約束

「ジュアナ・ラピュセル。時のお方にお会いできるなど恐悦至極」
 私の意識が戻って、男は胡散臭い笑みでそう声をかけた。
 どこか地下室の牢屋に閉じ込められているようだ。目の前には鉄格子の柵があり、今見える範囲で他の牢屋には誰もいないようだった。青白い魔石灯が妖しく辺りを照らし、冷たく無機質な黒壁に圧迫感を覚える。
「先ほどは少々手荒な真似を致しまして、申し訳ありません。なにぶん貴方様の神力は厄介なもので……催眠魔法が使えればお互い怪我をしなくてすみましたのに」
 彼はにこりと艶笑を零し、わざとらしく跪いて枷のついた私の掌に口づけをした。
 男も元は甲冑を着ていたが、今は貴族か有力商人が着ていそうな高級な服を纏っている。またそれ以上に、ピアス、ネックレス、ベルトに始まり、服のあちこちに宝石を付けていた。白いスラックスには細かなサファイアとダイヤが幾何学的な模様を描き、ジャケットの襟元をゴールドが縁取っている。彼の臈長けた容貌に嫌味なほどよく似合っている。
 気絶しているあいだに私の服もマシなものに変えたらしかった。もともと付けていた下着の上に、水色のワンピースを着せられている。
 もぞもぞと体を動かす。下腹部に痛みはない。陵辱されていたわけではないらしい。不幸中の幸いだ。乙女という象徴を失うのはなによりの屈辱だ。聖女としての生が終了してしまうし、汚らわしい欲望で体に触れられたくなかった。これだけは絶対に守らなければいけない。
「なんの用。イルドゥラントの刺客? 私は死にませんよ」
「ええ。お見逸れするほどの治癒能力、さすがにございます」
「質問に答えて」
 がたがたと椅子を揺らした。両足は錆びた鉄椅子の足に括り付けられ、腰は皮のベルトで固定されていた。魔法は既に試した。やはり使えないようだ。
 彼は立ち上がると、うっすらと笑みを広げた。「答えると思うか?」
「魔法を元に戻して」
「まさか」
「私を捕まえてもヴァロレンス王国は諦めない! むしろ復讐を誓いさらに士気は高まるでしょう! 今なら直接罰を与えることはしない! 早く解放して!」
「あと三ヶ月」
 男の言葉は静かな波紋を呼び、私の心が嘘のようにすっと凪いだ。
「何が」
「俺の言うこと聞いて従順にしていたら、元の場所に返してやる」
「信じるものか」
「──イザベル」
 私は目を見開いた。「母を!? 母に何を!」
「まだ手は出してねえ。お前の態度次第だ」
 三ヶ月。三ヶ月なら次の戦に間に合う。本当のことを言っているとは思えないけれど、ここで我を通しても無駄だろう。ともかくこの男が私に何をさせたいのか見極めるべきだ。戦に間に合い、母が助かりさえするなら私自身がどんな目に遭おうと気にしない。……いや、貞操だけは守らねばならないが、拷問ならば耐えてみせる。
「いいわ。私は何をするの」
「その前に、約束事を決めよう」
 私は顔を顰めた。
「俺はとても宝石が好きなんだ。お前がいくら俺に復讐を誓っても構わないが、宝石だけには手を出すな」
「……はあ? そんな願いが通ると思って? 母を人質に取っているくせに」
「俺の宝石に害を成した瞬間、お前の母親はお終い」彼は首を傾げ、笑って手を広げた。「それだけじゃない。お前の大事にしている者すべて、ひとり残らずお前の眼前で甚振って殺してやる。おあえつらえ向きに素敵な神力も持ってるだろう? 拷問に苦しむ仲間の叫びを聞きながら、お前は己の無力さに苛まれるんだ」
「……それで」
「お前の愛するヴォロレンス王国も滅ぼそうか。本来その手のことはしねえんだが──、お前が宝石に手を出せば、そういうことにもなる」
 彼はあくまで軽い調子で喋りつづけていた。
「貴方に国を滅ぼす力があるとは思えない」
 男は腰に刺さった宝石付きの鞘から長剣を出すと、自分の首に刃を添えた。躊躇いなく右に引き、魔法のかかった剣はすっぱり頭を切り落とした。鈍い音を立てて頭は床を転がり、白々しいほど端正な顔立ちがこちらを見て嗤った。
「お前と同じ。俺は死なない」
 体のない頭が喋っている。いくら美青年でも……いや、美しい顔が独りでに話しているからこそ、不気味だった。こんなものが私と同じはずがない。私の首はあんなふうに喋ったりしない。
 首なしの体は正確に首のほうへ歩いていき、そのまま切れた首へ頭を戻した。魔法で水を出すと、血のついた服をさっぱり洗い流す。もう、頭は元通りになっていた。
「しいていうなら、俺は痛くない。さっきの勝因はそれが大きいだろうな」
 そんなもの聞きたくない。「死なずとも、力がなくては国を滅ぼすことなど不可能だわ」
「少なくとも魔法に関しちゃ、こちらに分があると思うぜ。あの程度の人間の国、三日もあれば荒地にできるだろう。なにも俺だけでやるって言うんじゃない。こう見えて友人は多いほうでね」
 悪人のくせによく喋る。知らぬまに情報を流していることに気づかないのか。むしろこちらに好都合だから、指摘などしないけれど。
「その願いを聞いて、私に何かいいことがある」
 彼は少し考えたあと、ぱちんと指を弾いた。「ジル・ド・レェ。特に親しくしている兵士だよな。捕まえておくから、死んだらお前のせいだ」
 そんなのいいこと≠カゃない。「結局拒否権なんてないじゃない」
「そりゃあ」からりと首を曲げて笑う。
 私は先ほどから感じていた小さな違和感に思考を向けた。そもそも私をこのまま椅子に縛り付けておけば、牢屋に閉じ込めていればこんな約束をする必要はない。魔法が使えない以上、彼の宝石に手を出すことはできないのだから。
 逆に言えば、こんな約束を交わすということは私をある程度自由にさせる意思があるということだ。いったいなんのために?
「それじゃあ」
 男は背を向けると、剣でトントンと床を叩き牢屋の鍵を外した。自動で扉が開き、彼が通るとぎぃと音を立て自動で閉まっていく。
 本人の言うとおり、とんでもない魔法の使い手だ。あんなふうに無駄に魔法を使う人間はいない。エルフですら、単なるドアの開け閉めに魔法を使うことはないだろう。魔力が有り余っている──おそらく、魔力を無限に使用できるんだ。
 稀有な魔法でさえ無詠唱でこなし、息をするように自然に使う。おそらく人間よりも寿命の長い使族……もしくは獣人。人間以外の者が私たちの戦いに手を出すとは思えなかったけれど、何がしかの同盟を結んでいるのかもしれない。


 それから数日間、男は毎日私の牢屋まで来て話をしていた。私はふたつ返事、ひとつ返事で雑に受け答えをするだけなのに、彼は永遠に語り聞かせた。
 名前はラムズ・シャーク。使族は言わないが、二千を超える歳だそうだ。サファイアがいちばん好きな宝石で、生まれたときから宝石を集めつづけているらしい。宝石を集めるだけでなく、各地に隠された神からの贈り物──聖具を手に入れるための旅をして、聞いてもいないのにその話を事細かに語った。今までの旅は本にもしているらしい。何か童話を知っているかと聞かれ、赤い靴の話を聞いたことがあると素っ気なく答えると、それも自分が書いたと言った。
 もしかしたら嘘かもしれない。自分のことをひけらかしたいだけなのかもしれない。世界で注目を浴びている私と少しでも喋りたかっただけの、ただの愉快犯なのかもしれない。聖女を誘拐する悪人にしてはどこか滑稽で、敵対心も悪意も見えないのだ。
 物語を語る彼の声は嫌味なほど透きとおっていて、思わず耳を傾け、夢溢れるその冒険に心を通わせてしまうほどだった。赤い靴の話は、たしかに彼の言うとおり今まで伝え聞いたお伽噺の中でいちばん詳しく、本物らしかった。そのあと語った、私と同じく神力をもらった人間たちの話にも興味を惹かれ、心惑わす語り手の言葉に知らぬまに聞き入っていた。誤魔化すように咳払いをするも、そんなことすら気づいていない素振りだ。
 彼は一区切り話し終わると、私の前にある食事に目をやった。「なぜ食べない?」
「美味しくないから。食べられる味じゃないわ」
 首を傾げて、スープを一口啜った。「飲めるが」
「味覚がおかしいんでしょう。だからそんなものが作れるのよ」
 彼はくすと笑い、作り直してくると席を立った。
 奇妙すぎる生活だった。
 悪人にしては随分親切に見える。風呂は入れてもらえないものの、浄化魔法で体を綺麗にしてくれた。これは自分が綺麗好きだからだろうが、すると欠かさず持ってくる食事にも違和感を覚える。なにより彼は私≠ノ興味がなかった。女としても、聖女としても関心がない。彼と過ごして数日で、少なくともいちばんの心配事だった貞操の危機がないことにはほっとした。
 このまま三ヶ月過ごせば出してくれるのかと、彼には何度も尋ねた。そのたびに聖女の私へ向かって「誓う」と言うのだ。

 食事を作り直しても、やっぱりまずいままだった。腐った肉を煮立て、鉄を溶かした液体を混ぜ込んで焦がしたような味がする。パンや水でさえ吐きそうなほど不味く、あまりの空腹に手を出したことはあったが、結局吐いて終わってしまった。
「食わねえから……」
 彼は溜息をついて、吐いた跡を魔法で綺麗にし、残った残飯を燃やした。
「本気でこんなものが食べられると思っていて? 見た目は美味しそうなのに……どのように作ったというのかしら」
「知らん。お前の味覚が変わったんじゃねえか」
「いいえ、そんなはずないでしょ」
 彼は少し考える素振りをしたあと、牢屋を出ていった。しばらくして戻ってくると、椅子から私の足を外し、靴と足枷を付けた。麻の汚らしいフードを被せ、首に奴隷の首輪を回す。
「なにしてるの」
 低い声で尋ねると、男はさらりと答えた。「店のものを直接食ってみればいい。お前の味覚のほうがおかしいってわかんだろ」
「──外に出してくれるの?」
「どうせ逃げられねえしな」
 それはどうだろう。叫ぶこともできるし、店主に目で合図することだってできる。私の顔は有名だ。誘拐した聖女を連れて歩くなんて、やっぱり悪人にしては知恵が足りないとしか言いようがない。
「仮に逃げられたとして、母親やジルのこと、忘れてるわけじゃねえだろ」
「貴方よりも早く助けに行くわ」
「それはどうかな」
 彼はこちらを見下ろし嗤ってみせる。ぞくりと鳥肌が立ち、すぐさま目を逸らした。眼の奥に歪なものを見た気がした。
 ──もし今日までの態度がすべて彼の演技で、ただ道化を演じているだけで、本当は何か別の意図があったとしたら……。

 結局、助けを呼ぶようなタイミングはなかった。魔法で顔を誤魔化しているのか、私を私≠ニ認識した者はいなかったし、いくら叫んでも誰の耳にも届いていなかった。むしろ奴隷扱いの私があまりに体を動かしていると、周りの人間は不快そうに顔を顰めた。
 思わずぶつかった男は足に唾を吐き、きっとこちらを睨みつける。
『なんでいいとこの貴族様がこんなみすぼらしい奴隷を連れてるんだ。臭いし汚いし、だいだい奴隷なら奴隷らしく縮こまって歩けよな』
 目頭が熱くなる。意味がないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。
「私は聖女だ! ジュアナ・ラピュセルだ! 奴隷などではない!」
 ラムズは頭上で笑うと、私の頭をとんとんと叩いて前方を向かせた。
「意味ねえって」
 店に着いて、私はアプルを指さした。果物ならば腐った味がすることはないだろう。ラムズは頷き、店主に金を払っていくつか購入した。他にもほしいものはあるかと聞かれ、店にある食べ物を適当に選んで伝える。
 元の牢屋に帰る前に食べてみたいと言うと、彼は噴水のそばに腰掛けて私にアプルを与えた。
 みずみずしい色、赤く熟れた果物だ。匂いもおかしくない。はしたないので抵抗感はあったが、今はナイフもフォークもない。仕方なく、私はそのままアプルに齧りついた。
「ッは、っあ。ッッ。ゴホッ」
 なんで。どうして。魔虫を潰したような味がする。気持ち悪くて食べられない。冷や汗をかき、手に持ったアプルが急におぞましいものに思えた。
「貴方が……貴方がなにかしたの」
「なんのために」
 それは。……わからない。
 一応他の食べ物も試したが、すべて無駄だった。どれも不味くて気持ち悪くて、食べられたものではない。こんなにお腹がすいているのに、こんなに色は綺麗なのに。

 一度出かけてから、私を縛る枷が少し緩くなった。牢屋の鍵も外され、地下室の中だけは自由に行き来ができるようになった。初めは椅子に括り付けられたまま寝ていたが、今は別室にある皮のソファで寝ることができる。床で寝て節々が痛くなっても、どうせすぐに治ってしまうが、いかんせん寝付きは悪い。素直にソファで寝るようになった。
 そして私は相変わらず、毎日吐き気と戦いながら出された食事をほんの少し取っていた。
「……のど、乾いた」
 いくら喉が渇こうと、お腹が空こうと、死ぬことはない。餓死寸前までいき気絶して倒れていたときも、数時間すれば元通りの体になった。いや、もしかしたら一度餓死して生き返ったのかもしれない。喉の乾きも空腹も治らないのに、死ぬことはできないので永遠に苦しむ羽目になった。二週間前より体が痩せ細り、元より細かった手首は壁にぶつけるだけで簡単に折れた。
 虚ろな視線で地下室を歩き、普段寝ているソファがある部屋へ移動した。同じく黒く冷たい壁と床だが、魔石灯が他よりほんのり暖かい色をしていた。ささくれだった木の小棚に、ところどころ禿げて白くなった茶色のソファ。薄く細かな傷跡の目立つ鋼鉄の机。部屋にあるのはそれだけだ。
 ラムズはここ最近、一日じゅうこのソファに座って宝石のチェスで遊んでいた。私が来ると机を横に避け、触れないようにする。
 私は倒れるようにソファに腰を落とした。
「眠ります」
「ああ」
 丸くなって眠った。ラムズは、背もたれに掛けてあった薄汚れた布を私の体にかけた。

 数時間かして起き上がると、眠る前とまったく同じ体勢で彼がチェスをしているのが見えた。
「おはよう、聖女様」
 私は不快感を露わに目を眇めた。咎めても無駄だろう。
「貴方は食べないの。寝ているところも見ないわ」
「たまに食べるよ」
「へぇ、そう」
 私はなんとはなしに机のチェスに目を移した。ホワイトダイヤモンドとブラックダイヤモンドでできたチェスの駒。ひとりで遊んでいて楽しいんだろうか。
 ふと、その向こうに簡素なグラスにワインが入っているのが見えた。眠る前に感じていた渇感を思い出す。口内がからからに乾き、喉が焼けるように痛い。しばらくすれば神力のおかげで痛みが和らいでも、飢餓感はなくならない。
「ほしい」
「ん?」彼は視線を上げ、柔らかく目を細めて笑った。「そういえばお前の神力って、体液を摂取することで心情がわかるんだっけ」
 不機嫌そうに目をやる。「だからなに」
「飲んでみて」
 彼は自分の手首に爪を突き立てると、すぅっと赤いリボンを作った。玉のように鮮血が滲んでいき、手首の後ろへ回る。傷はすぐに消えてしまう。
「貴方の心情はわからないわ」
「血ならわかるんじゃねえか」
「感情を読んでもらって、どうしたいの」
「特になにも」
 感情を読んでもらいたいだなんておかしな人だ。いくら聖女であっても、皆あまり私に触れようとしない。私が触れることは許しても、決して感情を読まれたいわけではないのだろう。気持ちはわかる。
「これは命令?」
 彼は首を傾げ、悪戯っぽく笑った。「そうだな、命令」
 ラムズは同じように手首に傷をつけると、私の前に寄越した。しぶしぶ手を取って口を近づける。
 ──味がしない。
 味もしなければ、感情も読めなかった。
 だが不意に口内の不快感が消え、すっと抜けるよう清涼感に包まれた。
「わからない。何もない」
 彼は力なく腕を落とした。「そう」雫を零したような声音だった。
 ソファに座りなおし、駒を動かす彼の手を見ていた。白く細い指先は精巧な彫刻のように美しく、皺も染みも見当たらなかった。横顔から見える造形は、彼こそ神に愛されたように完璧な配置で、ときおり瞬く銀の睫毛が美しく、髪と揃いのプラチナのように見えた。
 いくら見た目が美しくとも、悪人は悪人だ。聖女である私を捕らえ、その母親を人質に取っている時点で、彼はもう神罰が下るべき存在なのだ。復讐の炎を再び心に灯し、肩をいからせる。
 俯いて唇を噛み締めれば、自分の指先が目に入る。もとは彼と同じくらいには綺麗な指だったはずが、やせ細った小枝──いや、よもや骸骨みたいだ。黒ずんだ皮膚が張り付き、水分を餓えて不自然な皺が無数にできている。
 そこでふと、常に影に潜めている飢餓感がどこか薄まっていることに気づいた。今日口にしたのは、いつもの腐った水と砂を噛むようなパンだけだ。どちらも口に入れれば入れるほど空腹感が増すような気がして、すぐにやめてしまったはずだ。そのあとは──。
 どきりとして彼の腕を見た。
 飲んだのは彼の血だ。味がないと思った。ないだけだ、つまり水のような味だった。むしろ喉を潤すにはちょうどよく、口内を癒すのにぴったりで……。
「お前がなにかしたんだ! お前が!」
 私は突然立ち上がり、彼の肩に掴みかかった。男は即座に机上のチェス盤を遠く離れた場所へ浮かせる。私が体重をかけたことで彼はソファで仰向けに倒れ、私はそのまま馬乗りになって彼を殴ろうとした。
 振り上げた拳は彼の冷たい掌に掴まれる。
「いきなりなんだよ」
「私が食べられないのは貴方のせいだ。何かしたんでしょう? 魔法で!」
「だから、なんのために」
 彼は鬱陶しそうにこちらを見上げている。青眼と揃いのピアスが垂れてソファに付いた。これを引きちぎったら──。
「わかってるよな。宝石だけは許さねえからな」
 透明な声の裏に潜む地の底を震わせる低音が聞こえる。普段道化のように微笑んでいる彼の視線が、氷柱のように鋭利に尖り心を穿った。知らぬ間に背筋が凍っていた。
 ピアスへ縫い付けていた視線を必死にずらし、彼の顔へ戻した。打って変わって、無感情の仮面に切り替わる。
「貴方がなにかしたんでしょう。治して」
「なんの話かわからね……あ。ああ」
 彼は急に嗤うと、何か思いついたように私の腕を掴んで体を起こした。眇めた視線でこちらを見、面白そうに唇を歪める。
 本当にわざとじゃないんだとしたら下手を打った。このタイミングで掴みかかるなど、彼の血が、
「俺の血なら飲めるんだ?」
 嘲る声が聞こえる。
 私はソファから立ち上がり、一目散に元の牢屋へ走った。
 絶対に飲んじゃだめだ。戻れなくなる。だめだ。だめだ。だめだ。飲まなくても死にやしない。あと約二ヶ月耐えればいいだけだ。いくら喉が癒えるといったって、たかが水だ。味も匂いもしない。
 ──でも、今私がいちばん欲しいのはその水≠セった。