感情

 初めの男は人間だった。甘いマスクの器用そうな男だったが、私を見るなり「本当に聖女じゃないか!」と喜び、プレイが始まれば、私の容姿を事細かに美しいだの色っぽいだの褒めつづけ、抱けるなんて幸せだと興奮し……その手の感情を怒涛のように流した。
 マイナスな感情を持っていたわけではない。一応、丁寧に扱ってくれようとした。それでも、私を抱くことに過剰な悦びを持ち、心の中で好き勝手私を犯す話を聞かされるのが気持ち悪くて耐えられなかった。
「……め、やめて」
「え? 大丈夫だよ。初めての女の子は三人目なんだ。ちゃんと濡れるまで待つし……」
「お願い! もう触らないで! ラムズ!」
 男は驚いて起き上がった。ラムズはソファのある部屋で待っていたので、すぐに寝台のある場所へ戻ってきた。呆然としている男とシーツを被る私を交互に見た。
「……他の人に変えて」
「了解」
 ラムズは男に近づく。彼に服を渡した。「だそうだ。悪かったな」
「は? こんなのありかよ? 俺何かしたか? 普通に抱こうとしただ──」
 彼は白目を剥いて倒れる。私は布団をかぶり、見なかった振りをした。私の顔を見た以上、この話を聞いてしまった以上、ふつうに生かしてはおけないから。記憶を弄ればいいのに面倒だからって──たしかに記憶を操作する魔法が大変なのは事実だった。時間もかかるし準備も大変で、上手くやらなければ死ぬより辛い目に遭う──、ラムズを止めるべきなのはわかっていたけれど、今はそんな余裕なかった。
「次は|獣人《ジューマ》を連れてくるから」
 |獣人《ジューマ》とは、元々人間を襲う魔物だったが、神に『人間らしい容姿や知能』という神力をもらい、ある程度魔物の特徴を残したまま人語を話す生き物に変わった者たちのことをいう。
 私の元に来たのはケットシーの|獣人《ジューマ》だった。獣の三角形の耳がぴくぴくと動き、尻から二股の細長い尻尾が覗いている。
「あー。変な話だな、女を抱いてくれだなんて。よろしく」
 彼は私≠知らないらしかった。人間でなければそんなものだ。|獣人《ジューマ》だから性欲はないのかと思ったが、それなりには持っているらしい。私の服を脱がせたあとは、それこそ眼が魔物のように爛々と輝き、太腿を誤って鋭い爪で引っ掻いた。
 結局、彼も無理だった。
 だんだん相手のどんな感情にも吐き気を催してきた。脳に直接響き、心をこじ開けようとする彼らの声が気持ち悪い。特にそれが私を犯す≠セとか抱きたい≠セとか聖女がなにをしているんだ≠ニか、性欲を感じることや否定的なことを言われるだけで心が悲鳴をあげた。
 最後に連れてきたのは、感情をオフにしたほうのヴァンピールだそうだ。だが薄々わかっていたとおり、触れられた瞬間彼の欲望にぞっとした。同情も禁じ得ないほどだったが、それでも無理なものは無理だ。感情をオフにしようとも欲望はある。一直線に穿たれた欲望の塊は胃のあたりをむかむかさせて、実際にベッドの上で血を吐いた。
 ラムズはヴァンピールの男を殺したあと、静かに寝台に座った。シーツを被る私を見る。
「もうやめたら」
「……なに、を」
「国のために生きる必要なんてないんだよ」
「それが私の使命よ。私の生き方。私のアイデンティティなの」
「わかった」彼は立ち上がる。「あと五人連れてくるから、それで決めてくれ」
 五人。あと五人の感情をぶつけられるのか。あと五人に裸を見せなければいけないのか。心が揺らぎそうになり、思わずラムズの服を掴んだ。
「もう少し……時間をちょうだい。休憩してから……」
「今日の深夜までだ。あと三時間もない」
 片方の手首を握り、必死に涙を堪えた。
「感情が……」声が震え、涙に濡れて上擦った。「私に向けられる感情が、嫌なの」ぎゅうと体を抱きしめる。「気持ち悪いの。悪い人でないのはわかってる。それでも……無理なの。嫌なの」
「エルフなら良かったかもしれねえが、出払ってて宛てがねえんだ」
 心臓が震える。寒気がする。膝を立てて座り、布団ですっぽりと身を包んだ。
「……もう嫌。どうしたらいいの。どうしたら、いい」
「お前が国を──」
 きっと睨みつける。「国は助けるわ! 国は助ける。聖女でなくなっても……私は国を助けるの。それが私の……」じっと自分の掌を見つめる。「私はヴァロレンスを愛しているの」
 彼は薄い溜息を吐いたあと、温度のない声を落とした。「俺が抱こうか」
 ひとつ。
 ふたつ。
 みっつ。
 心拍が鳴る音がする。何を言われたのかわからなかった。顔を上げる。
「……え?」
 鮮やかな青が細まり、静かに言葉を紡ぐ。「俺の感情は伝わらねえんだろ」
「は……? 本気で言ってるの? すべての元凶は貴方だって言うのに?」
 彼は何も言わない。
「よくそんなことが言えたわね?」
「悪りい。忘れてくれ」
「忘れてくれって、なに? どういう感情で言ったの? 宝石のせいとは言わせないわ。罪滅ぼしに言ったとでも?」
 彼は少し考える素振りをして、薄く笑った。「さあ。運命」
「そんな格好つけて──」違う。私は彼を見た。
 ラムズは、時の神に創られた使族なんだ。
 彼らは自分の道を自分で決めることができない。例えば人間は六人の神様によって創られた使族だけれど、時の神だけが関わらなかったから、自分の好きに生きることができる。優柔不断も独立独歩も人間のためにある言葉だ。
 でも時の神に創られた使族は、意思の介在しないところで運命によってレールを敷かれることがある。『どっちでもいい』と思っていることは特に、時の神がどちらかの道を選んでしまうのだ。彼らはなにも迷わない。迷うことはすべて神が決めてしまうから。
「貴方は時の神が創った使族なのね?」
「まあ」
 彼は立ち上がり、地下室を出ていった。

 しばらくして彼が戻り、三人の男を試した。だがもちろん、無駄だった。行為中に相手の声が聞こえるなんて耐えられない。外側から観察した私を目の当たりにするようで、聖女を捨てて、乙女を捨てる私をまざまざと見せつけられているようで、気持ち悪くて我慢ならなかった。
 三人目を殺すラムズを、ぼんやりした目で眺めた。
 あぁ……そうか。もうそれしかないんだ。
 喉が潰れたように痛んでいく。胸の圧迫感で苦しい。体が何かに蝕まれていくように感じる。黒くて禍々しい塊が体じゅうを覆っている。呼吸が浅くなり、筋肉が引き攣っている。ぼやけた視界、肌が過敏になり丸めた膝ががくがくとした。
 わかってる。もう、私は。
 四人目を連れてこようとした彼の背に声を投げた。
「貴方の声が嫌いだわ」
 ラムズは立ち止まり、振り返らずに次の言葉を待った。
「貴方の顔が嫌いなの」
 声が震える。
「誰になんと言われようと、貴方のせいなのよ。貴方が、私の大事なものをたくさん奪ったの」
 シーツを掴む指が痙攣している。
「血を飲まなきゃいけないのも、こうして何人もの男に体を見られたのも、全部貴方のせい」
 鼻の奥が痺れる。
「シュパール王の醜い感情を見る羽目になったのも、貴方のせいよ。これで私が……今後私が……聖女でなくなったら、それも貴方のせいだわ」
「……ああ」
「なんのためにこんなことをするの? 私は貴方になにかした? 私がヴァロレンスを救うのは、そんなに貴方にとって不都合なことだったの? 本当なら私……貴方と出会うことなんてなかったわよね?」
「ああ」
「これも神が決めたっていうの? 私の唯一知らない『時の神』に?」
 嗚咽が漏れる。喉仏を強く摘んだ。
「それで……私は。貴方に……。この世で一番嫌いな貴方に、抱かれないといけないの?」
 涙が滲む。
「さっきのは忘れてくれ。抱くつもりはない」
「あら、そう。……そう」
 彼が踏み出そうとして、思わず叫んだ。
「どうして!? どうして発言を撤回するの? それも運命?」
「……いや、お前を苦しめるだけだから。感情は伝わらないかもしれねえが、解決手段になってない」
「そんなこと言うなら──」シーツを掴み、泣きながら喚いた。「苦しめるだけだなんて、そんなことを言うのなら! だったらどうして私を拐ったの!? どうしてあの男たちを連れてきたの!? ねぇ! 答えてよ!」
 沈黙が返る。
「無理やり……抱いたら。貴方には造作もないでしょう。いくら私が抵抗しても魔法でどうとでもできるし、怪我をしても治る」顔を上げ、声を張り上げた。「傷つけるつもりなら最後まで傷つけたら!? 今更いい人のフリをして好きな男を見繕うだなんて偽善者みたいに」
 すべて言い終わらないうちに彼は振り返り、音もなく迫った。寝台に手をつく。首の後ろに彼の手がまわり、冷たい唇が当たる。そのまま押し倒された。彼は黙って私の服を剥ぎ、自分のシャツをベッドの下に落とした。ショーツに手がかかる。
 とめどない涙が落ちる。
 なにこれ。なに、これ。なんで。怒鳴ったら言うとおりにするの? どうして? 悪いと思っているから?
 彼は下腹部に伸びていた手を戻し、涙にくれるわたしの頬に手を添えた。青眼が細まる。ゆっくりと顔を近づけ、額にそっとキスをする。隣に横たわると、そのまま胸元に引き寄せ抱きしめた。
「なに、してるの」くぐもった声が漏れる。「頼んでないわ」
「俺がしたくてしてる」
「何が。なんのために」
「お前に気に入られるため」
「馬鹿じゃない、無理よ」
「じゃあ、可哀想だから」
「貴方に同情されたくない。貴方のせいなのに」
「血吸っていいか?」
「はあ?」顔を上げると、碧眼が笑った。
「美味しそうだから」
 溜息を吐いた。「勝手に飲んだら」
 彼は私の首筋に顔を埋め、皮膚に牙を刺した。自分の脈打つ音がいつもより大きく聞こえる。温度のない腕は背中を優しくさすり、首筋を這う舌が丁寧に血を舐めとる。じゅる、と血を吸う音と、喉を鳴らすこく、こくという音だけが静かな空間をときおり飾った。
「他の人間と、なにも変わらないでしょ」
 彼は顔を上げて、私の顔を自分の胸に押さえた。「変わるよ。お前は俺がすごく嫌いだから、そういう味がする」
「それって不味いんじゃない」
「いや、わりと好きかな」
「趣味悪いわね」
「知ってる」
 彼はゆっくりと私の髪を撫でていた。
 こうして、誰かに静かに抱きしめられたのはいつぶりだろうか。何にも煩わされず、頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。十か、八つか、もう覚えていない。神力をもらってからは誰とも触れ合わないできたから。軽いハグのときでさえ、相手の感情はうるさく私の心を揺らすのだ。
 ラムズの心拍音しか聞こえてこない。そう、これが普通だったはずなのに。──本当は、きっとみんな、この音をふつうに感じられているはずなのに。
 いい匂いがする。昔母に抱き締められたときの匂いと似ている。幸せな匂い、落ちつく匂いだ。相手の匂いなんて気にしたのはいつぶりだろう。いつも声がうるさすぎて気づかなかった。
 嗚咽が漏れ、胸が何かに掴まれたように苦しくなる。背中を撫でる手があまりに優しく、遠いどこかで夢を見ているような気になった。
 終いにわんわんと声を上げて泣きはじめた。
「たし、わたしッ、だって。ほんと、は」
 好きな男の子がいた。恋をしたいと思って彼と遊んでいたことがあった。だけど神力をもらってから彼とは会えなくなった。何を思われているかわからないから。怖くて踏み出せない。誰とも本心で話せない。どの人の感情も透けて見えてしまうから。
「神は間違っていたと思うよ」
 ラムズの透きとおったアルトが鼓膜を揺らした。
「人は皆、屈折した複雑な感情を持っているものなんだ。どんなに相手を愛していても、大事に思っていても、ときに恨んだり、不快に思ったり、疎ましく思うことがある。でもそれを表に出していない以上、そっちの感情はなかったことにしていいはずなんだ。表面化させたほうの感情でもって、そういう自分でもって生きたいと思っているんだから。残りの感情が嘘だとは言わねえが──そっちは、本人でさえ嫌がっている感情かもしれない」
 私は鼻を啜った。
「それらすべてを受けて入れて聖女になれだなんて、すべてを愛せだなんて、人間のできることじゃないんだ」
 涙が落ちる。
「お前だって、たったの一度も聖女をやめたいと思ったことがないとは言わせない。あの王たちを殺している瞬間、お前はたしかに自分のために生きていたんだ。だが、お前でさえその感情に苦しんでいる。否定したがっている。別に否定していい。なかったことにすればいい。忘れたフリをしていい。みんなそうやって生きてる。お前はその──みんなが捨てたがっている感情まで見て、それさえ受け入れ、聖女たれと立ってきたんだ」
 ぎゅうと体が強く抱きしめられた。
「お前はただの人間だろ。聖女の前に、ジュアナ≠ニして生まれてきたんだろ」
 涙が止まらない。
「……そんなの。知ってる」声が掠れる。「当たり前、だわ」
「ああ、そうだ。当たり前のことだよな。お前も知ってるはずだよな。●でもその当たり前のことを、誰も言ってくれなかった=v
 どうしてこの男にそんなことを言われなければいけないんだろう。
 どうしてこいつのせいで、私はこんなに泣いているんだろう。
 私が誰かにかけてほしかった言葉を、いちばんほしかった言葉を、どうして他でもないこの男が……言うの。
「俺の声が聞こえないなら、お前は俺の前でだけは人間になれ。聖女じゃなくて、ジュアナでいろ」
「嫌だ」涙声が漏れた。「貴方の言いようになんてなりたくない。貴方の言うことは聞きたくない」
「どうして」悔しいほどに優しい声だった。
「……貴方は悪人だ。そんなやつの言うこと、聞きたくない」
「言うことを聞くんじゃなくて、流されればいいだろ。何も考えなきゃいい。たまには休んだっていいだろ。お前のおかげで休めた人たちがたくさんいるんだ。お前だって、誰かに甘やかされて、愛されて、他愛もない会話をして、──少しくらい、自分のために生きたっていいだろ」
「そんなの、」
 彼は髪をゆっくりと撫で付けた。「俺のせいにしていいから。恨んでも憎んでも、殺しに来てもいい。だから……他でもない自分のために、休め」
 胸に顔を押し付ける。早まっている心臓が少しずつ落ちつき、頬の涙が乾いた。
 ラムズは私の髪をかきあげて、額にそっとキスを落とした。
「──時間がないから。もう俺でいいか」
 左右に視線を揺らす。「聞かないでよ。貴方のせいにしていいんでしょ」
 彼は笑った。「じゃあ、もうひとつお前に酷いことするな」
 冷たい指先が頬を包んだ。なんの感情も伝わってこない。私が見えるのは弧を描く青眼と、大理石をなめしたような肌と、表情を落とすように笑う唇だけだ。私が聞こえるのは、耳から入る彼の湿った低音だけだ。
 それ以外何も聞こえない。何も見えない。
 誰にも私の心を邪魔されない。誰も心は犯さない。
 この人に抱かれているあいだだけは、私の心は私だけのものだ。