかった。これ以上罪を重ねたくなかった。
「なにか……私にできることはある」
 彼は床で座り込んでいる私を見ていた。不機嫌そうな視線が何度か行き来する。
「もう俺の宝石を傷つけないって、ステュクスに誓え」
「え。え? あと数日でいなくなるのに?」
 彼は苛々と舌を打つ。「数日でも嫌なんだよ」
「それでいいなら……」もっと酷いことを要求されると思ったが、結局彼にとってはなんの心の足しにもならないんだろう。「もうラムズの宝石を脅かさないわ。ステュクスに誓います」
 私の口元をじっと見たあと、目を伏せる。こちらに近づいた。なんだか怖くて、気持ちばかり身を固くする。私の前でしゃがむと大きく息を吐き、私の頭に手を乗せて下に向けさせた。
「やりすぎた。耐えられなかった。でも傷つけてねえのに……」
 そこで言葉を切ると、顔を覗き込むようにこちらを見た。「あの人間の血でいい? 俺のがい?」
「大丈夫、あれを飲むわ」
 彼は立ち上がって私に背を向けた。こつこつと革靴の音が響く。「すぐ戻るから」と軽く声を落とし、地下室の扉を開けた。

 私が彼に悪いと思う必要はなく、概ね普段どおりに接してくれた彼を優しいと思う必要もなかった。私も彼にほとんど同じことをしたから。だから今になって対等の立場になったような、そんな気持ちで一日を過ごした。
 でもラムズの一件が収まり、空腹感が満たされたことで、あの日見た未来予知のことを思い出した。もう彼に切りかかる気はなかった。本当になんの意味もないからだ。ただ私の苛立ちをぶつけているだけだし、その苛立ちもどこかで凪ぎ、ただただ悲壮感と虚無感だけが心を支配していた。
 ソファに並んで座り、ラムズは自分のネックレスや腕輪を眺めていた。彼の腕を少し揺らす。
「ね、ねぇ」
「なに」
「え、っと……」
 やっぱりどこかバツが悪く、とはいえそれだけでなく、自分から頼んだこともなかったので余計に言葉が出ない。でもたぶん……彼は本当は私に優しくしたいわけではないだろうし、怒っているんだろうし、私が言わなきゃしてくれない気がした。
「あの……。怖くて。死ぬのが……その」
「うん」
 彼は片手で宝石を触ったまま、一応こちらを見てくれていた。
「だからその。話を……聞いて、ほしいの」
 自分が死ぬ話なんて、向こうに戻ったら誰にも言えないだろう。そもそも火炙りの刑で、異端者だと騒がれていたのだ。話せばさらにその刑が早まるとさえ思う。
 彼はネックレスを自分にかけ直すと、こちらに体を向けた。
「何が話したい」
 改まって聞かれると何を答えていいかわからなくなった。いつも彼は、私の意図を汲んで──というより、心を読むかのように相応しい言葉を投げかけてくれていたから。
「本当に……死ぬ、のかな」
「わからん。正確な神力の情報がねえからな。例えば、『不死身の体』ではなく、『ヴァロレンスという土地にいるあいだは不死身』だとか、何か条件があるのかもしれねえしな」
 例に出されたものが違うのは知っている。でもたしかに、今まで死ななかった≠ニいうだけで、なにか条件はあるのかもしれない。
「ラムズは……条件次第で死ぬの?」
 彼は一度言葉に詰まり、そのあと頷いた。「まあ」
「どんな条件?」
「それは言わない。だがお前には満たせない」
「……そう。別に、探すつもりで聞いたわけではないわ」言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。「それじゃあ……貴方も、死ぬのは怖い?」
「怖いよ」
 目を瞬く。「そう、なの? どうして?」
「そりゃ、死んだらもう宝石を見れなくなるだろ。今まで集めた宝石も誰かのものになるし。考えるだけで酷い気持ちになる」
 彼の表情が暗くなり、胸元の宝石をたしかめるように触った。
「……でも私が怖いのは、そういうんじゃないわ。ヴァロレンスを救えなくなるから死にたくない、なら……いいけど。私はただ、自分がかわいくて死にたくないの」
 ぽつぽつと記憶が蘇る。戦場で共に戦った兵士が死ぬとき、たしかに私は悲しかった。だがそれを見るたび、「私は死ななくてよかった」と心のどこかで思ってしまっていた。
 戦争は恐ろしい。惨たらしく殺された人、未練を残して死んだ人、苦しみながら死んだ人、そういう死をまざまざと突きつけられるたびに、私は彼らのようにはならないのだと目を背けてきた。なるべく多くを救ってきたけど、それでも全員ではないのだ。治癒魔法を使えるせいなのか、余計に死が遠く、余計に恐ろしく感じた。
 でも死を恐れる聖女なんて聖女らしくない。「死にたくない」だなんてふつう≠フ感情は持ってはいけない。聖女はたとえその先に屍の山があろうと、自らの死が待っていようと、突き進んでいかねばならない存在なのだ。
「こんなの聖女らしくないでしょう。でも怖くて、嫌なのよ。この感情をどうしたらいいのかわからない。自分がどんどん聖女から離れているような気がする──」
 ラムズは静かに眼を細め、おもむろに口を開いた。
「お前の話は……いつも同じところを堂々巡りしている」
「え?」
 ただ思考を垂れ流しにしたような色も温度もない声が、人形みたいな表情から垂れ流されていく。
「すべては、『完璧な聖女』を求めているところから間違えている。完全無欠の、理想を絵に描いたような──大多数の求める聖女という人形≠ノなりたがっているように見える」
 私は顔を顰めた。
「どんなに優れた神力を授けられようと、お前は初めは人間だったんだ。そして今も、変わらず人間だ。だからどう足掻いでもその人形≠ノはなりえない」
「……人形」
「死ぬのが怖い、体を犯されるのが嫌、他人の否定的な心から目を背けたい──誰もが持つ感情だろう。それをお前はなかったことにして、自分には存在しない感情だと言い聞かせて、純潔無垢な聖女であろうとしているんだ」
「……でも、それが聖女じゃ、」
「無理だ」彼の青眼がただ静かに凪いでいる。「そうじゃねえだろ。お前はただ、●光の差すところで聖女として生きていればいいんだ。国民にさえ理想の姿≠見せていればいいんだ」
「でもそんなの本物って言えないわ」
 彼は目を伏せる。「多くの英雄がそうした。死にたくない感情も、人間の醜い感情を見たときの苛立ちも、味方を蹂躙された怒りも憎しみも、すべて受け入れたうえで戦場に立った。自分にもそういった感情があると認め、それを乗り越え、その一歩先を歩んだんだ」
「つまり……どういうこと?」
「死にたくなくていいんだ。死が怖いのは当たり前だ。生きているなら、その生を謳歌しているのなら、死は怖いものなんだ。だが──」彼は言いづらそうに視線をずらした。打って変わって、茶化すような調子で言葉を漏らす。「俺が言うのもおかしな話だ。一応断っておくと、ただ他の聖人とやらを見て導きだした条理であり、ジュアナにそう生きてほしいと思ってるわけじゃねえからな。そもそも興味ない。本当にこんなことを言わせるなんて……つくづく似合わなくて自分でも笑えるよ」
 彼は道化のように左右に首を回し、そうぶつくさと文句を言う。なんだかそれが少しおかしくて、強ばっていた体が緩み肩の荷が降りた。
「で? なんなの、その貴方に似合わない話って?」
「だから……」彼は溜息混じりに言う。「聖女なら、その死を怖いと知りながらも立ち向かうもんなんじゃねえの。最初から死への恐怖を持ちえないのではなく、恐れながらも戦うのがかっこいい≠チてやつじゃねえか?」
 彼は首を傾げ、おどけたように笑った。
 ラムズは冗談めかして言うけれど、そのラムズに似合わない条理とやらは私の中でしっくりときた。
「あるものをないと言い続けるから苦しいんだろ。お前はジュアナとして生まれ、聖女として生きることを選んだんだ。なら、存在しうる感情を否定するな。だが、他人に見せるな。その感情はお前だけが知っていればよく、疲れたときに取り出して慰め、戦場に立つときに仕舞うものだ。人前ではあたかも聖女という人形≠フように振る舞えばいい。お前はこれじゃあ本物の聖女でないというが、こうして語られた逸話のほうがよほど美談と例えれる。お前の目指す本物の聖女≠ヘ、ただ国のために生きるという仕組みで動く人形……感情も意思もない操り人形だ」
 私は掌を閉じたり開いたりした。私は生きていて、操り人形じゃない。自分の意思でヴァロレンスを救いたいと思ったし、民を助けたいと思ったし、戦場に立っているはずだ。
 だから──嫌な感情も残っていていいんだ。私は、別に死にたくなくてもいいんだ。
 ぐすぐすと鼻を啜る。彼は私の肩を二回叩くと、また宝石弄りに戻ってしまった。
 ……でも、もう怖くない。いや、怖い。怖いけれど、戦場には立てる。もう一度聖女をやれる。私は生まれながらの聖女ではなく、聖女として生きることを選んだのだから。