amazinganswer[2014C/D]
空に浮かぶ月が霞み、星も濁る夜。
キャビン内をうっすらと浮かび上がらせていたのは、隙間風に負けてしまいそうな蝋燭の灯りだった。今宵は風が強く、蝋燭は生と死の狭間を何度も行き来している。今も風に煽られては消える寸前で体勢を立て直し、しぶとく生に縋りついていた。
生きる事への執着心が強いのは、何も人間や動物だけではない。物言わぬ植物や無機物であっても、一度命を宿せば貪欲になる。
誰であれ何であれ、死は恐怖の対象だ。
だからこそ無様に足掻き、死に物狂いで生きようともがく。それが普通で、何も特別な事ではない。
異常なのは自分なのだろうと、ベッドに座っていた男が乾いた笑い声を響かせた。
「みっともないよなぁ。そんなに必死になっても、誰も惜しんでくれないのにさ」
不規則に揺れる心許ない灯りを、玄奥の蒼を湛えた眸が白眼視している。視線の送り主であるカスティエルは整った顔立ちをしているが、両目の下に出来た隈が原因で、今は病人のような風貌を醸し出していた。
着ているシャツは左腕の部分が大胆に裂かれ、血の滲んだ包帯が隙間なく巻かれている。素早い処置のお陰で事なきを得たが、当分の間前線に回される事はないだろう。
事実上の役立たず宣言だ。
薬の効果もあり痛みは大分引いているが、拗らせた風邪のように苛立ちが消えない。ベッドから下りたカスティエルは自虐的な笑みを刻み、覚束ない足取りでテーブルに近付いた。
圧倒的に血が足りず、頭がフラフラする。
「あ〜あ、何でこんな中途半端な怪我なんかしたんだろう。全く、情けないな」
放置してあったビールの缶を掴み、触って解るまでに温くなったソレを乱暴に傾ける。炭酸の薄れた不快な液体が舌の上を滑り、食道から胃へと流れていく。結局不快感に負け、カスティエルの喉仏が上下したのは二回だけだった。
舌がビリビリして味が解らない。
泥濘に立っていると錯覚する程に足元が柔らかく、視界が歪んで見える。そういえば怪我の手当をした医者らしき男が、後から熱が出るような事を言っていたと思い出す。
「この世界で意味のある命なんて、たった一人だけだよ。その他はゴミと同じだ」
誰に聞かせる訳でもなく吐き出した言葉は苦く、キャビンに蔓延る闇に食まれる。
カスティエルの口が愉快そうに歪んだのを見届け、蝋燭は断末魔を上げる事なく絶命した。
逆様にした缶から溢れた液体が蝋燭の命を奪い、木目のテーブルをしとどに濡らしていく。
僅かな灯りを失ったキャビンは、完全に闇に侵食されてしまった。暗視スコープでも用いなければ、カスティエルの表情を探る術はない。
「勿論、僕の命もね」
まるで他愛ない話をするように、カスティエルは自分の命に価値などないと告げる。
価値がない事こそが、最も重要なのだ。
路傍の石と同じ存在であればある程、躊躇いなく『彼』は自分を盾にする事が出来る。そうして『彼』の為に死を迎える事が出来たら、その時こそ男に価値が生まれるのだ。
「命と引き換えの価値か。うん、厄介者の僕には相応しい」
再びベッドに戻ったカスティエルは、仰向けに倒れて眸を閉ざした。性行為独特の熱気と艶やかな嬌声が存在しない部屋は、こんなにも居心地が悪かっただろうか。牢獄に閉じ込められた囚人の気持ちを体験しながら、真綿で首を絞められているような息苦しさを受け入れる。
とても心穏やかに眠れる環境ではない。
カスティエルがどうやってこの長い時間を耐えるべきか思案しながら、421回目の鼓動を数え終えた時だった。静寂(しじま)の室内に呼吸の乱れが目立ち始め、目を閉じていても気持ちの悪い浮遊感に苛まれる。
どうやら、本格的に熱が出てきたらしい。
天使の力を失って何より不便に思う事は、人間の身体の脆さだった。転んだだけで怪我をする事もあれば、些細な気候の変化で風邪を引く事だってある。特に今の時代では満足のいく治療が受けられず、人間の死亡率は倍増していた。
今回の怪我は己の不注意が原因ではないが、それでも脆弱な自分の身体を呪いたくなる。
「こんな体で生き抜くなんて、本当に至難の技だよ。あの強さが羨ましい」
カスティエルの狭い胸中に収まりきれなくなった感情が、低く掠れた声と一緒に溢れ落ちた。
目蓋の裏でも厳しい表情を崩さない『彼』は、現実と同じで自分に対して壁を作っている。
それも当然だと笑って幻の『彼』に手を伸ばせば、拒絶された後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。カスティエル自身も気付いていた。
自分が『彼』を蝕む苦痛の一部であると。
(僕は君を苦しめるだけの存在だ。なのに、君は何故僕を側に置くんだろうね)
さっさと突き放してしまえばいいのに、何故淡い期待を持たせるのだろうか。そしてカスティエルは、どんな言葉を『彼』に求めているのだろうか。
熱があるからだと自分に言い聞かせ、カスティエルは考えるのを中止する。
何もかもが、今更の一言で片付く問題だ。
なら、考えない方がいい。
ネガティブになっているのは、きっと薬やセックスが足りないからだ。とりあえず怪我が治ったら、盛大に濃密なパーティーを開催しよう。
カスティエルが本格的な微睡みの中に飛び込もうとした矢先、キャビンの階段が軋んだ。疲労で重い目蓋を押し上げ、闇に溶け込んで獲物を狙う蛇のように、入口を睨め付ける。
カスティエルが任務中に負傷した事は、キャンプ地に居る殆どの人間が知っている筈だ。
この部屋に集まるメンバーにも、暫くパーティーは延期すると伝えてある。いくら彼女達が元天使に依存しているとは言え、最低限の常識は弁えているだろう。
(やれやれ、面倒は御免なんだけどな)
ベッドの板とマットレスの間には、護身用の銃とサバイバルナイフが隠してある。出来ればこれ等の武器を使う相手はご遠慮願いたいと、カスティエルは痺れて力の入らない右肘をついて上半身を起こした。ベッドヘッドに背を預け、万が一の事態に備えて銃を取り出す。
熱に魘され視界は明瞭ではないが、今よりも酷い状態で数多の死線を掻い潜ってきた実績はある。銃を握った瞬間から、カスティエルは慈悲を持たない戦士へと早変わりした。
扉の前で足音は止まったのだが、それ以上のアクションがなく二分程度の沈黙が流れる。扉越しに室内の様子を探っているのかもしれないと、カスティエルは揺れる視界とも格闘しながら警戒を強めた。
姿は見えないが、相手も相当な手練れで間違いないだろう。ノックもなしに緩く回されたドアノブの音を聞きながら、カスティエルは怪我をしたのが利き腕でなくて良かったと、長く息を吐いて銃を構える。
躊躇いがちに開かれていく扉から、夜独特の神経質な風が滑り込んで来た。隙間からは橙色の柔らかなランタンの灯りが見え、カスティエルの眼差しに呆れが足される。闇討ちを目的として来たのなら、随分と杜撰な行動だ。
それとも、余程自分の腕に自信があるのか。
どちらにせよ、油断は死に直結する。
ランタンの暖かな光が照らしたのは、見覚えのあるジャケットと、予想だにしない人物だった。
「これは、また……珍しいね」
「お前……まだ起きてたのか?」
これは、熱が見せる幻覚か。
そうでなくては説明がつかない人物の登場に、カスティエルは構えていた銃をゆっくりと下ろす。困惑しているのは相手も同じで、此方を凝視する瞳は胡桃サイズまで見開かれている。
顔を合わせた事への気まずさを全面に押し出した訪問者だったが、それでも荒々しく足を前進させた。起きていると判明したからか、もう足音も気配も消す気はないらしい。
その行動で現実だと確信したカスティエルは、歪む世界から彼を切り取る。
「まぁ、眠れなくってね。それより、どうしたんだい? 君が僕の所に来るなんて珍しいね」
「別に用はない。ただ、どっかの馬鹿が無茶してるんじゃないと思って、見回りのついでに寄っただけだ」
ぶっきらぼうな態度で告げたディーンは、大事そうに持っていた紙袋とランタンをテーブルの上に置いた。皮肉な言葉の裏には、カスティエルの身を心配する気遣いが滲んでいる。
仲間内では感情がないと囁かれているディーンだが、それは上辺だけで彼の全てを知ったと思っている愚か者の台詞だ。
ふとした瞬間に見せる優しさは、こんなにも温かい。そしてその事実を知るのは自分一人だけでいいと、カスティエルは噂を聞く度に優越感に浸っていた。
「酷い言われようだなぁ。流石の僕でも、こんな日ぐらいは大人しくしてるよ」
「その言葉を信用しろって?」
「あれ、信じてくれないの?」
乱れた呼気を悟らせないように、カスティエルは軽口と笑顔で応戦する。だがディーンは、付け焼き刃の演技で誤魔化せる相手ではない。
「熱があるのに、酒を飲む馬鹿の言葉なんか信じられるか。さっさと大人しく横になれ」
「やだな、そんな怖い顔しないでよ」
「カスティエル」
「はいはい。了解です」
ベッドの前まで来たディーンの顔は、キャンプ地の全員が知る冷酷なリーダーだった。
そしてリーダーの命令である以上、カスティエルは大人しく従うしかない。銃をいつもの場所に隠し、実は限界寸前だった身体をマットに着地させる。
「…………腕は、痛むか?」
ベッドの隙間に座ったディーンは、包帯で巻かれたカスティエルの左腕を一瞥して、唇から声を落下させた。
「平気だよ。君の迅速な手当のお陰で、左腕を切り落とさずに済んだ。感謝してる」
薬の効果が薄れた左腕は、ジクジクと疼く。
その疼きは骨にまで響く激痛になったが、問題ないと振る舞った。額には脂汗が浮かび、体調も悪化の道を爆走している。
直ぐにバレると知りながら、カスティエルは眸を閉ざして嘘を吐く。
「お前の怪我は、俺が原因だ。感謝されるような事はしてない。だが、お前も二度と俺を庇おうなんてするな」
「それは無理だよ。何回も言ってるだろ?」
彼の為に命を捧げ、彼の為に死ぬ。
それがカスティエルの存在意義である事は、本人に何度も公言してきた。本当に伝えたい言葉は胸の奥に封印し、ディーンがいつでも堕落した元天使を切り捨てられるように。
「今の僕は、君の弾除けになるぐらいしか利用価値がないからね。だから、いつでも前線に出して――」
多くの罪を背負ったディーンの手が頬に触れ、柔らかく湿った感触が唇を包んだ。
発言の途中だった口の中に、唇同様肉厚な舌が捩じ込まれる。差し込まれたのは舌先だけでなく、小さな固形物も一緒だった。
唾液が絡まる度に、舌全体に苦味が広がる。
種類までは解らないが、錠剤で間違いない。
薬を飲ませるのが目的なのは明白だが、舞い込んだ僥倖を見す見す逃がすほど、カスティエルは愚鈍ではなかった。
「んぅ…っ! ふ…、ぅん…」
右手を彼の後頭部に回し、雛鳥が餌をねだるがの如くディーンの唇を貪る。驚いた声が更にカスティエルの熱を煽り、行動を大胆にさせた。喉の奥に溶けた錠剤が到着し、混ざり合った唾液と一緒に食道へと流し込む。役目は終わったと逃げようとする舌を執拗に追い掛け、音を立てて啜り上げる。
錠剤の名残で、唾液はまだほの苦い。甘いのは、カスティエルの鼓膜に溶けるディーンの声だけだ。
「お、前……っ、急に元気になりすぎだ」
「ごめん。まさか君からキスしてくれるなんて思わなくってさ、興奮しちゃったよ」
「こ、のエロ教祖が」
唾液に濡れた唇を袖で拭いながら、ディーンがカスティエルの目を隠してしまう。人工的に作られた闇だが、不思議と心が安らぐのは体温があるからだろうか。
「いいか、一回しか言わん。お前は盾より優秀な防弾チョッキだ。だけどな、防弾チョッキは持っているだけじゃ役には立たない」
「うん? まぁ、それはそうだね」
「防弾チョッキは、常に身に付けてこそ効果を発揮する。言っている意味は解るな?」
「えーっと……リーダー、それは」
自惚れてもいいのかな?
隠しきれない喜びをそのまま伝えると、ディーンが照れ隠しの溜め息を吐いた。彼の言葉を鵜呑みにしてしまえば、常日頃から側にいる事を求められているのだと解釈出来る。
天の邪鬼な彼は、きっと決定的な言葉を与えてはくれないだろう。
それでも、カスティエルには充分だった。
「じゃあ、早く治すよ。君を守れるのは僕だけだから」
「自意識過剰だな」
「でも事実だ。そうだろう?」
目蓋を押さえる手を掴んでそっと離し、霞む世界でディーンを見上げる。
言うべき事は全て告げたと、彼は沈黙を貫く。
だからカスティエルも、これ以上を求めない。
掴んでいた手を緩やかに引っ張り、ディーンの身体を己の方へと引き寄せる。
麗しのヘイゼルグリーンが、見間違いだと思えるほど僅かに、嬉しそうに揺れた気がした。
END
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