恩人たるあなたへ

 すぐに、十月十日の日はやってきた。竹中ははぐれないようさざめの手をしっかりと握り直し、ミラノ空港の改札を通る。
 竹中がぐるりと周りを見渡せば、お客を迎える人々の合間から、待ち人を探そうと視線を動かしているアレクが見えた。やがて竹中と視線が合うと、待ちかねたようにアレクは二人に破顔する。少し前まで西洋での仕事をしていた彼とは現地集合の約束だ。
「久しぶり、孝助、さざめちゃん!!」
「久しぶり。そっちも無事に着いたみたいで良かった」
「まあ、俺は慣れてるしね。さざめちゃんとは半年振りくらいかな?元気?」
「うん」
 膝を屈めるアレクに目を合わせ、さざめは頷く。アレクもまた良かったと首を動かし、目ざとくも繋がれた手を見つけて笑った。
「すっかり親子が板についたね」
「そうかな」
「そうだよ、すっかり人の親って顔をしてる」
 竹中が頬を掻けば、アレクは笑みを深めて竹中の引いていたキャリーケースに手を掛けた。前日入りしたアレクの荷物はすでにホテルに預けているようで、彼は身軽な格好だ。そのまま歩き出す彼に竹中は慌てながら、さざめと共に追いかける。
「ちょ、アレク!」
「任せてよ、新米お父さんのお手伝いだ」
 人混みを抜けてしまえば、聡明なさざめがはぐれることはないのでもう手は握らなくても良い。だがその優しさがどうにも面映ゆく、竹中はそのまま、アレクの背を追った。とても平和で、とても暖かい。竹中にとって掛け替えのない繋がりだと、強く思った。
 ミラノの中心部から旧エテルノ美術館は遠くない。すっかり再建された建物は以前と少し外見が代わり、また別の施設として使われているようだった。ちょうど今は、あの事件から一年の節目として式典が行われている。
 涙を流す人、建物を睨むように凝視するもの。あの事件の被害者か、その関わりのある人なのだろう。建物を取り囲むように椅子が並べられ、暗くじっとりとした雰囲気で進んでいる。
 竹中たちは様子を伺いながら後ろをすり抜けた。式典の参加も少しは考えたが、結局、自分達には感傷的になるだけの式典は要らないと合意した。竹中たちは様々な形で、既に前を向いているのだ。
 旧美術館からほんの少し離れたところには、事件の慰霊碑が建っている。式典が終われば人で溢れるだろうが、幸いなことに今は誰も居ないようだった。
「……ここだ」
 竹中は町中で購入した花をそっと慰霊碑に添える。イタリアの文化としてどうなのかは知らない。ただ三人分の祈りとして、竹中は花束を置きたいと思った。
 この慰霊碑には、竹中やさざめの知る人は祀られていない。岸本は元より、九十九神琴やカミロ・ヴァンニもまた、死体を残さず煙となって消えてしまったからだ。三人とも行方不明の扱いのまま、宙ぶらりんな扱いになっている。
 彼女らが美術館で消えたことを知るのは、竹中達だけだ。彼女らには墓すら存在せず、人々の記憶から段々と薄れていっている。
 せめて、自分達だけでも弔いの気持ちを伝えたい。竹中は静かに手を合わせる。さざめもそれに習った。アレクも目を伏せて祈りの姿勢を取る。三人とも何も話さず、ざわざわと道を通りすぎる人々の声だけが、その場に響く。
(お元気ですか、岸本さん)
 竹中が岸本に伝えたいことは沢山あった。助けてくれたことへの感謝、さざめやアレクとの近況、思い出した父のこと。しかし、最初に話すのは、どれも違う気がする。暫く迷って、いや、と思い直した。まず伝えるのは、これがいい。

(……俺は今、とても幸せです)

 最後に見た岸本の笑顔が、瞬いて消えていく。様々伝え終わった竹中が振り替えると、すっかり祈りを終えて立ち上がった二人の姿があった。
「……行こうか。営業してる所は見たことがないけど、この辺で良さそうなお店を知ってるんだ」
「お昼ごはんだね」
「ま、ぼったくりだったら分かるから任せてよ」
 きっと今日が、人生で一番嬉しい誕生日になる。竹中は笑って、二人の手を引いた。