普通

 灯りの消えた闇の中。ソファの上で丸くなり、私は彼が前に語ってくれた冒険話を思い出していた。そう、神力のせいで破滅した人間たちの話だ。
 例えばセイレーン。彼らは人を操ることのできる歌を歌えるけれど、その神力を使えば使うほど異形化していくという。初めは爪から、その次は腕、体、しまいに背中に黒光りする羽が生え、魔鳥のような怪物になるという。ナルキッソスという人間の男は、自らの美しい容姿という神力をもらってから鏡に取り憑かれ、ついにその鏡の主になってしまったという。割れた鏡に映る自分が笑って見えるのは、そのナルキッソスがまだ鏡の中にいるからだ。
 それじゃあ私の力は呪いなのだろうか。本当に血を飲まなければ生きていけなくなってしまったんだろうか。あの男が何かしたのかと思ったが、人を異常状態にする枷魔法はどんなに強力なものでも私にはかからないはずだ。
 ―ということは。
『国民にバレないように血を取れるようにしておいてくれと頼まれた。―そう言ったら、どうする?』
 彼は敵国イルドゥラント王国の者ではないの? 我が国ヴァロレンスを負かすために、聖女の私を拐ったのではないの?

  *

 ラムズは自室の机にチョークで魔法円を描くと、その中心に水晶を乗せた。長い詠唱が終わると、水晶の中で白い煙が生まれ、それは渦を描きながら水晶いっぱいを覆っていく。煙が薄れはじめると、着飾った女の顔が映った。
「あの子はどんな感じ?」
「何も問題はないですよ、イザベル様。約束どおり、もうしばらくしたらお返し致します」
「えぇ、ええ。こちらも手筈どおり。だって聖女が拐われたのだもの。陛下の前で泣き崩れてやったわ。少なくとも一万はくだらない金貨が贈られるはず」
「それは素晴らしい」ラムズは上品に微笑む。
 女は手を叩いたあと、宝石のついた扇をぱらぱらと振った。「必死に国が隠しているから市井で噂にはなっていないし、戦に影響はなくてよ。そうそう、うまく泣く演技ができるか心配だわ。あの子、意外にも鋭いところがあるから」
「それよりも触れられないようにするべきでしょう」
「あぁ、あぁ。そうでしたわね。大丈夫よ。あの子が力をもらってからはほとんど触れ合っていないの」女は言い訳をするように言葉を続ける。「あの子が嫌がったのよ? 私はきちんと愛していたと思うのだけれど」
 くすくすと笑い、ラムズはそれに同調するように何度か首を下ろした。
「では。何か変わったことがあれば報告をお願いしますよ」
 女は艶々しく微笑んだ。こうして水晶で連絡をするのはラムズだけだが、何かあったときには魔法で知らせを送れるようになっている。
「もちろん! それでは娘を頼みますわ」
 ラムズは騎士のように辞儀をすると、水晶の魔法を切った。

 ジュアナの待つ地下室の前に捕らえた人間が転がっている。ラムズは溜息混じりに人間の腕を掴んだ。怯えた目が彼を見る。こういう者はほとんど美味しくない。面倒な作業だった。
「いい加減自分で狩ってもらわねえと」
 扉を開き、外よりも一段暗い地下室へ人間を放り投げた。重々しく扉が閉まり独りでに鍵がかかった。

  *
 ラムズは変わらず、牢屋で人間の血を吸い、嫌がらせのように普通の食事も持ってきた。でも一度血を飲んでしまった私は、かつて美味しそうに並んでいると思っていたものはいかにも不味そうで、吐きそうで、代わりに血を滴らせる人間が―……。口内に溜まった唾液を飲み込んだ。
 血を飲むのを拒もうとすると、彼は私に痛みを与え、母とジルがどうなってもいいのかと脅した。ヴァロレンス王国に戻れなくなっていいのかと畳みかけた。
 私は力強く腕を振って床に倒れた人間から距離をとる。
「わかるでしょう!? 私は聖女なのよ。こんなこと許されるはずがない!」
 振っただけで腕の骨が軋み、折れた。再び細い骨が繋がっていくのを感じる。苛々する。
 彼は前髪を鬱陶しそうにかきあげ、後ろに撫でつけた。「じゃあお前は、聖女であるという矜恃のために肉親を殺すんだな」
 相変わらず艶やかな面立ちが残酷な台詞を吐いている。
「ッ、そ、そんなこと言ってない! プライドではない。私の責務よ。義務で、使命であり―」
「使命は『聖女として戦に立つこと』だろ。化け物の姿で立つつもりか? 化け物が救った国、ヴァロレンス王国でいいって?」
 私は怯まなかった。「民もわかってくれる。私が飢餓感を堪えてこの姿になってしまったことを。心が変わっていなければ―……」
 ラムズはソファに腰を落とし、膝を立てて愉快そうに笑った。「心が変わらぬのならば化け物でもいい。そう、国民に言わせるんだな?」首を傾け、奇妙に歪んだ唇から流れるように言葉を紡いだ。「化け物を受け入れるのはお前じゃなく、国民だ。化け物に―悪魔に救ってもらったという事実を受け入れるのは国民だ。苦しいのはお前じゃない」
 彼の声が心の奥の奥まで低く震わせる。闇の落ちた牢屋で、脳に直接響く声は幾重も木霊しているみたいだった。
 飄々とワイングラスを回し、暗紅の血を青のノワールが追いかける。
「お前は『密かに血を飲んでいる』という罪悪感から逃れたいがため、国民に別の苦痛を強いている。違うか?」
 傾いたグラスから血が滴り落ちる。粘ついた紅がゆっくりと落ち、床に濁った染みを作る。それに合わせるように、額を見せていたラムズの前髪が数本落ちた。
 彼はソファから立ち上がると、つかつかとこちらまでにじり寄った。顎を掴み視線を上げさせる。「聖女ジュアナよ。お前が大事にしているものはなんだ? 自分か? 矜恃か? 聖女という肩書きか?」
 手を離すと、はっと笑って続けた。「なにも毎度人を殺す必要などない。ここから出たら自由に魔法も使えるようにしてやる。忘却魔法でお前に吸われたことは忘れるようにすればいい。それくらいできんだろ、聖女サマ」
 私は後ずさり、硬く罅割れた爪で掌を引っ掻いた。「でも……私は。聖女なら」言葉が続かない。
「俺はな」彼は目を細め、嘘のように優しく微笑んだ。「そういうのが好きだよ」蕩けるような声で言う。「何かのせいにして、生きることから、苦しみから、戦いから逃げる。自らの諦念を正当化し、最もらしい理由をつけてその責任すら取らない」ワントーン声が明るくなった。「俺がいちばん好きなやり方だ」
 ラムズは、骨ばった私の頬をなぞった。「そこまで言うなら俺も諦めよう。罪悪感という苦痛を、国が汚されたと思いながらもお前を称えねばならぬ国民の苦痛に塗り替え、聖女≠ニいう地位にしがみついていればいい」
 私から離れると、彼は人間の死体に向かって青い炎を投げた。ぼうっと肢体を包み、彼の髪も私の髪も青白く光った。
「…………消して」
 ぱちぱちと火花が散り、上がり、魔石灯の下でダイヤモンドのように光って消える。
「消して!」
 彼はおもむろに振り返り、不機嫌そうにこちらを見下ろした。「つくづく囚人意識のない聖女様だな。命令すんのか?」
 そう文句を言いながらもぱちんと指を弾いた。瞬く間に炎は消える。既に死体は表面が焦げ付き、垂れていた血液は黒く変色して匂いが変わっていた。……それでも、ふつうの食事よりずっといい匂いだった。
「そうやって煽っておいて、すっと潮が引くように諦める。きっと貴方の常套句なんでしょうね」彼を睨んだ。「ただ、自分の思うように操りたいだけでしょ」
 酷薄な笑みを添える。「いかにも」
「考えさせて。貴方の言葉を……そのまま鵜呑みにしたくはないわ。私は私の意思で決める」
「仰せのままに。これは捨ておいてよろしいでしょうか?」
「明日には結論を出すわ」
 ラムズはヒールの音を子気味よく鳴らし、地下室から出ていった。
 一気に喉に異物感がせり上がってきた。骨のような指で胸を抑え、咳唾を零す。だがいくら咳き込んでも、出てくるのは少量の血と腐乱した息の臭いだけだった。

 その日の夜、床に転がった死体の血を無心で啜った。飲めば飲むほど喉は潤い、胃が動きだすのを感じた。水分らしい水分は一ヶ月も取っていない。いくら水より粘り気のある血とはいっても、極楽の飲み物だった。
 幸いなことに、死んで時間が経っているおかげで彼の感情は伝わってこなかった。ラムズが殺すのを看過するのもよくないけれど、今の私の姿を見られるわけにも、吸っていることが露見されるわけにもいかない。
 彼の言いなりになるのは嫌だった。
 だが。だけど。でも。
 納得してしまった。
 私は知っている。国民は私に仮初の信頼を寄せているだけだということを。表向きでは私を祀り、期待を寄せ、美しいと讃えてくれる。清らかで献身的、聖なる存在と万謝している。だが―、私が指揮を誤れば心の底で舌を打ち、女が戦場にいるからだと非難を浴びせる。戦に勝つために利用しているだけで、神への信仰も国への愛もない者がいる。戦に負ければ「偽物だ。異端だった」と後ろ指を指され、すべての責任を取らされるだろう。
 それでも私はすべてを許した。彼らのどの感情も見なかった振りをした。どんな醜い感情も愛するよう努めた。私は聖女で、神に選ばれたからこの地に立っているのだから。天から降ってきた聖女ではないのだ。平凡な農夫の娘が神と話したと談じ、自らの言動でようやくそれが信じられているだけなのだ。私は彼らの信服に報いなければいけない。
 このまま悍ましい怪物姿を世に晒し、何人の者が受け入れてくれるだろう。どれだけ善行を積んでも、醜いものは醜いのだ。目に入れたくないものは目に入れたくないのだ。
 だから私は……ラムズの言うとおり、すべてを背負わなければいけない。聖女≠ニは言えない秘密があっても、それを知るのは私だけでいい。罪悪感は私の胸だけに仕舞い、ひた隠しにし、民がいちばん信じやすい姿で、祀りやすい姿でいるべきだ。それが私にできる―聖女である私が取るべき選択だ。


 あれから数日、ラムズに連れられた人間の血を毎日啜った。記憶をいじるのは面倒だからと、連れてこられた人間は全員殺された。私が止めれば、彼は『命令だ』という。今ここにいる人間を見殺しにするのと、私が戦場に戻ったあとに救われるはずの人間たちの未来をお終いにするのと、どちらを選ぶべきだったんだろう。答えを出せないまま、彼の『命令だ』という一言に甘えて、人間たちが目の前で死んでいくのをただ見ていた。
 それから彼は、「いちいち連れてくるのが面倒臭い」と言って、外で血を吸うよう強いた。夜道に人間を襲い、二人で飲んで、まだ息があれば殺した。
「……本当にあと二ヶ月で私を解放するの?」
「ああ。誓うって言ったろ」
「貴方の『誓う』など信用できないわ」
 彼は間髪を入れずに言った。「ステュクスに誓う。お前が俺の言うことを聞くなら、あと二ヶ月後、解放しよう」
 両眉を上げ、冷たい夜風を吸い込んだ。こんな軽率にステュクスに誓う人を初めて見た。考えなしだ。私が胡乱な目で見ていることに気づき、彼は振り返って笑った。
「こうすりゃ信じるだろ。お前、魔法でも『何かした』って文句言いそうだからな」
「その誓い、『追加で二ヶ月牢屋にいろ』なんて命令は通らないからね」
「ああ、わかってるよ」彼は私の頭をとんと叩き、私を追い越し歩いていく。

 次第に殺しに手を貸す回数が増えていき、その役目が重くなっていき、そのころからもう考えるのをやめた。
 ―未来に救われるはずの人間のために生きる。
 わかりやすくその人数を数えれば、こちらが答えでいいはずだ。
 血を飲みはじめるにつれ、化け物だった私の姿は徐々に元の人間らしい姿へ戻っていった。肉付きがよくなり、体に血が通い、喉は痛まず、筋肉も戻った。ふつうの人間の℃pになった。
 だがそうなると今度は、襲われた人間に私がジュアナ・ラピュセルだとバレてしまう。
 人間に触れ、久しぶりに私への感情を見た。戸惑いと、裏切りへの怒りと、恐怖と、そして最後に悲しみのようなものがないまぜになってこちらへ襲う。
 私は刺した人間からさっと離れて、胸元をぎゅうと潰した。体が警鐘を鳴らすように震える。寒気がして体が熱を持ち始めた。
『ジュアナ・ラピュセル。聖女のジュアナ・ラピュセルだ。どうして彼女が僕を? 聖女ではないのか? 嘘だったのか、僕たちを騙したの? ……おかしいと思ったんだ。ぽっと出の女が戦場で活躍しているなんて。それこそ神への冒涜じゃないか。あんな甲冑を着て、長い髪を揺らし、僕たち兵士を指揮しているなんて……。聖女なら、聖女のくせに―』
 久方ぶりの聖女ジュアナへ向けられる感情。頭が割れそうになる。私は上手くやっている。大丈夫だ。それに今回聞こえた声は……今の私は隠すべき聖女の姿であって、気にする必要はない。ここで完璧である必要はない。耳を塞ぐ。必死に胸の奥の奥へ仕舞いこんだ。
 ラムズ―この男のせいで神力≠フことを忘れていた。こいつはずっと感情が読めないから……。牢屋だけで生活していたしばらくのあいだ、私はふつうの人間≠ナいられたらしい。
「神は間違っていたと思うよ」
 ラムズは男を殺し、心臓だけ抜き取った。私へそっと投げて寄越す。
「どうして?」
 五指が心臓を潰すと、その臓器がぶくぶくと指の隙間から膨れた。逆の掌に零れた血を啜る。心臓に残っていた血を全部飲んだあと、死体の側へそっと置いた。
 立ち上がるとラムズが目の前にいて、私の顔に手を伸ばし、唇のそばの血の汚れを拭い取った。そのあとヴァロレンスの紋章をやおらに摩った。彼の手を払う。
「やめて」
「お前に、相手の感情がわかる神力はいらない」彼は淡々と続けた。「聖女には必要ない」
「……私が苦しいから? 同情してるの?」
 私の質問には答えず、彼の遠くこちらを見ない目が語った。「人間のできる芸当じゃない。関わる者の感情をすべて汲み、そのうえで愛するなど」
「何が言いたいの」
 人形のように精巧な顔が私を捉えた。銀の睫毛が等間隔で二度落ち、がらんどうの眼が細まる。
「だってただの人間だろ、お前」
 ラムズの体は死体に向きなおる。証拠を消すため、静かな青炎が地面にすぅと広がった。
 頬に熱いものを感じて右手で拭う。何年かぶりの涙だった。