勝率0%の賭け[2014C/D]
A.M.01:43。
最後の書類に目を通し終わると同じタイミングで、木製のドアが歯軋りをした後に口を開いた。侵入者より先に忍び込んだ夜風は冷たく、喉に影響を及ぼし兼ねない程に乾燥している。条件反射で銃の存在を確かめたディーンだったが、この時間にノック無しで訪れる人間は一人しか居ない。
安らぎを忘れた翡翠の瞳に映るのは、予感ではなく強固たる確信だった。他者を受け入れる事に慣れていない部屋は、侵入者の気配に警戒心を剥き出しにする。
ディーンは敢えて書類から視線を離さず、聴覚を研ぎ澄まして様子を探る事にした。
神経質な空気を震わせるのは、存在を隠さない特徴的な足運び。無防備にも思えるが、その実隙がない。高度な技術を必要とするだけに、敵に回れば厄介な相手だ。
床の軋みが近付くにつれ、ディーンの身体は自然と強張る。眠気と疲労で脳を覆っていた霧は消滅し、長い睫毛が揺れる事はない。瞬きの数が極端に減少した証拠だった。
真向かいの椅子が引かれ、侵入者がどっかりと腰を下ろす。邪魔だと言いたげに書類を掠め取られ、強制的に対面させられる。
無視するには近すぎる距離で微笑んでいるのは、ディーンが予想した通りの人物だった。
「やれやれ、呆れたな。こんな時間なのにまだ起きてたのかい? 睡眠は貴重なんだ。休める時に休んでおくべきだよ」
奪い取った書類をつまらなそうに眺めながら、真夜中の侵入者が正論を口にする。無駄に色気を含んだ低音は、この男が信者を虜にする武器の一つだ。
だが、ディーンは男の信者ではない。
仕事を邪魔された挙げ句に悠然とした態度を取られては、流石に苛立ちが募る。
「人に偉そうに説教する前に、自分の行動を省みたらどうだ? 睡眠が大事だと思うなら、こんな時間に訪ねて来るな」
非常識な男の手から書類を奪い返し、馬の耳に念仏になる事を承知で叱責を飛ばす。怒りを抑え込んだ声は、ディーンが想像していたよりも低かった。並大抵の人間ならば、これだけで充分に撃退が出来る。
目の前で笑う男には、決め手が足りない。
「電気が点いてたから、君が起きてるのは解ってた。流石の僕でも、寝てるリーダーを起こすような真似はしないよ。偉い?」
眉間の皺もそのままに強く睨み付けて攻撃するディーンだったが、結果は男を喜ばせるだけで終わってしまった。冷酷な人間だと囁かれるだけの威厳も、頭のネジが緩んだ者には通用しない。
「お前に殊勝な心掛けがあった事に驚きだ。普通なら、電気が点いていても時間帯を考えて訪ねたりはしないがな」
「それは僕だからね。常識は通用しないって、リーダーが一番よく知ってるだろ?」
男との会話では、悪態が必需となる。
追い払おうとしたディーンの行動は、男のお決まりの台詞で無力化してしまった。
此方を見つめてくる蒼い双眸は、次の悪態を期待するように揺れていた。憎らしいと思う程、楽しそうに。鋭く持ち上がった口角には、飼い慣らせなかった獰猛さが牙を剥いている。
向かい合わせに陣取った態度から、直ぐに帰る気はないらしい。居残った所で、何のメリットがあると言うのだろうか。録な会話も出来ないのは目に見えているというのに。
読み直していていた書類の細かな振動が、無意識に溜め息を吐いた事をディーンに教える。
「それで、何の用だ?」
無視する事も出来たが、男がディーンを見つめているのは明白だった。どんなに重要な情報が記してある書類でも、蒼い眸の存在を隠す事は出来ない。
「うん。リーダーにお願いがあってね」
「止めろ、不吉な事を言うな。絶対にお断りだ」
男の口から滑り落ちた危険キーワードに、ディーンは悩む素振りも見せずに話を終了させる。断られると想定していたのか、男に落胆の色は見えなかった。
「あはは。今日も絶好調に冷たいね。そんな君も凄く魅力的だ。でも、何をそんなに警戒してるんだい?」
「お前相手に警戒心を無くせるとでも? 猛獣を相手に、素手で立ち向かう馬鹿はいないだろ」
「やだなぁ。それじゃ、僕が普段から酷い事してるみたいじゃないか」
「その通りだろ」
テーブルに散らばった書類を掻き集める間も、滑りのいい男の口は止まらない。喉を鳴らして肩を震わせて笑う姿には、例えようのない不気味さがある。ディーンの警戒心を強めるには、充分過ぎる効果があった。
このままだと、完全に男のペースに巻き込まれてしまう。なら、ディーンの取るべき行動は一つだけ。
「お前がこの部屋に留まるのに、俺が納得するだけの理由があるのか? 無いのなら、今すぐ出て行け。頭を撃ち抜かれたくないならな」
集めた書類を片手に立ち上がり、拒絶の意味を貼り付けた背中を男へと向ける。棚に書類を戻し、違うファイルを取り出す。
後は、男が部屋を出るのを待てばいい。
これが、男を追い出す常套手段だった。
「物騒だなぁ、リーダーは。僕は貴重な戦闘員なんだ、優しくしてくれよ」
「いいだろう。最上級の優しさで、10秒だけ待ってやる。その間に出て行け。もし出て行かないなら――解るな?」
「はいはい、了解ですリーダー様」
拗ねたような男の声が、丸めたティッシュのようにディーンの背中に当たる。椅子と床の軋みで男が立ち上がったのが解り、全身に張り巡っていた緊張が弱まった。
然り気無く時計に視線を飛ばせば、長針が示した時刻は53。短針は限りなく2に近い場所を指しているが、まだ1時のまま。
ディーンの体感では一時間は経過していたが、実際には男が現れてからまだ10分程度しか過ぎていない。
つまり、時間感覚が狂うほどに精神を磨り減らしていた事になる。
その事実は一瞬とはいえディーンに驚きを与え、集中力を散漫とさせてしまった。
「っ、オイ……っ!?」
蛇が獲物に襲いかかるように、男の腕が腰に巻き付く。そのまま部屋を出るのだろうと、油断したのが間違いだった。
左肩に顎を乗せた男が、熱い息を吐きながらディーンの鼓膜に言葉を捩じ込む。
「君が納得出来るだけの理由、ねぇ。僕も馬鹿じゃないから、考えてあるよ。言うまでもなく、僕の目的は解ってるよね?」
「クソっ、この馬鹿力っ。俺は忙しいんだ、お前に構ってる暇はない…!!」
腰に巻き付いた片方の手が、シャツの下に潜り込み腹筋を撫でる。持っていたファイルから即座に手を離したディーンは、拘束を振り解こうと男の手を掴む。
けれども、拘束する腕は蛇から鎖へと進化していた。解く事は容易ではない。
「うん、知ってる。だからさ、協力してくれよ、リーダー。僕が『酷い事』しないで済むように、さ」
男は強弱をつけてディーンの耳朶を食み、異様に熱い掌で腹から胸を撫で回す。腕に触った時から、男の異常さには気付いていた。
この男、間違いなく服用している。
問題なのは飲んだ薬の種類だ。ディーンの見立てが確かなら、服用したと思われるのはセックスドラッグ。となると、密着しているのは非常に不味い。
「冗、談じゃねぇっ。ヤリたきゃ、女の所にでも行けばいいだろ…っ」
「嫌だね。僕は君がいいんだ。リーダーだって、本当は期待してくれてたんだろ?」
「どの口がほざきやがっ…ひっ!?」
足を踏んで攻撃しようとした矢先に、男の舌が耳の中に侵入して来た。対応出来なかったディーンの口からは、聞くに堪えない悲鳴が飛び出す。頭を振って逃れようとすれば、シャツの下で出番を待っていた男の手が、胸の突起を抓り上げる。
「痛ぅっ!! く、く…ぅっ」
「抵抗するのは大歓迎だよ。でもね、逃げるのは許さない。抗ってくれよ、リーダー」
「…クソ野郎がっ…。楽しそうに、してんじゃねぇよ、っ」
「リーダーの嫌がる事をするのは、僕の中で上位に入る楽しい事だからね。楽しくない訳がないだろう?」
舌先が小刻みに動く度に発生する淫らな音は、嫌でもディーンに情事を連想させてしまった。笑う膝で体勢を維持するのは難しく、苦肉の策として右手を棚に伸ばす。
膝を折った所で、男が支えるだろう。だが、これ以上の屈辱は御免被りたい。
残る片手でベルトを引き抜いた手を掴み、最後の抵抗を試みる。そんなディーンの反抗も、赤子の手を捻るように封じられてしまった。
「や、待っ、待て…っ!!」
「うん? どうしたの、リーダー?」
「うあっ。バッ…動、かすな…ぁ…っ!!」
フロントを解放した男の手が下着の中に差し込まれ、熱を持ち始めた欲望を嬲り始める。展開の早さに動揺するディーンなどお構い無しに、項にキスを落とした男は本格的に手を動かし出した。
「ひ…っ、っん、ん…っ」
「ねぇ、賭けをしようかリーダー。今から3分以内にイカせられたら僕の勝ち。耐える事が出来たら君の勝ちで、僕は素直に帰るよ」
「はっ、く…ぅっ、止、め…」
床に散乱しているのは、そこそこに重要な情報が記されている書類。まだまだ利用価値は高く、読めなくなると困る物ばかりだった。そしてその事実は、男も承知している。
普段なら問答無用でベッドに引き込む男が、猶予を与えるなんて裏がない訳がない。
趣味のいい男の事だ。
屈辱と快感に耐えるディーンを観察するのが楽しいのだろう。我慢しなくてはならない要素しかない状況は、精神的にもディーンを攻める。
「あっ、あ…、ん…っ」
「頑張ってリーダー。後2分だよ」
「ぅあっ、あ、無…理、だ…」
後ろには、救いようのない薬物中毒者。
足元には無数の書類。
耐えきれる訳がなく、ディーンは下げた頭を左右に振る。間違いなく、この賭けは男の勝ちだ。男を即座に追い返さなかった事も、態々用件を聞いた事も、全ては警戒心を怠ったディーンに責任がある。
寝不足と疲労が無ければ、こんな窮地に追い込まれる事は無かっただろう。
――本当にそうだろうか?
男が宣ったように、もしかしたら何処かで期待した自分が居たのかもしれない。
「……――キャス」
下げていた頭を持ち上げ、自分を苛んでいる人物を振り返る。ディーンの震える口が無意識に呼んだのは、男の名前だった。
賭けも勝敗も真意も、最早どうでもいい。
「君は僕を誘うのが、本当に上手いね」
蒼い双眸を優しく細め、身を乗り出した男の顔が近づいてくる。これからの展開を理解した目蓋が、空気を読んでヘイゼルグリーンの瞳を隠す。唇の熱に背筋を震わせたディーンは、男の手の中で絶頂を迎えた。
END
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