SUPERNATURAL


純愛ラプソディー


 
 感情を制御出来ない時がある。
 胸糞悪い事件に出会した時とか、メランコリックに負けた日だとか。とりあえず、理由は色々だ。このスイッチが入ると、俺は我ながら面倒臭い奴になる。情緒不安定モードに突入だ。

 どういう事かって?
 別に難しい話じゃない。簡単に説明するなら、異常なくらい繊細で敏感になってるってだけだ。ちょっと種類の違う幽霊病にでもかかったと思ってくれればいい。

 普段なら気にしない事で苛ついたり、何気ない一言に胸を抉られたり。ハンバーガーを食べられなかった時は落ち込むし、ナンパに失敗した日なんかは最悪だ。
 モーテルに引きこもって、自分の美貌に対する疑心暗鬼が炸裂する。この厄介なモードは、長い時には一週間も継続しちまう。

 そんな状態での狩りは、言うまでもなく危険な行為だ。自殺行為にも等しい。過去に何度か危ない目に遭った事もあるんだから、ハンターとしては失格だ。

 一番手っ取り早い解決方法は、酒を飲んで誤魔化すか、可愛くてセクシーな女の子に癒されるか。どっちの方法も金は使うが、これはサムも黙認してる。仕事でヘマするくらいなら、金を使ってでも元に戻る方がいいと思われてるんだろうな。

 で、だ。俺がこんなに長々と説明するのには理由がある。そう……。入っちまったんだよ、厄介なあのスイッチが。
 でも、今回の俺は一味違う。何てったって、とっておきの秘策がある。その方法には、酒も女も必要ない。
 必要なのは――。

「ディーン、すまない。遅くなった」

 コイツだけだから。
 バサッと音を立てて現れたのは、俺が待ち焦がれていた相手だ。草臥れたトレンチコートが妙に似合う、生真面目そうな顔をしたイケメンのオッサン。

「キャス!!」

 キノコ栽培が出来そうなくらいジメジメした空気を撒き散らしていた俺は、本能に導かれるままキャスに飛び付いた。
 加減なしの強烈なタックルを喰らわしちまったが、そこは流石天使。渾身の突撃も何のその。微動だにしなかった。

「来るのが遅い! 一時間も前に電話したのに、何でこんなに遅いんだ! いつまで待たせる気だ!」

 見た目より広いキャスの背中に両腕を回し、逃がさないようにガッシリとホールドする。天の邪鬼な俺の口は暴走し、次々と怒りの言葉を勝手に投げてしまう。

「私なりに急いだのだが、君を待たせてしまった事実に変わりはない。ディーンの心に憂いを落とすなど、許されない事だ」

 直ぐにキャスの腕も俺の腰に回され、求めていた以上の力で抱き締め返してくれた。ちょっと息苦しいくらいだが、不器用なキャスらしくていい。耳元で囁かれた謝罪も、気障な台詞も、すっと俺の心に溶けた。

「急いで一時間もかかったのか? 本当は、俺の呼び出しなんて後回しでいいと思ったんじゃないのか?」

 なのに、何で俺はこうなんだ。
 キャスにだって用事くらいある。それでも俺を優先してくれてるのも解ってる。

 お互いの顔が見れる距離を計り、キャスの蒼い目を見つめながら口を開く。出てくるのは、面倒だと眉を寄せられる言葉だけで。
 案の定、キャスは不思議そうな顔で俺を見上げてくる。

「どうしたんだ、ディーン? そんな事は思っていない。落ち着いて、私の話を聞いてくれないか」

「落ち着いてるさ。だから、こうしてお前と話してるんだ。電話して一時間だぞ? 遅れるなら、連絡の一本くらいしてもいいんじゃないか」

 来てくれた嬉しさと、待たされた怒り。待ってる間に色々考えた。
 会いたいと思ってるのは、俺だけなんじゃないかって。それで勝手に傷付いて、八つ当たりしてる俺は最低だ。一時間なんて、待てない範囲じゃない。キャスは来てくれたのに。

 自分が吐いた言葉は矢となって、胸に深く突き刺さる。ヤバイ、泣きそうだ。

「泣かないでくれ、ディーン。君に泣かれると、とても辛いんだ」

「な、泣いてねぇよ! これぐらいで、泣くわけない、だろ……」

「不安にさせて悪かった。確かに、連絡を怠った私に非がある。次からは、必ず連絡を入れるとしよう」

 持ち上がったキャスの右手が、俺の左頬を優しく包み込んだ。耳に心地よいリズムで響く声は傷薬みたいに、擦り傷だらけの心を治療してくれる。
 謝る必要なんてないのに、キャスは本当に優しい。不器用でバカ真面目な天使。そんなキャスが、好きで堪らない。
 やっぱり、キャスを呼んで正解だった。

「……約束出来るか?」

「ああ、必ず守る。だから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。どうすればいい? どうしたら、君は笑ってくれる?」

 俺はそんなに情けない顔をしてるのか。表情は変わらなくても、キャスが慌ててるのは伝わってくる。情緒不安定だった俺の心は、もう随分と落ち着いていた。

「そうだ、ディーンの好きなパイを買って来よう。それとも、ハンバーガーの方がいいか? ああ、ビールも必要――」

 謝罪と感謝の意味も込めて、キャスの頬に電光石火のキスを送るくらいに。

「何もいらないさ。キャスが今日一日、俺と一緒にいてくれるなら、な」

 してみて解った。唇にキスするより、頬にする方がスゲェ恥ずかしい。この甘酸っぱい空気から逃げたくなった俺は、キャスの要望通りに笑って見せた。

「ちょっと意地悪してみただけだ。そんなマジになるなんて思わなかった。ごめんな、キャス」

 俺が恥ずかしい思いしたのに、何だその反応。驚いてはいるんだろうが、想像したより反応が薄い。もう少し、照れたり慌てるかと思った。
 誤解しないように言っとくが、別にキャスが喜ぶと思ってた訳じゃないからな。勘違いするなよ?

「おい、キャス?」

 呆気に取られていたキャスの肩を叩いて現実に戻すと、途端に落ち着きなく視線を彷徨わせ始めた。お、これだよこれ。俺が求めてたリアクションは。

「……今日の君は、いつもと違う。だが、積極的な接触は大変好ましい。私を求めてくれたのも、とても嬉しい」

 今度は俺が呆気に取られる番だった。何故かって?
 笑ったんだよ、あのキャスが。今までみたいな小さな変化じゃなく、ハッキリと。
 澄んだ蒼の目を緩く細めて、頬と口元を持ち上げた、甘くて優しい微笑み。

「ディーン?」

 俺はティーンの女の子じゃないのに、キャスの笑顔にヤッバイくらい動揺した。心臓が見えない何かにギュッと搾られて、その衝撃に一瞬息が止まる。

 何だこれ、スゲェ苦しい。身体中の血が、ボコボコと沸騰してるみたいだ。このままだと、血管が溶けちまう。

「キャス、あの、な……」

 自分でも、何を求めてるのか解らない。ただ、俺の視線はキャスの口に集中していた。ゴクリと、唾を飲む音が響く。鳴ったのは俺の喉か、それともキャスか。
 首の後ろに添えられた手が、自然と閉じた目蓋が、俺の求めていた物が何なのかを教えてくれる。

「…っん…」

 息を吸うタイミングで重なった唇に、俺はキャスの背中に両腕を回す。キスなんて星の数ほど経験してきた。そんな俺でも、キャスとのキスだけは毎回緊張する。

「ふ…はぁ……っ」

 初な天使らしく、繰り返されるのはビギナー向けのバードキスだけ。百戦錬磨の俺には物足りないって言いたい所だが、実際には膝が笑うくらいに気持ちいい。支えがなかったら、地面に座り込んでるくらいだ。
 相手がキャスってだけで、こんなにも感じ方が違うのか。ってか、反則だろ。童貞のくせに、俺よりテクニシャンなんて。

「…ぅん、キャ、ス…っ」

 あまりの気持ち良さにトリップしかけたが、これ以上コイツのペースに付き合うのは流石にマズイ。キャスの背中を叩いてストップを促すと、唇を一舐めした後に大人しく離れてくれた。唇からは、な。

「ああ……この匂いだ、間違いない。何度嗅いでも芳しいな」

「匂、い? ちょっ、くすぐってぇ。待てって、コラ。や、止めろ。匂いを嗅ぐな」

「ディーン、君は自分がどんな匂いを振り撒いているか知っているか?」

 俺の言葉は完全に無視か、この野郎。
 キャスは俺の首筋に顔を埋め、犬みたいに匂いを嗅ぎ始めた。鼻先が首筋に当たって、冗談抜きで擽ったい。それに、髭がチクチク刺さって痛ぇし。
 でもまぁ……ちょっとくらいなら我慢してやるか。

「私を惹き寄せて惑わす、魔性とも言うべき香りだ。酷く興奮する」

「興奮するって、おわぁっ!?」

 不埒な言葉に警戒するより先に、キャスの舌が俺の頸動脈を掠めた。咄嗟に肩を押して引き離そうとしたが、逆に強く抱き締め返される。
 こ、この馬鹿力め。極限まで顔を反らしてはみたが、この体勢での退路なんて高が知れてる。
 そして半端なく首が痛い!

「う、餓えてんのかキャス! 俺は食い物じゃないから、舐めても味はしないぞ! 間違ってもバーガーじゃないからな!」

「解っている。そもそも、天使は飲食を必要としない。だが、君はどんな食べ物より美味だろう。人間が言う食欲を誘う香りではないが、非常に興味深い匂いだ」

「喰う気満々じゃねぇか!」

 身の危険を感じた俺は、数分の格闘を繰り広げてキャスから距離を取った。ベッドの上に逃げ込んだはいいが、今の俺の態度ってキャスを拒んでるように見えるんじゃないか?
 いや、違うからな。
 ただコイツの胃がブラックホールで、命の危険を感じて怖いだけだ、人間一人喰おうと思えば、キャスなら喰える。美味しく完食されるのは御免だぜ。

「そうだな……意味合いは違うかもしれないが、何れはディーンの全てを食したいと思っている」

「おま、俺の心読んだな!? ってか、天使のカニバリズムとかシャレになんねぇぞ!」

「今すぐにでもディーンの全てが欲しい。そう言ったら、君はどうする? その美しい全てを、私に捧げてくれるか?」

「す、全てって……」

 抑揚のない平淡な声でも、宿った情熱は真っ直ぐに俺の胸に突き刺さった。随分とオブラートに包んだ言い方だが、キャスが何を望んでいるのか痛いくらいに解る。解らなかったら男じゃないだろ。

 でも俺には、キャスの望みを叶えてやるだけの覚悟が出来てない。だって、男に抱かれる覚悟だぞ。キャスだったらいいとは思い始めてるが、それでもまだ時間は必要だ。

「い、今はまだダメだ。まだ早い」

 出来るだけキャスを傷付けないように、俺なりに言葉を選んで発言する。空気の読めない奴だけど、伝わると信じて。伝わらなかったら泣くぞ。

「なら、何時まで待てばいい?」

 絶妙な距離に座ったキャスからは、どこか懇願するような雰囲気が漂ってくる。期待と不安の混ざった眼差しを向けられると、俺が酷い事をしてるみたいで良心が痛む。

「ディーンが嫌がるなら強制はしない。ただ、一つだけ教えてくれ。私を受け入れてくれる気は、あるのだろうか?」

「それは、だな…その…」

 教えて欲しいって言われても、答えが欲しいのは俺の方だ。声高に「NO」と拒否する事も出来ず、だからって「YES」と答える事も出来ない。

「私はディーンが好きだ。自意識過剰だと怒るかもしれないが、君も同じように思ってくれていると考えている」

 咄嗟に目を逸らしたのは、中途半端な自分に嫌気が差したからだ。キャスを拒んでる訳じゃないと、鈍いコイツでも解るように手を握って証明する。
 けど、これだけじゃダメだ。逸らしていた視線を無理に戻せば、予想通り落ち込んだ風なキャスと目が合う。

「私の考えは、間違っているか?」

「間違ってないさ。キャスのことは、俺もかなり好きだ。それでも、物事には順序ってもんがある」

 握る力を強めて訴えると、残っていたキャスの手が俺の顎を掬った。至近距離で見るコイツの目は、嘘を吐いたら罰が当たりそうなぐらいに澄んでいる。

 目は口ほどに物を言うって言葉があるが、キャスの場合はレベルが違う。自分は超が付く鈍感なくせに、向ける好意は純粋で熱烈とか卑怯だろ。

「俺の気持ちが整理出来るまで……待ってくれるか?」

 弱気な台詞は、口に出せば恥ずかしい。どんだけ受け身になってんだ、俺は。チラリとキャスの表情を窺えば、難しそうな顔をして少しの沈黙。考えが纏まったのか、一つ頷いたキャスはゆっくりと唇を動かした。

「今すぐにでもディーンが欲しいのは事実だが、先に望みがあるなら待とう。君を想う私の気持ちは、永遠に変わらない」

 ドアを蹴破って逃げ出したいくらい恥ずかしかったが、キャスの真摯な想いに脳が痺れる。包み隠さない好意ってのは、それまでの価値観が引っくり返されるくらい強烈だ。大袈裟だけど、世界を変えるって言っても過言じゃない。

「……今は、これで我慢してくれ」

 キャスの顔を両手で挟んで固定して、さっきのキスで潤った唇を奪ってやった。キスだけでこんなに幸せを感じるのは、きっとコイツが最初で最後になるんだろうな。
 覚悟の土台を固める意味も込めて、俺から大人のキスを教えてやるのもいいかもしれない。キャスの唇をペロリと舐め、口を開くように舌先でノックする。

 余談だが、キャスとのディープキスは腰が砕けるくらい気持ち良かった。



***
 
 欲と言う物は底がない。
 具体的な例を上げればキリがないが、存在欲、睡眠欲、食欲、性欲、怠惰欲、感楽欲、承認欲の辺りが有名だろうか。
 永遠に枯渇する事のない欲望は、人間の中で狡猾に息づいている。良くも悪くも、膨大なエネルギーに満ちているのだ。

 しかしそれは、人間を前提にしている。
 だから、考えた事もなかった。まさか、天使であるこの私が。
『欲』に悩まされる事になるなどと。



 * * *

 珈琲という飲み物はこんなに苦味が強く、味の特徴がない物だっただろうか。気紛れで一口飲んでみたが、舌と喉に残ったのは不愉快な苦味のみだった。
 ディーンが淹れてくれた時は、あんなにも美味しく感じたというのに。興味が失せた私はカップを戻し、同じように珈琲を啜るサムへと視線を移した。

 用があると呼び出されて来てみれば、私の愛しいディーンは不在。飲みに行ってるという説明を受けたが、それは偶然なのか意図しての行動か。サムからの呼び出しという時点で、違和感は覚えていた。

 恐らく、ディーン絡みの話だろう。私とサムが共通出来る話題は、ディーンか狩りについての知識に限られているのだから。

「キャスに回りくどい方法は通用しないだろうから、単刀直入に聞くよ。ディーンの為でもあるから、答えてくれるよね?」

「私に答えられる事ならば、力になろう」

 私の視線に込められた意味を汲み取ったのか、漸くサムが話す構えを見せる。実に長かった。私がこの部屋に来てから、もう10分の貴重な時間が経過している。
 しかし、『ディーンの為』なら、待った時間は決して無駄ではない。ディーンに辿り着く事に、無駄など無いのだから。

「理由は解らないけど、ディーンと喧嘩したんだろ? もしそうなら、キャスから先に謝ってあげてくれないかな」

 真面目な顔で、サムは一体何を言っているんだ。私は首を横に振る動作を交えつつ、問いかけに否定する。するとサムは、少し身を乗り出して更に捲し立てた。

「キャスにも言い分があるのは解ってる。でも、ディーンは素直じゃないんだ。知ってるだろ? きっと、君が折れるのを待ってると思うんだ」

 どうやら私の態度は、誤解を更に深めてしまったらしい。そしてサムが誤解してしまった原因については、心当たりがある。

「幾つか訂正させてくれ。まず、私とディーンは喧嘩などしていない。サムの勘違いだ。謝罪は必要ない」

「えっ、そうなの? ここ最近ディーンの呼び出しに応じてないから、喧嘩したとばっかり思ってたよ」

 そう、その通りだ。私はこの数日、意図的にディーンを避けている。しかし彼との約束を守る為に、避けざるを得ないと言うのが正しい説明になるだろう。
 私にとっても、苦渋の決断でしかない。

「何だ、違うんだ。なら良かったって……どうしたの、キャス? 物凄い顰めっ面になってるけど」

「サム、私の話を聞いて欲しい。少し長くなると思うが、夜が明ける頃には伝え終われるよう善処する」

「いやいや、長すぎるよ。あーっと、もしかしなくてもディーン関係だよね?」

 他に何の話題があるというのか。
 一つ頷いて肯定した私は、サムの返事を待たずに口火を切った。ディーンが何時頃に帰って来るかは不明だが、時間に余裕はある。
 彼に会えない間に溜め込んだ苦しさの欠片は、この数時間で伝えられるだろう。

 ディーンの美しい顔を見ると、どうしても我慢が出来なくなるのだ。笑った顔や怒った顔も魅力的だが、少し寂しそうな横顔も庇護欲を掻き立てられる。
 コロコロと変わる豊かな表情も、浮き沈みの激しい繊細な性格も、実は寂しがり屋で夜を怖がる一面も、ディーンの全てが愛しい。
 愛しくて、辛い。度が過ぎる愛しさは、苦しみに変わるのだと初めて知った。

 全てが欲しいという欲は、ディーンと約束をした日から急速に成長している。顔を見ればキスをしたい欲求に駆られ、声を聞けば抱き締めずにはいられない。
 ディーンとの約束を守る為にも、私は彼から距離を置くしかなかった。

「自ら避ける道を選んだというのに、ディーンに会えない事が辛いんだ。私を見て微笑む顔も、私の名前を呼ぶ声も、彼の体温も、何もかもが不足している!」

 感情の矛盾が、こんなにも苦痛を感じる物だったとは。行き場のない苦しみを右手に握り込み、軽くテーブルを叩く。

「うわああっ!?」

 こんな事をしても意味はないが、多少とはいえ気が楽になった。叩いた衝撃で乗っていたカップは床に落ち、木目の床に黒い染みを広げる。老朽化が進んでいたテーブルは、些細な衝撃に耐えきれずに壊れてしまった。
 なんと貧弱な。こんなに脆い物を使わせるなど、このモーテルは設備に問題がある。

「ちょっとキャス、何してくれてんの!! 真っ二つじゃないか!! 君は力が強いんだから、加減ぐらいしてよ!!」

「私の所為ではない。この部屋を君達に宛がった、モーテル側の人間に責任がある」

「間違いなく君の所為だよ!! どうするのさ、このテーブル。僕に日用大工でもしろっていうの?」

 あまりにもサムが耳障りに騒ぐので、仕方なくテーブルに手を翳して元に戻す。これで円滑に話が続けられる。サムはまだブツブツ言っていたが、時間は有効に使うべきだ。

「これで問題ないか?」

「……天使パワーって便利だね、全く。とりあえず、キャスの言い分は解ったよ。でもさ、何時まで兄貴を避けるつもり?」

 サムは上着に飛んだ珈琲を拭きながら、乱暴な口振りで私に問う。
 何時まで、だと。確かに、私は何時までディーンを避けるつもりなんだ。何時まで、避けられるつもりでいる。

「ディーンがさ、キャスが会ってくれないって寂しがってたよ。キャスに嫌われたんじゃないかって、凄く不安そうだった」

「嫌いになどなる訳がない! 私は常にディーンの事を思っている。本当なら、ずっと側に居たいんだ!」

「ちょっ、キャス落ち着いて!!」

 もう一度テーブルを叩いて抗議する勢いだった私に、サムは慌てて椅子から立ち上がった。突き出された両手に発言権を奪われ、仕方なく続きを待つ。

「キャスの気持ちを疑うつもりはないよ。ただ、ディーンの立場で考えて欲しいんだ。理由も解らずに恋人から避けられるって、不安だし傷つくよ」

 サムの諭すような言葉に、私は身体から恩恵が抜ける錯覚に陥った。

 ディーンが傷付いている?
 私と会えない事で?
 ディーンとの約束を守る事に固執し、その結果私が彼を傷付けていた……?

「話さなくても通じる事は確かにあるけど、全部が通じるなんてあり得ない。ディーンもさ、本当の恋愛には不器用だから」

 立ち上がったサムは私の肩を叩き、部屋に設備されている冷蔵庫からビールの瓶を取り出した。
 目の前にコップが置かれるが、とても酒を飲む気にはなれない。

 だが、ディーンは?
 身を切るような辛さを誤魔化す為に、酒に逃げているのだとしたら。私は今すぐ彼を迎えに行くべきたではないだろうか。

「……私は間違っていたのか?」

「それは僕じゃ判断出来ないかな。アドバイスするなら、キャスと兄貴に必要なのは話し合いだと思う」

 数時間前に震えていた携帯電話は、サムからの着信を最後に沈黙している。ディーンは今どこで、どんな気持ちで過ごしているのだろう。何故、ディーンが傷付いているという事実に気付けなかった。
 目先の利に捕らわれ、最初に交わした約束を蔑ろにしてしまうなど。ディーンに悲しい顔をさせないと、約束したのに。

「ディーンを迎えに行ってくる。今までの態度を謝らなければならない。ディーンの行きそうな場所に心当たりはあるか?」

 椅子を倒して立ち上がった私は、携帯電話の着信履歴から彼の名前を探す。
 
 ディーンが電話に出てくれたとして、この状況で居場所を教えてくれる可能性は極めて低い。

「知ってるよ。キャスもすぐ解ると思う」

「それは、何処ーー」

 ディーンに電話をかけると同時に、軽やかな音楽が響いた。
 サムの視線と、音の発信源が重なる。
 私の携帯電話はまだ呼び出しを続け、陽気な音楽が想い人の隠れ場所へと導いてくれた。バスルームの扉の向こうでは、慌てたような気配。本当に私は、救いようがない愚か者だ。

「それじゃあ、僕は適当に時間を潰してくるよ。後は二人に任せるからね。キャス、兄貴の事は任せたよ」

 扉の前で硬直した私の背中を、サムが不愉快に思わない力で押す。私は、サムの事も誤解していたようだ。彼は私にとっても大切な友人であり、頼もしき味方でもある。
 条件反射のように礼を言う私に、サムは励ましの言葉を残して去って行った。
 残ったのは、私と。

「ディーン、出てきてくれないか?」

 扉の向こうにいる彼だけだ。
 籠城された所で扉など簡単に壊せるが、その瞬間にディーンに怒られてしまう。手負いの獣のように警戒されるのが目に見えている。実力行使は逆効果に他ならない。

「…………嫌だ。隠れて聞いてたのに、どんな面して出てこいってんだよ」

「君はどんな表情でも美しいのだから、何も問題ない。頼む、顔を見せてくれ。ディーンの顔を見て、話がしたいんだ」

 声をかける前にノックを2回。
 それを5回繰り返すと、蝶番が外れる勢いで扉が開いた。

「馬鹿キャスっ!! 話が長い!! それに内容が恥ずかしいんだよっ!! 隠れて聞いてた俺の身にもなれ!!」

 久しぶりに見たディーンは、美しすぎて切ない気持ちになる。
 吊り上がった眉は怒りを表しているが、噛み締められた唇は今にも泣きそうで。責めるような厳しい言葉と尖った声でも、柔らかな光を放つ瞳は喜んでいるようにさえ映った。

「すまなかった、ディーン。私は君に罵られるだけの価値しかない。君の苦しみを察知出来なかった。これでは、恋人失格だ」

 暴れられるのを覚悟で、ディーンを腕の中へとしまい込む。華奢とは無縁の、恵まれた逞しい身体。その甲冑に守られているのは、傷だらけの儚い中身だ。
 傷を広げてしまわぬように、瘡蓋を無理に剥がしたりしないように。ディーンの全てを守るつもりで腕に力を込める。

「……言いたい事は山ほどあるが、全部後回しだ。俺が許可出すまで、こうしてろ。絶対に離すなよ」

 許すような優しい声は、暴言を吐かれるより深く刺さった。私の肩口に顔を埋めたディーンの姿は、悪夢に怯える幼子のように頼りない。鈍いとからかわれる事の多い私でも、彼がどんなに寂しい思いをしていたのか解る。

「離さない、絶対に」

 私の取った行動が正しい謝罪方法だったのかは、背中に回ったディーンの腕が物語っていた。頬には、柔らかな唇の感触。小さな吐息の後に続いたのは、仄かな寂しさを帯びた声だった。

 会いたいのに会えない苦しみは、出来ればもう二度と経験したくない。



 * * *

 空白の時間は、完全には埋められない。会えなかった寂しさを埋めるには、長い時間と幸せな思い出が必要になる。サムの用意していたビールで喉を潤しつつ、私とディーンはお互いの気持ちを確かめ合っていた。

 最初は説教のような言葉を投げつけられたが、喋っている内に頭が冷えたのだろう。最後には「寂しかった」という言葉を残したディーンは、照れ臭そうに笑ってくれた。

 3時間の経過と、ビール瓶4本の消費。
 私は今、幸せの絶頂にいる。
 ビールを3本空にするまではテーブルを挟んで会話をしていたが、言葉では物足りなくなったディーンは態度でも示し始めた。

「お前みたいに抜けてる奴は、一人で考えても空回りするって相場が決まってるんだ。そういう時は、俺を頼れ。恋人なんだから、一緒に悩むぐらいしてもいいだろ?」

「そうだな、君の言う通りだ。こんなに美しくて可愛い恋人を不安にさせるなど、私はどうかしていた」

「本当だぞ。俺に寂しい思いをさせたんだから、もっと甘やかせ。ほら、もう一回キスしろよ」

 酩酊状態が働きかけたのか、ディーンは普段の3割増しで素直になっている。私の足を跨いで座り、蠱惑的な表情で甘えてくれるのだ。顔の至る所に触れていた唇を、拗ねたように尖らせる仕草が何とも可愛らしい。

「魅力的な提案だ。私も、もっとディーンに甘えて欲しい。私を必要としてくれ」

 ディーンの項を引き寄せ、求められるままに唇を重ねる。柔らかい感触を歯で楽しみ、熱い口内をじっくりと味わう。
 出迎えてくれた舌を絡め取って挨拶すれば、ディーンは縋りついて歓迎してくれた。

「ぅんんっ……っは、ふ……」

 我慢の限界を感じて唇を離すと、潤んだように蕩けた翡翠の瞳が、物欲しそうに私を見下ろす。濡れた唇が非常に艶かしい。思わず情事を連想してしまいそうになるが、今の私の理性はダイヤモンドより硬い。

「短いから、やり直し! 今度はもっと長くしろ。俺が満足出来るまで、今日は絶対に帰さないからな」

「喜んで付き合おう。私も、まだ物足りない。満足には程遠い。この程度ではディーン不足が解消されない」

 自分でも強気な態度だと思う。
 呆気に取られた大きな瞳が、珍しい物を見たようにキラキラ輝いた。湖面に反射する太陽のように、眩しいけれども目を逸らせない。

「生意気言うようになったな。だったら、どっちが先に満足させられるか勝負だ。俺は手強いぞ?」

「受けて立とう。しかし今夜だけという短い時間では、きっと私は満足出来ないと思うが。覚悟はいいか?」

「だ〜れに言ってんだよ。俺が味わった寂しさの報いを受けやがれ」

 私の頭を乱暴に撫でた手付きとは違い、ディーンは笑顔だった。弟であるサムや一夜限りの女性には見せない、私だけが知る甘い微笑み。それは、私だけの特権だ。

「眠たいのか、ディーン?」

「ん〜……大、丈夫だ。起きてる」

 蕩けた瞳には別の色が浮かび、凭れかかってきた身体は熱くて重い。否定するディーンの声はまったりとしていて、眠気に襲われているのは明白だった。
 必死で眠気に打ち勝とうとしているが、直ぐに眠ってしまうだろう。

「眠ればいい。君が起きるまで、私は此処にいる。一人にはしない」

「……ぜったい、だぞ?」

「ああ。だから、安心して眠っていい」

 私の言葉に安心したのか、ディーンの意識は完全に眠りへと落ちた。人間は、眠ると夢を見るという。ディーンは私の夢を見てくれるだろうか。どんな夢を見ているのか興味はあるが、邪魔したくはない。

「おやすみ、ディーン」

 広々とした額に口付けし、ディーンをベッドへと運んで寝かせる。目覚めた君は、今夜の事を忘れているかもしれない。
 覚えていても、恥ずかしがって答えてくれないだろう。直接的な言葉はなかったが、ディーンは私を愛してくれている。
 それが解っただけで私は幸せだ。
 ディーンの全てを手に入れるには、長く険しい道を歩く必要がある。一人では大変かもしれないが、二人でなら新しい発見がある楽しい旅になるだろう。



 END
 


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