夜を連れ出す

何人もの使用人がすれ違える屋敷の廊下も、昼間の穏やかさは夜も深ければなりを潜め
背筋の伸びた黒いスーツ姿の男が足音も立てずに進むのみで静寂がみちている
男の一般よりも長い足を包むよく磨かれた革靴は、歩けば音が響きそうなものを
その男にはサイレンサーでも搭載されているかのように足早に見えるのに僅かな音しか立てず長い廊下を進んでいく
色味の薄いグレイの髪と、ハーフリムフレームのガラス越しの変わらない表情に無機質な印象ばかりが先行して、その奥の感情豊かな瞳に気が付くものは少ない
だが、男の耳に装着されたイヤホンモニターから聞きなれた明るい同僚の声が響くと、一つに結ばれていた口が緩く弧を描く
同僚へ短く言葉を返し、黒いスーツの男は色素の薄い瞳に決意を宿し彼が勤める広大な屋敷の最奥へ足を急がせた

男が正確なリズムで進める足を止めたのは屋敷の最奥。最もセキュリティの高く、日当たりも風通しも良い、屋敷中から守られた部屋の前
柔らかな植物や愛らしい花のレリーフで飾られた豪奢な扉からは部屋の主が女性。それも、若い女性であろう事が伺える
スーツの男が形の良い眉を潜ませ、夜の深まる時刻に女性の部屋を尋ねる無礼を鑑みるも
ここ数日の主の様子、屋敷の見回りの際にまだ煌々と明かりのついていたこの部屋の窓を思い返し。戸惑いを捨て扉のノッカーを手に取った

「お嬢様、よろしいでしょうか」

夜の廊下にノッカーを打つ音と、男の朗々たる声がよく響く
主がまだ床についていないことを知っている男は、部屋からの返答を1歩だにせず待っていた
男の考え通りに、部屋の主は差程間をおかず部屋の扉を小さく開き顔を出す

「……硲?こんな時間にどうしたの?」

まだ眠る用意も終えてない様子の主は、不思議そうな顔で硲と呼んだ男を見上げた
普段なら硲は見た目通りに折り目正しく、就寝していても不思議ではないような時間に主の部屋を尋ねる様なことはまずしない
そんな彼が普段とは違う行動をとった理由が、部屋から出てきた彼女の暗い表情にあった
彼女はこの屋敷の主人の一人娘で、伸び伸びとした明るい性格は使用人たちからも慕われている
だがここ数日、何があったのか彼女の顔からは笑顔が消えていた
明るい穏やかな屋敷は日が消えたように静まりかえり、使用人たちも心配しつつも遠巻きに見守るしか手立てはなく
幾日か経っても彼女の気持ちが回復する様子は見えずに、みな胸を傷めつつ切っ掛けを掴めないでいた所で
最初に動き出したのが小さな頃から彼女を守ってきたボディガードの硲道夫だった

「少しお時間を頂けないでしょうか」

硲の予想外の提案に、表情の沈んでいた主も目を見開く
明かりの消えた暗い廊下と部屋から漏れるライトの光で、静かな印象のボディガードの顔はより無機質に感じられた

「今から?」
「はい」

主人を真っ直ぐに見つめる男の視線と、昔から揺るがない全面的な信頼を背景に主人はほんの僅か戸惑いながらも、1つ頷いて硲に時間を許した
部屋へ入るのだと考えた彼女が、招き入れるよう扉を開くのを右手を上げるだけで制して硲は再び主人を戸惑わせる

「お連れしたい場所があります」













硲に手を引かれながら廊下を抜け、エントランスを抜けた先に用意してあったのは普段から使っている自家用車だった
彼女が不思議に思いながらも、いつも通りに後部座席へ乗り込もうとした動きは再び硲に制止される
珍しくもドライバーのように助手席の扉を開いた男に、促されるまま座席につき、男が運転席へ乗り込むと車は静かに動き出す

エントランスから庭を抜け、自動で開く門戸をくぐり抜け公道へと車は走り出す
流れる景色を見るでもなく見ながら、助手席の主は運転席の男へ問いかけた

「どこに行くの?」
「……いずれ解ります」

普段から自分に甘く、聞いたこと疑問に思ったことには必ずと言っていいほど答えてきた男が、問いかけを誤魔化した事にまた驚いて、主の視線が景色から隣の男へと移る
意外性の連続に目を瞬かせ、真っ直ぐに前を見つめて運転する男の横顔をまじまじと見つめた

「硲よね?偽物だったりしない?」
「ふむ、偽物のつもりはありませんが。念の為お嬢様が今朝召し上がらなかった朝食のメニューを上げていきましょうか」
「うん、硲だわ。必要ない。」
「フルーツやヨーグルトですませるより、きちんと朝食を召し上がる方が健康な体が作られます。普段からもう少しきちんとしたメニューを召し上がるとよろしいでしょう」
「間違いなく硲みたいね」

普段と様子の違うボディガードから、普段通りの言葉が出て小さく肩を竦める
先の予想もつかないが、硲という男が自分を傷付けるとは想像もしていない彼女はそれ以上の言葉も追求も止めて再びぼんやりとした様子で大人しく助手席におさまっていた
そんな主人の静かな様子に、運転席の男は落ち着かない気持ちでハンドルを握りながら、ただ目的の場所を目指して車を走らせる
車内に静寂が満ちる中、屋敷とは違う声色で硲が口を開く

「……ここ数日、沈んでいるようですが」
「…………うん、ちょっとね」

昔から傍に居た、彼女を守る男の幾分親しげな声色に耳を傾けながらも、男の優しさを受け止められず主は殻に閉じこもるように目を閉じる
何かに悩み、傷付いた様子の主を横目で見ながら、車を走らせている場所を確認する
もう目的の場所だと内心で密かにカウントダウンをはじめながら、ただ主へ言葉をかえす

「お嬢様。目を開けて、前を見てください」

身の回りで起きた私的な出来事で気持ちの沈んでいた彼女には、硲の言葉は色々な意味に受け取れるようで耳に痛いものだった
それでも、幼少期から硲の言うことをよく聞いてきた彼女は当たり前のように言われた通りの行動をとることが染み付いていて
今も、ただ言われるままに助手席で沈んで閉じていた目を開き、前を向いた

その瞳に星が飛び込んでくる

目の前に広がるのは光の洪水
色とりどりの明かりが星のように散らばって、流れていく
遠くで瞬く明かりもあれば、近くで煌々と輝く光の橋もある
ただ、どれもこれも眩しくまばゆいのは同じで
目のくらむような夜景の明かりたちにただ驚き、見とれて、隣に座る男へ感動を伝えなければと急かされるように口を開く

「すごい……すごい!こんなに綺麗な夜景初めて見た!」
「はい」
「あ!タワーも見える!凄いすごい!ねぇ硲も見えた?」
「はい」
「硲!あの橋渡ってみたいわ!ああ、でも見ているほうが綺麗なのかしら。でも、ねぇすごく綺麗だし渡ったらどんな風に見えるのか気になる!」
「はい」
「硲、硲!見て!!あのビルただのビルの筈なのにすごく綺麗!ねぇ、ねぇ!はざま!」
「はい」

ボディガードの声が少し笑いを含んだものに変わったことに気がついて、ふとはしゃぐ自分から我に返った
頬を赤く染め、笑われたらしいことへ拗ねる思いと共に運転席へ視線を送れば
そこにある横顔は揶揄う類のものではなく、ただ主を優しく見守る甘やかなもので
いつも硬質な表情からは想像も出来ない微笑みに、はしゃいだことよりも余計に顔が赤く染まっていく

そんな主人の心情の変化など汲み取れず、ただただ気分が浮上した様子の彼女に安堵して
硲は光の流れていく道路へ視線を戻しながら、一言彼女へ問いかけた

「夜景はいかがですか?」

いつもは物静かなボディガードが、まるで小洒落たレストランのボーイのように少し気取って問いかけてくる
気分の沈んでいた主を慮り夜のドライブへ連れ出したこと
男が見せてくれたまばゆい景色、鼓動をはやらせる微笑みに、胸の内側から擽ったい感覚が込み上げる
数日間こわばっていて、もうどうすればゆるむのか本人も解らなくなっていた頬が、自然と緩み最上級の笑顔がこぼれる
その表情と、これ以上ない一言で彼女からボディガードへの返答とした

「っ最高!」

瞬く星の中を車は進んでいく
いつ屋敷へ帰るのかは運転席も助手席の主にも予想のつかないこと
最高のドライブは未知を進んでいく