祈りの行き着く先
ーー神は仰った。
人間を慈しみ、守り導けと。
だが、天使は神の戦士である。
悪魔や天界に仇なす存在を駆逐することこそが、我ら天使に与えられた使命だ。如何に偉大な父の言葉であっても、命令を理解し実行する者は皆無に等しかった。
私を含め、人間を対等な存在と認める者すらいなかったのだ。
しかし、今の私は違う。
神への忠誠を誓いながら、為すべき使命に迷いが生じている。自我の目覚めは異端の証だ。それでも、考えてしまう。
私のしていることは、本当に正しいのか。
任務遂行の為に、このまま『彼』が傷付くのを見ているしかないのか。
「…………ディーン」
確かに発した私の声は、誰の耳にも届かず消えた。意味も持たずに呼んだ名に、答える者はいない。残ったのは、募る不安と焦燥。
神託を乞う為に祈りを捧げようとした、正にその時だった。
* * *
今夜も寂寞の闇が訪れる。
深淵が全ての音や色を食い潰し、細やかな祈りと願いを嘲笑う。前後不覚になるまで酒を飲んだディーンは、柔らかいベッドへと身を預けた。
微睡みに揺れる瞳は朧気で、目蓋が下がる程に悲愁の色が幅を利かせる。その瞳は、明らかに眠るのを恐れていた。
出来るならば、眠りたくはない。
けれども疲れの蓄積された身体に、ディーンの意思は通用しないのだ。肉体は完全に修復されて甦ったが、闇の眷属に堕ちた魂は皹割れたままで。
目蓋が完全に視界を覆う直前まで、ディーンは眠る行為への不安を募らせていた。
どうか、今夜だけでいい。
今夜だけでいいから、静かな眠りを。
誰に言う訳でもなく、祈る相手も見つけられず、助けを呼ぶ名前さえ思い浮かばずに。孤立するディーンに寄り添うのは、執拗に追いかけてくる忌まわしき記憶だけだ。
睡眠の浅瀬を彷徨い、二時間。
緩やかに上下される胸は、ディーンの眠りが穏やかだと証明している。
今日は大丈夫かもしれない。
そんな浅はかな期待を抱いた瞬間に、鳴りを潜めていた悪夢が目を覚ます。泡沫の願いは、無惨にも踏み潰されてしまった。
「……っ……う……うぅ……っ」
胸元に置かれていたディーンの手は、心臓を握るようにシャツを鷲掴んでいる。薄れた眉間の皺も色濃く復活し、閉ざされた目蓋の下で眼球が狼狽え始めた。
全身の筋肉が、萎縮している。
シャツを握る手は小刻みに震え、何度も胸板を叩いては、悪夢から呼び戻そうと足掻いていた。
「は……っ……、う……っく……」
神など居ないと憤慨するディーンには、一縷の希望を抱くのも罪になるのか。苦しそうな呼気が、有毒なガスのように充満する。額には冷や汗が吹き出し、戦慄く唇が何かを紡ごうと動いた。
「…………ーーーー」
何かを呟いたのは確かだが、音なき声を理解することは出来ない。それっきり口を閉ざして苦しむディーンだったが、室内で変化が起きた。猛禽類が羽ばたく音と共に、部屋の中心に不審者が現れる。
長身の部類に含まれる体躯。
多少癖のある短い黒髪に、険しさを押し出した顰めっ面。壮麗さと峻厳さを備えた蒼い双眸は、見た者を呪縛させる存在感を放っていた。剃り忘れたのか無精髭生えていたが、端正な顔立ちに相違ない。
疲れを滲ませたトレンチコートも、妙に男の雰囲気に合っている。
故に、紛うことなき変質者だ。
「……ディーン?」
呻き声に反応した侵入者は、迷いなくディーンの下へと歩を進める。室内を物色する気配もなく、名前を知っていたことから、顔見知りである可能性が高かった。
悪夢に蹂躙されているディーンは、男の出現に気付くだけの余力がない。二人分の重みで、ベッドが深く沈む。
「成る程。また悪夢を見ているのか」
苦しむディーンを観察した男は、起伏のない声で言葉を繋いだ。その声色に、気遣いという意図を見つけることは出来ない。
普通なら、魘されている者がいたら真っ先に起こすだろう。
だが、男はそれをしなかった。
「君は必要以上の干渉を嫌う。だが……せめて、これぐらいは許してくれ」
揃えた人差し指と中指をディーンの額に置き、行動を停止する。傍から見れば、何の意味もない行動にしか映らない。
しかし、それは間違いだった。
男がディーンに触れて数秒。目に見えて解る変化が訪れる。
「落ち着いたようだな。もう大丈夫だ」
荒波のように乱れていた呼吸が、一瞬にして落ち着きを取り戻す。短く言葉を紡いで指を離した男からは、先程とは違い痛い程にディーンへの気遣いを感じた。
男が『何者』で『何』をしたのか。
それは定かではない。確かなのは、この男が悪夢からディーンを救ったということ。
それが、最も重要な事実だった。
「……ん、っ……」
蛹から孵化した蝶が羽ばたくように、長い睫毛が芸術的な美しさで芽吹く。ヘイゼルグリーンの瞳が、男の顔を映した。
男は毛布を掛け直そうとしたのか、ディーンに覆い被さるような体勢を取っている。見ようによっては、寝込みを襲う男の図が完成していた。
「い、いや……これは、その……」
声に多少の狼狽は見受けられるが、表情に出ないのは何か特殊な訓練を受けたのだろうか。構図的に、弁明も通用しない。例え理不尽に殴られ、烈火の如く文句を言われても、原因は突然現れた男にある。
「……ーーキャス?」
数回瞬きを繰り返したディーンは、ふっくらとした唇を小さく動かした。誰かの名前らしき単語は、先程の音なき声と同じ動き。二人の間に、暫しの沈黙が落ちる。
まだ夢現なのかディーンの反応は鈍く、銃を構えて迎撃する素振りはない。
至近距離にいる男を見つめ、不意に翳りのない笑みを浮かべる。それは心底安堵し、心を許した者にだけ見せる微笑みだった。
* * *
再び深い眠りに落ちたディーンは、穏やかな呼吸を繰り返している。今夜はもう、悪夢に魘されたりはしないだろう。悪夢を見たことも、きっと覚えていない。
覚えているのは、私だけだ。
「君は、私とサムを見間違えたのか?」
酷く混乱する頭で状況を整理しようとするが、どうにも思考が定まらない。ベッドの端に座り、最も高い可能性を口に出してみた。彼が弟と間違えたのなら、あの微笑みも納得出来る。
だが、釈然としない。ディーンは私を認識した上で、私の名前を呼んだ。見間違えた可能性は低く、ディーンは私に微笑んだと解釈するべきだろう。
安堵しきった表情の彼を前にすると、使命など放り出してしまいたくなる。傷付く彼を見たくない。美しいヘイゼルグリーンの瞳が、絶望に染まるのは耐えられない。
いつでも、笑っていて欲しい。
その為なら、私はーー。
「……そうか、実に単純なことだ。そんなことにも気付かないから、私は君に怒られてばかりなんだな」
認めずに目を逸らしていただけで、答えは既に私の手の中にあった。この感情に従うなら、私は反逆者と見なされる。それでも、握り締めた答えを離す気はない。
「……おやすみ、ディーン」
君がくれた微笑みを、汚さぬように。
私の持てる力で、君を守ろう。
眠るディーンの額へとキスを落とし、私は明確に目覚めた自我に従う決心をした。
END
- 16 -
*前次#
ページ: