SUPERNATURAL


口は災いの元


 
 何処か気怠さを覚える午後4時過ぎ。
 アップルティーのような仄かな甘みを感じさせる西日が、埃っぽさを否めないモーテルを緩やかに彩っていた。
 アフタヌーンティーを楽しむには、正に打って付けの時間帯である。サンドイッチやスコーンの乗せられた三段トレイがあれば、優雅なフルティーを満喫出来るだろう。

 ただ残念ながら、この部屋には洒落た感性を持ち合わせている者がいない。部屋の中央に設置されたテーブルには、顰めっ面のディーンとカスティエルの二人だけだった。

「…………ん。出来たぞ」

 見るだけで人を惹き付ける唇の隙間から、赤く艶かしい舌が突き出される。ディーンを食い入るように見つめていたカスティエルは、可愛らしい舌先にちょこんと乗った物体に視線を落とした。

「うぉ…っ!!」

 見えにくかったのか、天使が前のめりになったので、距離がぐっと近付く。キスを仕掛けんばっかりの勢いに、ディーンは反射で上半身を仰け反らせた。咄嗟に、突き出していた舌も引っ込める。その瞬時の判断で、最悪の事態は回避出来た。だが口の中に異物があり、発言が規制されてしまう。

「ディーン? 隠されると見えないのだが」

 普通の人間ならば当然とも言うべきディーンの行動も、まだ世俗に疎いカスティエルには理解不能だったらしい。
 広まった距離が気に入らないのか。隠された物体が気になるのか。
 椅子から腰を上げたカスティエルは、仏頂面を更にディーンへと接近させた。この行動から、目的は両方だと解釈するべきだろう。

「ひょ、ひょっとまへ…!!」

 テーブルに置いた左手で重心を支えるカスティエルは、残っていた右手でディーンの顎を捉える。天使が柄にもなく積極的な行動を取るので、酷い発言になってしまったと恥じる暇もなかった。

 思っていたよりも、全然喋れない。
 通常でも会話のキャッチボールが儘ならない相手に、これでは分が悪過ぎる。

「何故逃げるんだ? 暴れないで、口を開けてくれないか」

「ん……っ。ま、て……って……!!」

 触られた訳でもないのに、唇が妙に熱い。
 何処と無く怜悧さを含んだ蒼い双眸は、閉口されたディーンの唇に釘付けになっている。このままでは焦れたカスティエルが奇行に走るのは、火を見るより明らかだった。

 眉間に力を集めて眉毛の端を持ち上げたディーンは、顎を掴んでいた手を叩き落とす。

 乾いた音が室内に響き、カスティエルの瞳孔が静かに広がった。
 それに構わず口を開いたディーンは、誤飲間近だった物体を摘まむ。

「キャス、近い!! 離れろ!!」

「ああ、すまない。気付かなかった。それよりもディーン、もうすこし近くでソレを見せてくれないか?」

「お前、謝る気ないだろ!! とりあえず離れろ!! 離れたら見せてやるから!!」

 壁の薄いモーテルでは、大声を上げれば隣の部屋にも筒抜けとなる。事情を知らない者ならば、強盗に襲われていると勘違いしそうな程の怒鳴り声だった。

「止めろキャス!! 離れろって!! わ、解った!! やるよ、やるから!!」

 退く気のない高圧的な態度に負けたディーンは、渋々ながらも持っていた物体をカスティエルに譲渡する。渡さなければよねとてつもない不幸に見舞われる気がしたのだ。
 ハンター業で培った直感だけは、決してディーンに嘘を吐かない。

「これは凄いな。本当に結ばれている」

 先程の気迫は何処へ行ったのか。
 普段は何を考えているか解らないアイスブルーの眸が、眩しい程にキラキラと輝いていた。まるで憧れていたヒーローと出会った子供のような、純粋さに満ちた無垢な眸。
 それは、ディーンが疾の昔に捨てた物。

「あー……そうかよ」

 居心地の悪さを覚えたディーンは投げやりに答え、行儀よく椅子に座り直したカスティエルから逃げるように立ち上がった。
 部屋に備え付けられていた冷蔵庫を開けると、中には缶のビールが四本しか入っていない。しかも、どれも安物ばかり。

「キャス、お前も飲めよ」

 贅沢は言えないと、ディーンは缶ビール二本を手にテーブルに戻る。椅子を引いて腰を下ろし、プルタブを開けてカスティエルにビール缶を渡す。
 天使は一瞥して曖昧に頷き、また自分の掌に視線を戻してしまった。

「それで、俺の疑いは晴れたか?」

「ああ。疑った事を謝罪したい。君はキスが上手いんだな」

「まぁな。解ればいい。ってか、捨てろよソレ。汚いだろ」

「汚い? 何故だ?」

「何でって、お前なぁ……」

 カスティエルの手の中にあるのは、ぎこちなく結ばれたチェリーの茎。ずっとディーンの口腔に含まれていた物で、ビーフジャーキーも元に戻るくらいに濡れている。

 何度も言うが、唾液だ。
 汚いと思わない方がおかしい。
 異常なのは、天使の思考回路だ。

「もういい。それより、チェリーの茎を舌で結べればキスが上手いなんて、何処で仕入れた情報だよ」

 自分の分を飲み終わったディーンは、説得する事を早々に諦め、放置されていたカスティエルのビールに手を伸ばした。このままにしていたら、ビールの醍醐味である炭酸が抜ける。
 飲まないのであれば、ディーンの胃に収めた方がいいだろう。

「どうせ、またテレビだろ?」

「今回は女性向けと思われる雑誌から吸収した知識だ。理解不能な内容ばかりだったが、興味深いのもまた事実。その一つを、ディーンに実践して貰った」

「……お前、本当に何してんだよ」

 カスティエルの返答に、ディーンは怒るのを通り越して呆れてしまった。暗に暇潰しだと言われているようだが、真面目な天使だからこそ息抜きは必要だろう。
 広い心を持とうと決めたのは束の間。
 興味が薄れたのか、カスティエルは指先で踊らせていた茎の結び目を解いていた。そのまま捨てるのだろうと思っていたディーンは、ビール缶を中途半端に掲げた体勢のまま、目を剥いて身を凍らせる事となる。

「ちょっ、な、お、お前何してんだ!?」

 パクリ、と。
 それはキャンディーを食べるように、カスティエルはチェリーの茎を口に含んだ。激しく狼狽するディーンから目を逸らしもせず、本当にキャンディーを食べているかのように口を動かしている。

 だが、キャンディーではない。
 ソレは数分前までディーンの口にあり、唾液でびっしょりと濡れていた茎だ。天使の奇抜な行動には慣れたつもりでいたが、まだまだ認識が甘かった。

「キャス、ソレは食い物じゃねぇ! 後でハンバーガー買ってやるから吐き出せ! いいか、絶対に飲み込むなよ!!」

「出来た」

「ーーは?」

「思っていたよりも簡単だった」

 無駄だと解りきっている武力行使に出るより前に、カスティエルは自ら口を開く。摘ままれた茎は、指で結んだのかと疑いたくなるくらいの出来栄えだった。
 
 流石に素手で触る勇気はなく、四つ折りにしたティッシュの上に茎を置いてもらう。

「本当だ……。俺よりしっかり結べてる」

 ディーンの中で、カスティエルは戦闘以外では不器用だという先入観があった。意外な器用さは、違和感でしかない。

 力を使ったのではないかと勘繰るディーンだったが、その考えは直ぐに捨てる。いくらカスティエルと雖(いえど)も、そんな無駄はしないだろう。つまり、実力という事になる。

「では、私もディーンと同じでキスが上手いという事か?」

「ん〜……まぁ、そうなんじゃねぇか?」

「そうか。いまいち実感が湧かないが」

 所詮、眉唾物の情報だ。
 信憑性も何も無いと説明すると、カスティエルは明らかに納得していない表情を見せる。まるで大事だった筈の用件を思い出せず、不完全燃焼に陥ってしまった顔だ。

「気になるなら、試してみたらどうだ?」

「実践してみろと?」

「キャスにその気があるならな。キスの上手い子を紹介してやってもいいぜ」

 提案をしたのは、お節介と親切心が二割。残りの八割は、ちょっとした悪戯心だった。散々度肝を抜かれる事をされたのだから、少しからかっても罰は当たらないだろう。

「それは素晴らしい考えだ。君の考えが変わる前に、実践するとしよう」

「お、珍しく乗り気だな。ついでに、童貞も卒業させてーー」

 不自然にディーンの言葉が途切れる。
 瞬きをしただけなのに、薄汚れた天井が見えるのは何故だ。それに、持っていたビールは何処に行ったのか。どうして、カスティエルに見下ろされているのか。蒼い双眸がこんなに近くにある理由が解らない。

 増えて深まるばかりの謎に気を取られ、ディーンはカスティエルに押し倒されている事に気付けなかった。

「目眩、か? いや、違うな。キャス、お前の仕業……うぶっ!!」

 指を絡めて握られ、薄く乾燥した唇がディーンに重なる。閉じ忘れた隙間から侵入した舌はゆっくりと歯列をなぞり、頬の内側を優しく突ついてきた。
 背筋にぶるりと震えが走り、知らぬ内に絡めていた指に力が籠る。

「ん……っ」

 これは、紛うことなくキスだ。
 しかもビギナーにしては、中々に高難易度なキスを仕掛けられている。性急に求めるのではなく、まずは外側から段階を踏もうとするのが奥手なカスティエルらしい。

「ふぅ……ん……」

 天使の熱を直に感じながらも、ディーンはまだ何処か他人事のように受け止めていた。上顎を擽られると、鼻から抜ける息に弱々しい声が混ざる。
 外側を堪能したのか、カスティエルの舌がディーンの舌に寄り添う。

「んぅっ!? んっ、んーーっ!!」

 直接的な刺激に我に返ったが、逃げるには拒絶するのが遅すぎた。カスティエルの手の甲に爪を食い込ませ、足をばたつかせる。
 効果は見込めないが、為すが儘にされるのはディーンのプライドが許さない。

「は、ふぅ……っ、キャ……んむ、っ」

 絶対に負けないと睨み付けたが、じゅるりと音を立てて舌を啜られてしまえば、視界を闇で覆う事になってしまった。

「んっ、ん……ん……っ」

 尖らせた舌で付け根を擦られ、ディーンの身体がビクビクと震える。指を握り返す力も吸収され、長いキスが終わった時には、罵声を浴びせる余裕もなかった。

 肺が求めるままに、ディーンは新鮮な空気を取り込む。瞳に光と色を取り戻させたのは、喋れるまでに呼吸が落ち着いてからだった。

「はっ、ふ……おま、しつ、こい……」

「……どう、だろうか?」

 心許ない表情でカスティエルに問われたが、余韻に包まれているディーンは直ぐに返事を返せない。

「ど、うって……何がだよ?」

「私のキス技術だ。やはり下手だろうか」

 口元から流れた唾液を拭いたいが、手はまだ握られたままで。眼前に滞在している顔を眺めれば、乾燥していた唇が鈍い光を放っていた。ディーンの唇も、同じように潤っているのだろう。

「ディーン?」

 不安そうな顔で首を傾げるカスティエルに、じわじわと怒りが沸騰してくる。悪気がないのが、殊更ディーンのプライドを抉るのだ。

「この、クソ天使……っ!」

 不用意に顔を近付けたカスティエルに、ディーンは渾身の頭突きをお見舞する。岩同士が衝突したような鈍い音が部屋に広がったが、苦痛の声を上げたのはディーンだけだった。

「凄い音がしたが、大丈夫か?」

「だ、ぃ、じょうぶな訳ないだろ……っ!!」

 額が陥没したと涙目で叫ぶと、ズキズキと痛む場所に天使のキスが降ってくる。痛みが引いたという事は、貴重な恩恵を使って癒しを施してくれたのだろう。

「ふむ……君の反応を見る限り、まだまだ経験が足りないようだな。残念だが、やはりあの情報は嘘だったようだ。すまないディーン、迷惑をかけた」

 納得したカスティエルが身体を引こうとしたが、今度はディーンが阻止する。離れようとした肩を鷲掴み、持てる力の限りで自分の方へと引き寄せた。

 どんな天変地異が起ころうとも、認めてなるものか。百戦錬磨のこの自分が、キスだけで腰が砕けそうになっていたなどと。

「ーー絶対に認めてやんねぇ!!」

 カスティエルの鼻先で吠えたディーンは、どちらの物か解らない唾液で濡れた唇に喰らい付いた。男としてのプライドを取り戻す為に。



END




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