SUPERNATURAL


その微笑みに魅せられて


 
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 何度目かのダイエットに取り組み、厳しい食事制限を課して今日で一週間。大好きなお肉や甘い物を完全に絶ち、食事はスムージーや野菜中心のメニューで我慢した。

 お腹は盛大に不服を唱えてはいるが、体重は僅かに減少を続けている。大変喜ばしい兆候だ。しかし、油断してはいけない。
 ダイエットの難しさと辛さは、嫌というほどに身に染みている。本当の勝負はここからなのだと、緩んだ気を引き締め直した。

 それなのに、これは酷い。
 神様の嫌がらせか、悪魔の誘惑か。
 どちらにしても、絶望的な状況である。

 憐れな子羊になってしまったディーン・スミスは、誘惑に負けそうになっている右手を強く握った。翡翠の瞳は半泣きになっているが、視線は釘付けになったまま。

 ーーその正体とは。
 グルメ雑誌で何度も紹介され、テレビでも特番を組まれる、超有名店のケーキだった。しかも、1日30個限定の新作。
 開店と同時に売り切れ必至という幻のケーキが、手の届く所にある。

(ぜ、絶対ダメだぞ俺……!! あれを食べたら、今までの努力が水の泡になる)

 氾濫を起こしかけた唾を慌てて飲み込んだスミスは、恨みがましくケーキを見下ろした。
 溢れ落ちそうな程に散りばめられた、色とりどりのフルーツ。純白の生クリームは、目を逸らしたいくらいに艶やかで、柔らかそうなスポンジ生地の存在を引き立てている。

(で、でもこんなチャンスは滅多にないだろうし。ちょっとだけなら……。い、いやダメだダメだ!! 負けるな俺!!)

 これは視界の暴力だ。
 食べてはいけないと思えば思う程に、胃と食欲に強烈な攻撃を繰り出してくる。
 見るから我慢出来なくなってしまうのだと悟ったスミスは、目を瞑って誘惑の源を絶つ。

 これで安心だなどと、息を吐く暇など与えられる訳がない。網膜に貼り付いたケーキの映像が、スミスの身体をどっぷりと誘惑の沼へと沈めていく。

「っ……くっ、ははははっ」

 ロープの代わりに助け船として渡されたのは、軽やかな笑い声だった。その声は無視する事が困難な、不思議な魅力を秘めている。パッと目蓋を開けた先で見たのは、俯き加減で肩を震わせて笑う男性の姿が。

(し、しまった……!?)

 自分の世界に浸りすぎていたスミスは、此処が会社の休憩室である事を忘れていた。とりあえず何か言わないといけないと思い口を動かすが、全く声にならない。

 きっと食い意地の張った、意地汚い人間だと思われただろう。仕事に影響が出る悪いイメージではないが、スミスにとっては入社してから一番の大失態である。

「笑ったりしてすまない。ケーキ一つでこんなに悩む人を見るのは初めてで、つい観察してしまった。その結果、君がとても純粋な人間だと解ったよ」

 青褪めたまま硬直したスミスに気付いた男性は、慌てる様子もなく静かな謝罪をしてきた。

 柔らかく細められたブルーの瞳は涼しげで、悪意の欠片も見受けられない。スラスラと並べられた言葉も、急いで取り繕った軽い響きではなかった。直感が、彼は嘘を吐いていないと告げている。

 人好きのする笑顔に緊張が解され、スミスはゆっくりと身体の力を抜いた。

「怒ったかい?」

「い、いえ。気にしないで下さい」

 優しい表情に見合ったフレンドリーな声で問いかけられてしまえば、どう足掻いても首を横に振るしかない。一番悪いのは、彼の存在を透明化した自分なのだから。

 それに、これは千載一遇のチャンスだ。親しくなって損はないと、スミスは目ではなく脳をフル回転させる。相手の興味を惹き、且つ親交を深められそうな話題。

「このケーキ、よく手に入りましたね。凄く人気で、入手困難だって噂なんですよ。僕もまだ食べた事がなくて」

「へぇ、詳しいね。お得意先から差し入れとして貰ったんだけど、希少価値が高いケーキとは知らなかった」

「そうだったんですか。でも、何だか嬉しいです。ノヴァックさんが、僕と同じで甘い物が好きなんて」

 会話の切り口として選んだ話題は、及第点以上の効果を出した。好ましい話題だけに自然と砕けた口調になるスミスだが、目上の人間への礼儀は弁えている。
 問題はない。
 いや、なかった筈だ。

「あ、あの……どうかされましたか?」

 男性の紳士的な微笑みが徐々に薄まり、終いには顎に手を当てて耽ってしまうまで、この間僅か15秒程度である。急な態度の変化に、思わずスミスも呆気に取られてしまった。

(俺、何か気に障る事でも言ったか……?)

 垂れ目ながらも鋭利さを孕んだ瞳が、瞬きもせずにスミスに止まっている。
 居心地の悪い沈黙とまではいかないが、再び走った緊張に心臓がざわつく。

(怒ってる、とかじゃなさそうだ)

 どうしたのだろうとスミスが小首を傾げると、男性も同じ行動に出た。
 違うのは、首を傾げた方向だけ。心底不思議そうな顔をされてしまえば、此方も同じ顔をするしかない。

「……ノヴァックさん?」

 ぽつりと降り出した雨粒のように、スミスは小さくか細い声で彼の名前を呼んだ。途端に、男性の顔に感情が戻る。

「やっぱり、気の所為じゃなかった。僕の名前を知ってるのか?」

「は? え、ええ、知ってます。ジミー・ノヴァックさん、ですよね」

「これは驚きだな。まさか君が、僕を知ってるなんて」

 感心したように笑う男性だが、スミスには驚かれた理由が解らなかった。
 何故なら彼は『サンドオーバー社に、ジミー・ノヴァック有り』と言わしめる実力保持者だ。スミスとは部署が違うのだが、その噂と功績は会社全体に轟いている。

 この会社に勤める人間で、彼の名前を知らぬ者の方が少ないだろう。
 つまり彼は、超が付く有名人だ。

「ノヴァックさんは有名ですからね。専らの噂ですよ。どんなに難しい交渉も、ノヴァックに任せれば間違いないって」

「随分と信頼されてるみたいだね、僕は。大した事は出来ないけど、君も何か困った事があれば相談においで。力になるよ」

 当然ながら、ノヴァックは人望も厚い。
 特に女性社員からの評価は絶大だ。
 人当たりも好くユーモアに溢れ、仕事も出来て高いポストに就いている。
 更に容姿も整っているとなれば、文句の付け所がない。女性社員が騒ぐのも当たり前だ。

「は、はい! ありがとうございます」

 誰に対してもフレンドリーに接する態度も、皆から慕われる理由の一つだろう。
 社交辞令だと解っていても、距離が縮まったようでとても嬉しい。それも密かに憧れる人物だったら尚更だ。この調子で、もう少し親しくなれるだろうか。

「すいません、名乗るのが遅れました。僕はマーケティング部所属のーー」

「知ってるよ。ディーン・スミス君だね」

 一目見て解ったと続いた言葉は、右から左へと綺麗に流れていった。滑らかに紡がれた言葉を、スミスは頭と心で反復する。

 
 この会社に、ディーン・スミスという名前の人間は他にはいない。つまり、呼ばれたのは紛れもなく自分だ。

「えっ!? あ、なん……え?」

 杭へと変化した驚愕が、胸を打つ。
 何故、どうして。
 沢山の言葉が身体の中で急速に膨れ上がり、小さな出口を求めて喧嘩を始める。何から聞けばいいのかスミスが迷っていると、それはそのまま表情に出ていたらしい。

「いいね、スミス君。斬新なリアクションといい、君は興味深い。僕が君の名前を知ってるのが、そんなに意外だった?」

 心臓が止まる程の衝撃だった。
 との叫びは何とか心の中だけで抑え、スミスは首を縦に2回動かす。
 興奮で痺れる指先を内側に折り込み、緊張で縮こまる声帯には喝を入れ、震える舌で声を滑らせる。

「は、はい。驚きました。だって僕が入社してからまだ半年も過ぎてないですし、ノヴァックさんとは部署も違いますから」

「スミス君も充分有名だからね。随分と話題になってるよ? モデルみたいに綺麗な顔立ちの、遣り手の新人がいるって」

 開いた口が塞がらないとは、正にこの事だろう。本人の知らぬ所で闊歩していた噂に、スミスは猛烈に頭を抱えたくなった。
 どうやらこの会社には、とんでもないお喋りが潜んでいるようだ。

 発信源は一体誰なのか。
 犯人を突き止めたいが、その為に割く時間と労力が惜しい。

 噂はインフルエンザと同じだ。
 とてつもない拡散力を誇る。しかも噂は特効薬がないだけに、厄介度は此方が上だ。

「……実際に会ってみてどうですか? 噂と違ってがっかりしました?」

「いや、いい意味で期待を裏切られたよ。こんなにユニークな人物だなんて思ってなかったから、凄く興味が湧いた」

「本当ですか?」

「うん。スミス君さえ良ければ、これからも友好関係を築いていきたいな。仕事とか関係なく、友人として」

「こ、此方こそお願いします!」

 笑顔で差し出されたノヴァックの右手に、スミスは慌てて両手で応える。そのまま軽く揺さぶられて握手は終了したが、興奮は冷める所か上昇する一方だ。

 こんな幸運が続くなんて。
 今日一日で、一生分の運を使い果たしてしまった気さえする。もしかしたら明日から、不幸続きになるのでは。

「出会ったばかりで申し訳ないんだけど、良かったら連絡先を交換しないか?」

 漠然として過った不安は、ケーキよりも甘いノヴァックの微笑みで打ち消された。
 本当に運を使い果たしたとしても、これだけの幸せに触れられたのだから惜しくはない。

「これでよし、っと。うん、何だか一気に距離が近付いた気がするね」

「僕もそう思います。あの、ノヴァックさんからの連絡……待ってます」

 ノヴァックの連絡先が追加されたスマホは、スミスの中で価値が急上昇した。財布に並んで、絶対に無くしてはいけない物ランキングの上位に浮上する。

「そんなに畏まらなくてもいいのに。でも、必ず連絡するよ」

 どこまでも紳士的な対応をするノヴァックに、スミスは緊張で卒倒する直前だった。耳に溶ける声は、春風のように爽やかで。

「とりあえず、ケーキを頂こうか。スミス君は、甘い物は大丈夫なのかな?」

「はい、好きです。疲れてる時に食べると元気が出ますよね」

「そうなんだ。じゃあ食べてみようか」

 これから始まる友情に胸を膨らませ、スミスは笑顔でフォークを握る。ダイエット中だと思い出したのは、半分食べ進めた所でギブアップしたノヴァックのケーキと、自分の分を美味しく完食してからだった。




* * *

 あの出会いから、スミスはノヴァックと良好な友人関係を築いていった。プライベートでも頻繁に会うようになり、今ではお互いが一番気心が知れない仲になっている。

 胸を張って友達だと公言出来る頃には、休日も一緒に過ごす事が増えていた。アウトドア派のノヴァックは、スミスが敬遠していた場所にも連れ出してくれる。

 今日は生憎の雨だが、手土産を片手にノヴァックがスミスの家に来ていた。天候が悪い時には外出は控え、どちらかの家でDVDを観たりしてゆっくりと過ごす。

「久しぶりに、このケーキが食べたくなってさ。スミスの分も買ってにたんだ。付き合ってくれるだろう?」

「食べたくなったって、ノヴァックは甘い物が苦手じゃないか。いつも半分食べただけで、胸焼けするって残すし。それに、俺……」

 お皿に乗せられたのは、ノヴァックとの縁を取り持ってくれたあのケーキだった。
 相変わらず美味しそうで、見ていると涎が垂れそうになる。後で調べて知ったが、悲鳴を上げる程の高カロリーだった。

 ダイエット継続中のスミスには、これ以上ない恐怖の物体である。甘い匂いを嗅ぐだけで、太ってしまいそうだ。

 今日こそは、ノヴァックに流される訳にはいかない。自分の意思を貫いてみせる。
 そう誓ったのだが。

「君の言い分は解るよ。でも、これは僕にとって思い出のケーキだから。スミスと僕を出会わせてくれた、恩人みたいな物だ」

 恭しくスミスの手を握ったノヴァックは、その甲に軽いキスを落とした。胸がキュンとする、陥落確実な微笑み付きで。

 しかもノヴァックは確信犯だ。
 狡い戦法だと解っているのに、毎回どうしても抗えずに流される。

「そ、その手には乗らないぞ。今日は本当にダメだからな。絶対に食べないーー」

「それに、好きなんだよね。スミスが甘い物を食べてる時の顔。凄く幸せそうで、見てる僕まで嬉しくなるんだ」

「あ、う…………その言い方は狡い」

 そんな風に口説かれては、断れる訳がない。態度で負けを認めたスミスに、ノヴァックは満足そうに笑った。

「ほら、口を開けて?」

 クリームの付いた苺を口元に運ばれ、欲望に正直な口の中に迎え入れる。懐かしい甘さに、自然と頬が綻ぶ。

「やっぱり、とてもキュートだ。君に食べられるケーキは幸せだね。あ、スミスそのままで。動いたら駄目だよ」

「ん? ノヴァック?」

 テーブルから身を乗り出したノヴァックに顎を固定され、スミスはフォークを握ったままの格好で硬直する。避ける時間は充分にあったが、拒否するだけの理由がなかった。

 しっとりと重なった唇。
 ケーキよりも甘いキスは、スミスに至高の幸せを届けてくれる。何時しか二人は、友人の枠を突き破って恋人になっていた。



 END




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