試飲

 次の日、ラムズはいつもと同じようにまずい食事を持ってきた。牢屋に入り、小さな机にお盆を乗せる。そのあと彼は、床に普通のチェスを置いて床に座り込むと、こちらへ視線を向けた。
「お前もやるか?」
「やるとお思いで?」
「昨日、興味ありげに見てたから」
「ルールを知らないわ」
「教えてやるよ」
「自分を捕まえた悪人とチェスをする愚か者なんていない」
「無為に時間を過ごすほうが愚か者と思うが」
 彼はそう言ったきり、黙ったままひとりでチェスをしていた。私が牢屋を出ていき、ソファのある部屋へ移動してもやっているものだから、相手にされない彼を思うとどこか憂さ晴らしができた気がして胸がスっとしたが、すぐさま嫌悪感に苛まれた。いくら悪人だからって、人を貶めて喜ぶのは間違っている。
 私は聖女で神に仕える存在だ。ラムズに何があったのか、どうして私を捕まえたのかは知らないけれど、彼を蔑めば私の品位まで落ちてしまう。
 思い直して牢屋へ戻る。この地下室には月光色の魔石灯と寒々しい煤けた黒壁、くすんだ銀の鉄格子しかない。色とりどりの宝飾品を毎日付け替えてやってくるラムズは、皮肉なことにここで唯一色があるものに思える。ラフな黒ジャケットに、ゴールドのネックレスを二連かけている。金のリングを模したピアスをふたつ軟骨に付け、耳朶は淡いローズピンクの真珠を下げている。右の腰に付けた宝石の飾りが垂れて少し床についている。左から当たる淡青な光が人形の顔を半分照らし、もう半分は牢屋の奥の影よりさらに濃く見えた。
「教えて」
 ラムズは顔を上げないまま、駒を弄った。「ここでやるより、向こうのほうがよくねえか」
「そう思っていたのに、ずっとここでプレイしていたの?」
「移動するのも……おかしい気がして」
 彼はそう言って視線を揺らしたあと、チェス盤と駒を持って歩いていく。たまにどこか人間らしい反応をする彼に戸惑い、どうすべきかよくわからなかった。
 ラムズは肘掛椅子を持ってきて、私をソファへ座らせ、自分はその簡易な肘掛椅子に座った。服のあちこちに宝石はついているけれど、昨日よりもどこか少ない、小規模なものが多いような気がした。信用されていないんだろう。それは私も同じだ。

「こっちに動かせば……、いい手かしら」
 盤上を移動させた駒を、コバルトの瞳孔だけが縷々と追いかける。
「ああ。飲み込みが早い」
「ありがとうと言っておくわ」
「戦でもお前が指揮をしているんだろ。どおりで上手いわけだ」
「褒めても何も出ないわよ」
「事実を言っただけ」
「……ふぅん?」
 ラムズはこつんと駒を動かし、モノトーンな声でしんと述べた。「こういうゲームをすると、本人の性格が出るらしい」
「そうでしょうね」
「俺はどんな性格に見える」
 私は顔を上げ、彼を視界に映した。ただ淡々とチェス盤に視線を落としているだけで、剥製のような表情は無を示したまま止まっている。
「どうして知りたいの?」
「聖女にはどう見えるのか、と」
「悪人」
 彼はまた、感情のない顔で笑った。「ゲームからもわかる?」
 覚えず手を止めて考える。「それはわからない。……そうね、プレイは慎重。冒険はするけど、捨て駒でしかやらない。いくら遠回りでも確実な方法を取る。でも無駄な動きはない。──とても真面目。ある種、純粋とも言う」
 捕まえられてから、今まででいちばん長く喋った気がした。急にいたたまれなくなって口を噤み、自分の番が回ってくるのを待った。
 彼は顔色を変えないまま、新たな一手を打った。
「ゲームからわかった?」
「一応」
 ラムズは薄く微笑んだ。「じゃあもう一戦しようか」

 二戦目が終わったあと、私は呆気に取られて彼を見た。「どうして? わざと変えたの?」
「プレイの仕方?」
「こういうものは癖が出るはずでしょう」
「癖はなかった?」
 さっきの試合をじっくりと振り返る。違和感のある動きはなかった。向こう見ずで一直線に欲しいものを手に入れる>氛氓サういう戦い方だった。私が首を振ると、彼はどこか寂しそうに微笑を落とした。
「教えてくれてありがとう」
 お礼を言う人なのかと、ひそかに目を瞬く。お喋りなわりに、まだ彼のことが掴みきれない。
 彼は机に乗っていたワイングラスを掴み、しなやかに唇に当てた。真緋の流体が重々しく下っていく。喉仏を一度も動かさずに飲み干した。机の下へ手を伸ばし、ビリシャンの中身の見えないボトルから赤ワインを注ぐ。酒の匂いはしなかった。
「飲むか?」
 ちらりとグラスを見た。ワインにしては色が濃く、深く暗い紅に見える。私が黙って手を出すと、彼はグラスを渡した。
 匂いを嗅ぐ。ワインの匂いはしない。腐った匂いもしなかった。いい加減喉の渇きが限界に来ていた。彼を見ていると昨日の水の味≠思い出して、余計にきりきりと喉がひりついた。得体の知れない飲み物だがどうせ死なないし、毒や魅了も効かないし、彼の血を誤って飲んでしまうよりはよほどいい。
 だがそこで、はっとしてグラスを覗いた。「貴方の血?」
「自分で自分の血をボトルに詰めるやつがいるか」
 貴方なら故意にやるでしょう。彼を凝視すると、呆れたように溜息をついた。「違えよ。飲めば味があると思うよ」
 そっと唇を付ける。ほうっと息を吐く。最近は何を口にするのにも抵抗感が生まれるようになってしまっていた。食べるのも飲むのも拷問のように凄絶な所行で、最悪の気分になるからだ。
 意を決して小さな一口を流し込んだ。
「……味が、ある」
「言ったろ」
 散々吐瀉物か腐った生ゴミか、そんなものばかり食べていたせいでなんの味なのかよくわからなかった。でも、これは飲める。美味しいくらいだ。
 そのまま、グラスに残っていた液体をすべて喉に通した。
「なんなの? これ」
「わかんねえか?」
 グラスをじっと見る。思い当たるものにさっと顔が青ざめ、冷ややかに彼を睨んだ。
「わざと飲ませたわね。誰の血?」
「さあ。忘れた」
 血を採取してから時間が経っているせいか、飲んだ者の感情は伝わってこない。私は唇を拭った。
「問題あるか? 飲んでたんだろ」
「食欲を満たすために飲んでいたわけじゃない」
 彼はもう一度グラスに血を注いだ。「俺はさ、血とか肉とか臓器とか──飲めるやつは飲むべきだと思うんだ。魔物食うのと変わんねえだろ?」けろりと子供みたいな嬌笑を見せる。
 顎を引き、顔を険しくさせる。「同じじゃない。人の血を飲んでいいわけがない」
「ヴァンピールは飲んでる」
「あれは……そういう使族だから。人間が飲むべきではないわ」
「お前は飲んでたんだろ」
「だからそれは」
 言葉に詰まった私のほうへ急に迫り、私の手を取って袖をまくりあげた。肉が削げ落ち、ほとんど骨だけの手首が顕になる。私はさっと身を引いた。
「その体でまた戦場に戻って、どうするつもりだ。今のお前の顔、悪魔が笑うより酷いって気づいてる?」
「『死を待ってる』って?」
 酷い慣用句を使う。『怪物を求め、殺し、そう生きた者の死顔はときに悪魔の微笑みよりも醜い。闇の中で息を凝らして、いったいなにを待ってるんだ?』どこかの本の有名な台詞だ。待っているのは『死』。そもそも悪魔と人を比較する時点で、彼もこの台詞も相手を見下している。
 私が露骨に嫌な顔をしているあいだ、彼は魔法で水鏡を出現させた。水でできた、対象物のみを反転させて写す魔法だ。そのまま鏡のように利用できる──。
「なにこれ」
 思わずソファの端まで逃げてしまった。膝ががくがくと震える。冷たい唇をそっと指で摩った。水鏡は怯える私の顔も含め、はっきりとその姿を映している。視線を動かせば、倣うように鏡の中のモノがぎょろぎょろと眼を剥いた。嘘だ、こんな化け物が。──こんな醜悪な怪物が私?
「本当に水鏡? 私の顔、こんなに酷いの?」
 灰白のミイラみたいだ。頬が痩け、目元が窪み、でも皮膚だけはたった今生え変わったように白い。肌がぴんと張り付いているせいで、ただの骸骨より恐ろしく見える。その蒼白な肌と骨ばった顔が極めて不釣り合いで、彼に悪魔と揶揄されたのも納得できてしまった。
「飲んだほうがいい。戻るつもりなら」
「戻らないわけないでしょ!」
 そもそもこうなったのも彼のせいだ。この男が私を捕まえなければ味覚が変化することもなかった。……否、本当にそうだろうか。
「そもそもどうして血は飲めるの……?」
「神力があるんだから当たり前だろ」
「どういうこと?」目を細め、下から睨めつける。
「今までも相手の感情を読むために血を飲んでたんだよな? 普通の人間じゃ無理だろ」
「飲めるもなにもそんなにたくさんは……」
 そう言いかけて、何度か盃一杯の血を飲んだことを思い出した。あれは正義のためであり、国のために飲んでいたから誰にも咎められなかったけど、よく考えれば普通の人間には飲めない量だ。吐いてしまうだろう。
「でも美味しいと思ったことはないわ」
「話したろ。神力が途中で変化した者もいたって」
 彼が過去に出会った人たちの話だ。でもそれは私の話ではないし、昔の話であって──。
「まあ、これはやるから」
 彼はボトルを机に置くと、チェス盤を仕舞って地下室を出ていった。

 結局私はラムズの置いていったボトルの血をすべて飲み干してしまった。今までも飲んでいたし、このまま国へ戻って聖女のジュアナ・ラピュセルと認識されなかったら困る。それどころか、悪魔が来たとでも思って追い返されてしまうかもしれない。見てくれを差別するつもりはないが、聖女らしい振る舞い、容姿は大切なはずだ。
 ……いや、これは言い訳だろうか。
 骨と皮だけになった指を見る。あまりに白すぎて血が通っていないみたいだ。ごつごつした骨の感触は痛いくらいで、少し力を込めれば簡単に折れた。手首に傷をつけてみるが、ほとんど血は流れない。
 食べてないからだ。食べ物も飲み物もほとんど取っていない。それなのに神力で無理やり生かされているから……昨日見た鏡に映った顔を思い出し、ぞっとした。飲まず食わずで生きているなんて、もはや人間とは言えない。その生態こそが人外で……悪魔と言っていいかもしれない。
 ずっとずっとマシなはずだ。何も口にせず、このまま怪物みたいな姿で死にながら生きているよりは──。


 ラムズは私がボトルの血を飲み干したと知ってから遠慮がなくなり、他の人間を牢屋へ連れてきてその場で甚振り、血を飲むようになった。もちろんやめてほしかった。だが止めたくても、今は魔法も体もまったく敵わない。そして敵うようにするためには、彼の持ってきた人間の血を飲むしかない。
「なんで? あの血だって殺して抜き取ったんだぜ。変わんねえだろ」
「私は聖女なのよ? 変わらないはずないでしょう!」
「その顔でよく言う」
 唇を噛みしめると、パサついた皮膚がぽろぽろと零れた。ちくちくと刺すような痛みが走る。この姿のままでいるのは嫌だ。私は聖女として、また戦場に立つべきなんだ。こんな死に損ないの骸骨のような姿で生きていていいはずがない……。
 彼は少し考える素振りをしたあと、さらりと口にした。
「じゃあ命令で。俺と一緒に飲んで」
「……は?」
「言ったろ。この三ヶ月は俺の言うとおりにしろって。だから、はい。飲んで」
 床に横たわった女がうんうん唸りはじめたのを見て、彼は掌を剣で突き刺した。「黙れって」
 女は目を白黒させて頷く。そのあと今更私を視界に映し、 突然震えて手足をばたつかせた。
「んーん! ん! んんッ!」動きまわる女の口元から、猿轡代わりにしていた布が外れる。「あッ! あくま、悪魔!? き、きいてない! やだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ助けて、助けて。助けて! 助けて!」
 女は異常なほど怯え、とにかく私から距離を取ろうと足を丸めた。ラムズが冷ややかな目で彼女を見下ろし、魔法でもう一度口を効けないようにした。
 ぐっと息を凝らし、体を固める。「……私ってそんなに怖いの」
「この前見ただろ」
「だからって、生きている人の血を無断で飲むなんてできない。それは聖女のやることじゃない」
 彼は嗤ってこちらに近づいた。背中に手を回し、鋭い鉤爪で皮膚をなぞりあげる。
「った、たたたい! ぃたい!」
「命令だっつってんだろ。早く飲め」
 きっと彼を見据える。「どうして!?」
「それとも俺の血のほうがいいか?」顔が傾き、歪な瞳が赫々と嗤う。「俺がいないと生きていけないようにしてほしいか?」
 冷たい目線にぞくぞくと心臓が震えた。いつもお喋りしているときはこんな雰囲気を見せないのに。拳を握れば、鋭い自分の爪が皮膚を削った。視線を下に向け、懸命に言葉を紡ぐ。
「なんのために。どうして無理やり飲ませようとするの」
 ラムズは腰を落とすと、女の体を持ち上げ首筋に牙を突き立てた。しばらく吸ったあとそっと声を落とす。
「お前が使いもんにならなくなって、困る連中がいるんじゃねえの」
「悪人の貴方にそんなこと言われたくない! こうやって監禁されなければ私は!」
 彼は立ち上がった。舌で血を舐めとったあと、嘲る声を降ろした。
「知ってたって言ったらどうする。お前がそうなるって知ってたら。国民にバレないように血を取れるようにしておいてくれと頼まれた──」青い瞳は嫌味のようにきらきらと煌めき、銀の睫毛が瞬くたびに色が変わっていくように見えた。口角がそっと上がり、彼が首を傾けるに合わせて髪が揺れた。「──そう言ったら、どうする?」
「……あな、たは。悪人でしょ」
「悪人の言うことを聞いて飲めばいい。飲まなきゃ母親にもジルにも害が及ぶ。そういう約束なんだから」
 ラムズと横たわった女へ、何度か視線を往復させる。
 結局、選択肢はないんだ。私が拒めば彼らが危険に晒される──。
 聖女の私に、他人を犠牲にするという選択肢はなかった。
 膝をつき、彼女に近づいた。私を本当に悪魔だと思っているのか、床を這うように逃げようとする。ラムズはそれを止めて、彼女の手首を私の前へ突き出した。
「ほら」
 ラムズの爪で傷つけられ、手首から大粒の血が滲んでいく。雫は焦らすように垂れ、服に染みを作った。やるしかない。やらないと母が殺される。
 彼女の温かい腕を取る。久しぶりに生きた人間に触れた気がした。ラムズも私も、もうずっと、冷たいままだったから。