米倉翔真の遺影
まだランドセルを背負っていた頃、淀んで停滞した毎日を過ごしていた。
腹を空かせたまま登校し、薄汚れたノートに板書を取って、授業を給食費の滞納で職員室に呼び出される。クラスメイトからは敬遠され、大人に遠巻きにされながら一人で帰宅。人と話している時間よりも人に罵倒されている時間の方が長いような、そんな人生。
ただ、その中に一つ、暗く灰色で彩られた記憶のなかにキラキラとした思い出が眠っている。自分が、真に鬱屈とした人間に育たなかった理由とも言える、宝物の記憶が。
「なあ、お前、今日の夜空いてる?」
日の落ちかけた夕暮れ、橙の光に照らされた黒髪。差し伸べられた綺麗な手が、今も。
米倉翔真の遺影
そいつと会ったのは、小学生の卒業式が最後だった。近くに住んではいたものの、同じクラスであった頃も友人とは言えない距離感で、精々がクラスメイト。彼にとっては善の感情も悪の感情もない、数居る人間の一人だっただろう。誰とでも仲の良い彼の家に行ったことがあるなんて人間は、それこそ沢山居た。獅子神も、そのうちの一人に過ぎない。
獅子神にとっても、彼は既に思い出の中の住人だった。たった1回の楽しい思い出で心が完全に晴れるほど、獅子神はマトモな生活をしていなかったし、母の都合で引っ越してからは、彼の家の近くを通ることもなくなった。小さな切欠でたまに思い出しては、今頃どうしているのかとほんの少し想いを馳せる程度の相手で、この先生きていく中で会う可能性は、無に近いと思っていた。
それがまさか、このような所で会うことになるとは。「カラス病院」と大きく掲げられた門を前に、獅子神は大きく息を吸った。ここは、名前の通りカラス銀行に縁のある病院だ。4リンクでは入院沙汰になるようなことは早々ないが、銀行内では治療しきれない場合はここに来ることになる。獅子神も、幾度か訪れた経験のある場所だ。
しかし、今回は、怪我のために訪れたのではない。獅子神は、この病院に入院しているという、あの日の彼......米倉翔真に会いに来た。
切っ掛けは、つい先日の試合(ゲーム)に遡る。
4リンクでの試合のためカラス銀行へと足を踏み入れた獅子神の前に現れたのは、薄暗い賭場には珍しい妙齢の女だった。4リンクにまで来る女というのだけで珍しいが、薄汚い中身が透けるような人間ばかりが集まるこの場で、裏も表もない真白の人間のような顔をしているのがいかにも不気味な存在だ。天竺と名乗った彼女は、いかにも聡明という表情のまま、獅子神に晴天の霹靂とでも言うような言葉を吐き出した。
「あなたのこと覚えてるよ、ケーイチ君。小学生の頃、××商店街を使って下校していた」
米倉翔真君と、同じクラスだったでしょう?続けられた言葉に、獅子神は一時、時が止まったような衝撃を受けた。もう十数年聞いていない名前。それは、獅子神の心のとても柔らかな部分に残ったもので、誰にも晒さずにしまい込んだものだった。
うかつにも精神を揺さぶられた獅子神は、その戦いにはあっさり敗北した。どうしてこんな女が4リンクに居るのか、当然のようにイカサマごと獅子神を蹴散らした天竺は、ゲームが終わったというのに、腕を抱えた獅子神を眺めて、もう一押し、真顔で爆弾を置いていった。
「彼は今、入院して寝たきりになっているけれど。......会いたい?」
話は出来ないけど。天竺はそう付け足して、温度の見えない視線で何かを求めるように獅子神を見つめる。青い瞳は確かに、いつか見た誰かに似ている気がする。その彼女が、あの日の商店街に居たのかとふと思い、殆ど無意識のうちに、獅子神は頷いていた。
「もう来てたのね、獅子神くん」
獅子神と同じように外からくるだろうと思っていた天竺は、当然のように病院の中から現れた。今日は午後から半休を取っているらしい。白衣を着たままの彼女は試合で見た時と変わらず、どこにでもいる女医のような顔をしていた。
「案内する」
勝手知ったる様子で歩き出す天竺の背を、獅子神は黙って着いていく。特に話すこともないかと無言で居ると、先を歩く天竺が不意に獅子神に視線を向けた。
「米倉くんの12歳の誕生日パーティーに、参加していたんでしょ?」
「よく知ってるな」
「本人から聞いたよ。約束してた友達が皆インフルエンザに掛かったって寂しそうにしてたのに、次の日には元気だったから。あれは、君のおかげ」
懐かしい話だった。ある日、獅子神がひとりで帰っていたら、クラスメイトだった米倉から、急に声を掛けられたのだ。普段獅子神に声をかける人間なんて居ないから、何かの間違いかと思った。
俺の誕生日パーティーに参加して欲しい、と言われ、更にもう一度、間違いだと思ったものだ。他に約束していた人が来れないからといって、態々獅子神を誘わなくても良いものを。
彼にとっては、誰でも良かったのだろうが、どうせ帰っても何もないからと頷いた。そして、獅子神は彼の誕生日パーティーに参加した。
言ってしまえばそれだけの関係で、ここに来ても尚、天竺が獅子神に米倉の病室を教えた理由は分からなかった。
程なくして、1つの病室の前で天竺は歩みを止めた。『米倉翔真』。扉の横に貼られた名札は、端がめくれてしまっていた。数日でも、数か月でも、こうはなるまい。彼はもう長い間植物状態のままであるという。いったいいつからここに居るのか、口に出すのは躊躇われた。
「ご両親以外が来てくれたのは久しぶり」
「意外だな」
獅子神の言葉に天竺は言葉を返さない。彼女は無言のまま滑らかに扉を開いて、入るように獅子神を促した。
病室の中はどこか鬱蒼としていた。清潔感が保たれた病室は人の気配がなく、静かに響く呼吸音と電子音、流れ落ちる液体だけが動いている。
「......」
彼は、立派な青年に成長していた。悪戯っぽい笑顔で駆けまわっていた面影を残しつつ、青年ならではの力強さもある。クラスのムードメーカーだったあのころから、変わったようで変わっていない。正しく、素直に大人になったということなのだろう。
しかし彼は決して、目を開けることはない。このままでは、自然な回復は見込めないのだという。
「手術が必要なの。まだ理論も発表されていない、未知の方法で。.....私はやるつもり」
14年ぶりの再会は、意外にも感慨が湧かなかった。どこか非現実的だからだろうか。ピクリとも動かない彼は一見すると死んでいるようにも見える。
......正直に言えば、もう会うことはないだろうと思っていたのだ。関わりというにも薄いたった一日の思い出は、確かに自分にとっては唯一無二のものだが、彼にとっては違う。獅子神とは全く関係のないところで、彼は真っ当に育ち、人に囲まれて過ごしていると思っていた。
それが、まさか、こんな形で再会しようとは。彼の周りに人がいないとは。全く、欠片も想像ができていなかった。
ここに至るまで思い至ることはなかったが、無機質な病室を見てやっと気が付いた。天竺は、米倉のことを忘れさせたくないのだろう。こんなに薄い繋がりの人間に見舞いを望むほど長く、米倉の傍には親と天竺しかいないのだ。
「そうかよ」
「ええ、そうなの。
......獅子神くんは、翔真くんをどう思ってる?」
天竺は、米倉を見つめたままだ。
「感謝してるよ。まともな家庭ってのをちゃんと見たのは米倉の家が初めてだった。昔の俺を知ってるってんなら、俺の昔の評判は知ってるだろ」
「もちろん。翔真くんが君を家に招いたって聞いたときは驚いたよ」
「だろうな」
獅子神は、意図して口角を上げる。当時の自分を受け入れるなんてどうかしているだろう。それを許した両親も含めて、とんでもないことだ。
「物を盗まれるなんて考えてもいない。能天気な野郎だった」
「そこが彼のいいところだもの。今も変わらずね」
言葉が止まる。米倉は昔、頭は良いが能天気で人を疑わない人間だった。今もそうなら、獅子神とは真逆の男だ。
だからこんな姿になっている。
天竺はついと米倉に視線を戻し、ベッドから覗く、痩せ切った肢体を撫でた。
「獅子神くん。君は、覚えていて。君を誘った彼のことを」
「......忘れねーよ」
ぶっきらぼうに答えた獅子神に、彼女は何を思っただろうか。ふっと頬を緩めた天竺は、どこか寂しそうだと思った。
次に天竺と会ったのは、彼の訃報を聞かされる時だった。
冷えた寿司を並べ、均整に並べた瑞々しいサラダをテーブルに置く。もうすぐ、宅配のピザが届く頃だ。友人を迎え案内して、配達員対応は園田にさせようか。時間の具合を見ながら、獅子神は目を細める。自分で企画するパーティーを行うのは初めてだ。
少し、食事のラインナップが幼いだろうか。今更だが、こうして料理を並べてみると子供が喜びそうなものばかりだ。
歴とした成人男性たちに振る舞うには可愛らしいかとも思うが、何を出しても文句を言うし、何だかんだ食べる連中だ。気にしても仕方がないだろう。何よりも、これら以外が思いつかなかったのだから。
そとがにわかに騒がしくなり、悪戯に何度もチャイムがなる。
「ちょっと待ってろ!」
友人たちは、この食事に何を思うだろうか。
たった1日の繋がりを心の底にしまい込んで、獅子神はこれから生きていく。彼のことを覚えている、沢山の人間のひとりとして。