SUPERNATURAL


効果的な確かめ方m/je


 
 繊細にして大胆。
 冷静沈着でありながら勇猛果敢。
 愚直にして狡猾。
 常識人でありながら破天荒。
 世界を自由気ままに旅する風を実体化したかのように、飄々としていて掴み所がない。
 それが、ミーシャ・コリンズという男だった。

「間接キスだね、ジェンセン」

 長い指で己の唇をなぞり、彼は悪戯が成功したと喜色満面の笑顔を見せる。その顔を視界の端で確認したジェンセンは、湯気が出そうなまでに熱を帯びた顔を両手で隠した。





 何だか妙な視線を感じる。
 そう首を捻ったのが、丁度一週間前。
 蓄積された疲れが原因で、きっと自意識過剰になっているのだろう。シビアなスケジュールとの鬼ごっこで忙しかったジェンセンは、些細な事として気に留めずにいた。
 それに俳優というのは、見られるのが仕事でもある。視線を感じるのも、当然の事だ。

 そう解釈したジェンセンだったが、その認識が間違いだったと直ぐに悟る。撮影時だけなら兎も角として、視線は休憩中にも付き纏うようになっていた。こんなに露骨な存在を、気の所為で片付ける訳にはいかない。
 確かな事は、ストーカー質の悪意ある視線ではないという事だけ。さらにジェンセンを困惑の渦に突き落としたのは、視線の送り主が判明してからだった。

(……また見られてる)

 紙コップの縁を軽く噛んで首を捻るジェンセンの顔は、台本で完全に隠れている。それはつまり、相手も自分もお互いの顔を認識出来ないという事だった。壁の役割を果たす台本の力添えもあり、当然視線も遮断される。
 筈なのに、現在進行形で肌に強い視線を感じるのは何故だろう。

 底に数滴分の珈琲しか残っていない紙カップをテーブルに戻し、ジェンセンは意を決して台本を畳んだ。壁の無くなった視界に待ち構えていたのは、淀みのない蒼玉の双眸。
 頬杖をついて此方を凝視しているのは、人好きのする笑顔を浮かべたミーシャだった。

「……なぁ、ミーシャ」

「何だい、ジェンセン?」

「最近俺の事ずっと見てる、よな?」

「え?」

 ジェンセンの問いに、ミーシャは小首を傾げてキョトンとした表情になる。自意識過剰だと一蹴されれば終了する内容だけに、もう少し前置きをしてから聞くべきだったと気付く。

「あ、いや、俺の勘違いだよな。ごめん」

 それに今の言い方だと、ミーシャをストーカー呼ばわりしてしまったようだ。これで気を悪くした彼が、もし自分から距離を取るようになったら。気心の知れた数少ない友人を、軽率な発言で失いたくない。
 持っていた台本をぞんざいに置いたジェンセンは、テーブルを挟んだミーシャの方へ前屈みになって訂正する。

「疲れが溜まって、ちょっとナーバスになってたんだ。ミーシャを疑うなんてどうかしてた」

 逸らされていない蒼い眸に陰りは無いが、それはあくまで表面だけで判断するならだ。もしかしたら、内心では嫌われたかもしれない。
 脳内で広がる最悪な展開に翻弄されたジェンセンは、首を曲げてミーシャの視線から逃げる。

「そんな顔しないで、ジェンセン。君が謝る必要なんて微塵もないんだからさ。だから、顔を上げて?」

 優しく宥めるような声色に、単純な心と頭は簡単に浮上した。例え上辺だけの言葉だったとしても、ミーシャ本人の口から否定的な答えを聞かずに済んだのは有り難い。
 変わらぬ笑顔を向けてくれた事が、今のジェンセンには何よりの救いとなる。

「それに君の言った通りだしね」

「へ?」

「まぁ、その話は後回しにしようか。それよりも、はいジェンセン」

 後回しにされた内容が今すぐ聞きたかったが、差し出された物体に意識と追究する言葉を奪われてしまう。そしてミーシャから放たれる笑顔の圧力に、ジェンセンは無条件で屈してしまった。爽やかな笑顔が逆に怖すぎる。

「これ、俺に?」

「そうだよ。良かったら使って?」

「ああ、うん。…ありがと」

 お礼の最後に疑問符を匂わせながら、困惑した様子で掌に収まった物体に視線を落とす。渡された物を凝視しながら、ジェンセンは徐に自分の唇を触ってみた。率直な意見としては、少し乾燥してはいるが荒れてはいない。
 となれば、これも彼お得意の悪戯だろうか。
 女性向けのリップクリームと睨み合いを続けていると、ミーシャが頬杖をついたままの格好で愉快そうに喉を鳴らした。

「そんなに警戒されるなんて、普段の僕は君にどんな酷い事をしてるんだろうね?」

「え、あ…」

「それは普通のリップだよ。安心して」

 確かにミーシャの言うように、リップが悪戯の種になるとは考えにくい。開封してある物なら中身に細工がしてありそうだが、渡されたのは新品であり未開封のリップだった。

 つまり、また自意識過剰が招いた勘違いという事になる。疑り深い自分に落胆していると、立ち上がったミーシャがジェンセンの隣へと腰を下ろす。

「ミーシャ?」

「ジェンセンはよく唇を舐めてるだろ? だから荒れてるのかなって思ったんだけど…」

 言葉を途切らせたミーシャが、下がりがちだったジェンセンの頭を柔らかく持ち上げた。些細な動揺さえ包み隠さず伝わる距離に、息を飲んで掌のリップを固く握り締める。

 今この部屋にいるのはジェンセンとミーシャの二人だけだが、いつスタッフや他の共演者が来ても不思議ではない。もしあのドアを開けて姿を現したのが、ジャレッドだったら…。
 色々と誤解を招くこの状況を、更に面白おかしく攪拌するのが目に見えている。想像するだけで、ジェンセンは寿命が縮む思いだった。

「あ、の…ミーシャ?」

「全然荒れてないね。艶々してて綺麗だ」

 解放する兆しを見せないミーシャに焦れて名前を呼ぶと、彼の長い指が猫の頭を撫でるように、優しくジェンセンの顎を擽る。

「っ…癖なんだ、唇舐めるの。直そうとしても中々直らなくてさ。その、余計な心配かけさせてごめん」

 ディーンを演じている時から思っていたが、彼の眸は狡いくらいに不思議な力があるのだ。
 凪いだ海を投影した眸に見据えられると、催眠術に掛かったように身動きが取れなくなる。
 唇を薄く開いて戸惑いの呼気を逃したジェンセンは、焦りで汗の滲んだ手を握り直す。ディーンになりきって「パーソナルスペース」と注意すれば、彼はカスティエルのように離れてくれるだろうか。誰かに見られて良からぬ噂が立つのは、ミーシャも望まないだろう。
 …等と、一般論で物事を考えるのは間違いだ。
 もし本当に第三者が乱入して来ても、笑顔で乗りきる彼の姿が容易に想像出来る。

 となればジェンセンに残された道は、一刻も早くこの流れを打開する事だけ。意気込んで口を開こうとしたが、それは徒労に終わる。残念な事に、今日のジェンセンは何もやっても空回る運命の下に居るのだ。

「ねぇ、触ってもいいかな?」

「は?」

「実はずっと気になってたんだよね。ジェンセンの唇って、どんな感触なんだろうって」

 子供のように無邪気な笑みを浮かべるミーシャとは違い、出鼻を挫かれたジェンセンは瞼を上下に動かす事しか出来なかった。

「…………またいつもの冗談だよな?」

 どうか、笑顔でそうだと肯定して欲しい。
 振り絞った声で恐る恐る聞くと、顎を支える手を外したミーシャは、表情を変える事なく首を横に振った。

「ちょっとだけだから、いいよね?」

「いや、あのなミーシャ。決定事項みたいに言われても困るんだが……」

「まぁまぁ、何もキスして確かめる訳じゃないから大丈夫だよ。指で触るだけだから」

 だから、いいよね?
 ミーシャが繰り返した言葉に引き下がる気配はなく、ジェンセンは自分が折れるまでこのやり取りが継続するのだと悟る。
 催眠術の次は、洗脳でもするつもりなのか。

「触れば…満足するのか?」

「するよ。触らせてくれるかい?」

 悪意を微塵も滲ませない微笑みと、全てを見透すような深い青に、ジェンセンは大きく肩を落としてから縦に頷いた。

「ありがとう、ジェンセン」

 観念して唇を一文字に結べば、直ぐ様ミーシャの指先がふわりと触れる。ジェンセンは頬を染めながら視線をあちこちへと飛ばし、成るべく意識しないように努めた。目を閉じるという選択肢もあったが、それは雰囲気的に状況を更に悪化させる可能性が高い。

「へぇ、想像よりも柔らかいね。それに、マシュマロよりも弾力があって気持ちいいよ」

「……っ、ふ」

 だから、ジェンセンは只管に耐えた。
 聞いてもいない感想を述べられ、ミーシャの体を突き飛ばして逃げ出したい衝動に駆られながらも。雷鳴の轟く日に一人で留守番をする幼子のように、早く時間が過ぎる事だけを願って。

「こんなに蠱惑的な唇は初めてだよ。ずっと触っていたいぐらいだ」

「ん…ミー、シャ」

「大丈夫、解ってるよ。これ以上君を苛めて嫌われたくはないからね」

 名残惜しさを声と表情で全面に押し出したミーシャだったが、最後に下唇を掠めてから指を引いてくれた。羞恥プレイから解放されたと一息つきたい所だったが、安心する前にまた先制攻撃を受けてしまう。

「それにしても羨ましいなぁ。僕の乾燥した唇とは大違いだよ」

 嘆きながら自分の唇を触ったミーシャは、わざとらしく驚いた顔をしてジェンセンを眺めた。一分振りに解放された唇には、まだ指先の温もりと感触が残っている。むず痒いような熱いような不思議な感覚に、心に細波が立つ。

「間接キスだね、ジェンセン」

「――っ!?」

 ジェンセンの見つめる先で、ミーシャは人指し指でトントンと唇を叩いていた。言われた意味を理解した瞬間に、首から顔の体温が一気に上がる。秒針が刻むのが時ならば、ミーシャの行動は記憶に刻もうとしているとしか思えない。
 握っていたリップを太股の上に転がし、ジェンセンは真っ赤になった顔を両手で隠した。

「僕だけ触るのは、流石にフェアじゃないよね。だから、次はジェンセンの番だよ」

「は…?」

「僕は唇が乾燥しやすいんだよね。だから、触り心地は良くないと思うんだ」

「悪い。言ってる意味が……」

「ガサガサしてるのを触らせるのも気が引けるしなぁ。あ、そうだ! いい手があったよ」

 下げていた頭を持ち上げると、ミーシャがジェンセンの太股に放置されていたリップを手に取る。止める間もなく開封して蓋を開け、その指先でクリームを掬う。何をするつもりかと見ていると、ミーシャの指が再び唇に触れた。

「動かないでね、ジェンセン」

「んっ、む…ぅ!」

 顔を背けて逃げるのを見越され、顎を掴まれて唇に満遍なくリップを塗り込められる。

「よし、これでいいかな」

「ミーシャ、何す――」

「ジェンセン」

 あまり聞く事のないミーシャの低音ボイスに、丸まりかけていたジェンセンの背筋がピンと伸びた。鼓膜を揺らした妖艶な声は淡雪のように溶けてしまったが、異常な程の熱意で形成された視線が注がれている。

 とんでもない道化師が居たものだ。
さっきまでは人をからかって遊んでいたのに、急に真面目な顔で惑わすのだから。

「待っ、待ってくれミーシャ…っ」

「ごめんね、待てない」

「ミー…!!」

 大きな掌が、ジェンセンの視界を遮断する。
 目蓋を包むのは、優しい温もり。
 指の感覚とリップの乗った唇に重なったのは、少し乾燥したミーシャの唇だった。



END




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