
すず
気を失ったすずを家へ送り届けてから、儂はすぐに冥府へと向かった。不安定な状態のすずをひとりにするのは多少気が引けたが、現状報告もしなければならないし、何よりこの巨大な霊魂を持ったままでは要らぬものまで呼び寄せてしまいそうだと判断したからだ。それに、すずなら平気だろう。あの少女は人間とは思えないほどに強い。儂が戻るまでくらいは、ひとりでもいられる。
冥府の門をくぐると、待ちかまえていたデリクデリカが儂を見るなり駆け寄ってくる。
「永逝! お前、ボロボロじゃん……!」
「ユッカくんのとこ、行くぅ〜?」
「いや、いい。ディルクに報告するほうが先だ」
「だめだ。先に治療する」
声が聞こえたほうに目を向けると、ユッカが怒ったような困ったような顔でこちらを睨んでいた。いつも清潔な白を湛えている白衣は、先の鬼百合逃走で負傷した死神を治療したのか、所々赤く染まっている。
「……お前に治療されるほど弱ってはいない」
「勘違いするな、きみのために言ってるんじゃない。そんな姿でディルク様の前に出たら、ディルク様が心配なさるだろう。せめて傷くらいは治していくんだ」
確かに、ふらついた状態で出て行けば、報告どころの騒ぎではなくなるのは容易に想像できてしまう。反論する余地をなくして黙り込んでいると、ユッカは胸元のポケットから細長いストローを取り出して口元へ運ぶ。
死神の中でも特に稀有な存在であるユッカの能力は“完全治癒”。ユッカの全身に巡る血液そのものが強力な治癒効果を持っており、治癒阻害の能力を持った悪魔から受けた傷でも、神具で受けた傷でも、傷口に一滴垂らすだけで治ってしまう。
口の中を噛み切り、ストローで患部に血液を垂らす。完全に砕けていた肩の関節も、抉れていた太腿の肉も綺麗に治っていた。
「さあ、急ぐといい。ディルク様がお待ちしている」
「……ああ」
デリクデリカもあとを着いてきているのを背で感じながら、今度はしっかりとした足でディルクの元へ向かう。急がなければいけない。そんな気がしていた。
鬼百合と襲われた死神の血にまみれていた廊下や壁は、もうすっかり染みひとつない真っ白な姿に戻っていた。その白の中で際立つアンティーク調の扉を、軽くノックしてから開く。室内を侵蝕していた血もなくなり、片づけられたせいか以前より広く感じる部屋の奥の大きな椅子に、ディルクがひっそりと座り込んでいた。
後ろをついてきていたデリクデリカは、扉の隙間からするりと入り込み、隅に置かれた椅子へと座る。そこにはなんの遠慮もなく、一介の死神が閻魔に対する態度ではない。
「永逝! 大事にはなっておらぬようじゃな……!」
「……ああ、儂はな」
ほっとしたディルクの顔が、一瞬にして暗くなる。鬼百合ほどの大きな力を持つ死神の消滅を感じ取れないほど、ディルクは閻魔として、鈍感ではない。
「……話してもらえるかのう?」
儂は言葉を選びながら、少しずつすべてを話した。話している最中、誰ひとりとして口を挟むことはせず、ただ真剣に儂の言葉に耳を傾けていた。
すべてを話し終えたあと、口を開こうとしないディルクの代わりに、デリクデリカがぽつりぽつりと口を開く。
「やっぱり……鬼百合ちゃんは、悪い子じゃなかったんだよぉ……」
「そうだな。……でも、そのすずって子の気持ちを考えると、いい子だっていうわけにもいかねえよ」
いい子、悪い子。その曖昧な定義で推し量るにはあまりにも複雑すぎる鬼百合。確かに、したことは許されないことなのかもしれない。だが、少なくともこの場にいる儂らは、鬼百合のことを悪いなどと言い切ることはできない。
なおも黙り込むディルクの目の前に、持っていた大きな魂を置く。
「……これは、」
「零落樹に吸われた人間たちの魂だ。どうやら零落樹の中でひとつになったらしくてな。……鬼百合も、混ざってる」
本来なら透明なはずの魂は、白く濁っている。それは他でもない、死神の魂が入っていることを意味していた。鬼百合の魂は、紛れもなく死神だったことの何よりの証明だった。
「鬼百合は……確かに悪魔との子じゃったが、死神の血のほうが濃い子じゃったんじゃ。じゃからじゃ……油断しておった。悪魔が、狙うはずないなどと……」
「おい、大丈夫か?」
「ディルク様ぁ〜……」
いまにも泣き出しそうなディルクに、駆け寄るふたり。
最近、この事件が起きてからというもの、ディルクはあまりにも弱気だった。それを仕方ないことだと思いつつも、儂にはもう我慢の限界がきていた。
俯くディルクの襟を掴み、無理矢理上を向かせる。潤んだ瞳を見開くディルクを、きつく睨む。
「いい加減にしろ!! 近頃の貴様はなんだ! 自分のせいだとか自分が悪いとか、貴様はそれしか言えんのか! 確かに貴様のせいかもしれん、貴様がうまく立ち回れてればこんな事態にはならなかったのかもしれん」
「おい、永逝……!」
「だがな、貴様は閻魔だろう! この天地の生死を統べる閻魔だろう! 貴様が揺らいでは、下の儂らはどうなる!?」
「永逝!!」
デリクに名を呼ばれ、ふと我に返る。ここまで取り乱してしまうのは儂としても珍しいことだった。自分では気づかなかったが、それだけ、鬼百合を手にかけたことがストレスになっていたのだろう。身内を殺したのだ。つらくないわけがない。それは誰だって同じだ。
「それに、鬼百合の件で一番苦しんでいるのは……きっと儂らではない」
未だ目を覚まさないエマは、鬼百合がどうなってしまったかさえ知らない。今まで黙っていたディルクが、ふと顔を上げて儂を見た。その表情に曇りはない。
「エマには拙からつたえよう。それが、拙にできる最後の贖罪じゃ」
儂が掴んだせいで乱れた襟を正すと、困ったように笑う。
「それで償いきれると思ってはおらぬが、永逝の言う通り、拙は閻魔じゃ。閻魔は、誰にも揺らがず中立におらねばならぬからのう。……悲しんでばかりでは閻魔の名折れじゃ」
机の上に転がったままだった魂を手に取り、小さく「ありがとう」とつぶやいたのを複雑な気分で見ていると、真剣なディルクの瞳とぶつかる。
「普通課病死部部長、永逝。任務の完了を認める。ご苦労であった」
「……ああ」
「永逝、オツカレー! で、このあとどうすんの? マーシィのこととかさあ」
「もちろん解放だよねぇ〜、なんの関係もなかったんだしぃ〜」
「おお、そうじゃな。それもあるが……」
ふと思案げな顔をするディルクに、首を傾げるデリクデリカ。
「死神と人間との間の子という娘……、放っておくのはまずいんじゃないかと思うてのう。話を聞く限り、今ひとりにするのは危険じゃ。よほど強い精神の持ち主でなければ……あるいは、」
ディルクの言葉を最後まで聞き終わる前に、部屋を飛び出していた。疲労で身体中がギシギシと痛むが、傷をユッカに癒してもらったのは正解だった。あれではまともに走ることなどできはしなかっただろう。背中に呼ぶ声が聞こえたが、それどころではなかった。
今さっきまで腹の底をくすぶっていた不安が、堰を切ったかのようにどうしようもなく溢れ出てきてしょうがない。今すぐにすずの姿を見なければこのまま死んでしまうと言われても、信じてしまえるほどに。
──人界 日の本上空──
最近は冥府より人界にいることが多くなってしまったせいか、冥府より人界の空気のほうが肌に馴染むような感覚を覚えた。そのことになんの感情も抱けないほど、儂は焦っていた。
冥府と人界は遠い。今さらながら、そんなことを強く感じる。
一刻も早く姿を見たいのに、焦る気持ちに疲弊しきった身体はついてこない。焦る気持ちばかりが強くなっていくばかりだった。だからだろうか、すずの家が見えたとき、ほんの少し安堵してしまった自分がいた。自分のわけのわからない感情に戸惑いながらも、すずの部屋の障子を開ける。
「…………すず」
丑三つ時、空に浮かぶ月は雲に隠れ、あまりにも暗すぎる室内。だが、わかるのだ。見えなくても、わかってしまう。儂は、死神だから。
吸い寄せられるかのようにふらりと足を踏み入れると、畳ではあるはずのない、ぬちゃりと嫌な音がした。それと同時に匂い立つ鉄の臭い。急激に頭が冷えていくような妙な感覚が襲う。
やがて、月が顔を出す。見えなかった室内に光を射していく。見えないままでいい、そうどこかで願っていたのに。
「……すず、」
ああ、なんの冗談だろうか。すずが、死んでいる、なんて。
浮かび上がった室内は、一面赤く染まっていた。その中心点に横たわっている、とても見覚えのある鮮やかな青の着物を着た人間。その手には短刀が握られており、その刀身には血がべっとりと付着し、月明かりにぬらぬらと光っている。細い首には、その短刀で掻き切ったであろう傷がぱっくりと口を開けている。
焦ってここまできたことが嘘のように、驚くほどに冷静な自分に自分で驚いていた。
「すず……」
そばに膝をつき、固い畳に寝ているすずを抱き寄せる。ぽとりと落ちた音に目を向ければ、いつしか儂がすずにあげた髪飾りが所在なさげに転がっていた。それを拾い上げて、すずの塗れた髪に留めてやる。
もう死んでいる。それはわかっている。話しかけても、名前を呼んでも、こうして髪を纏めてやっても、すずからは何も返ってはこない。それでも、抱き寄せたこの身体はまだ温かい。まだ温かいのだ。生きていたころと何も変わらない。まるでほんとうに眠っているだけで、すぐに目を開けて「驚いた?」と笑って終わってしまうんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
だが、そうはさせてもらえない。儂が死神である限り、すずがもう死んでいると何度も自覚する。
儂が、儂がもう少し早くきていれば、もっと急いできていれば。儂がすずをひとりにしなければ。儂のせいのようなものだ。儂がもう少し人間の弱さを理解してさえすれば、すずを傷つけることなどひとつもなかったのかもしれない。すずを癒せたのかもしれない。悔やんでも仕方のないことばかりだ。もしかすると、鬼百合もこんな気持ちだったのかもしれない。
「はは、これは確かに……きついな」
誰かを恨んでいなければ、正気を保てないほどに。
徐々に熱を失っていくのを肌で感じて、苦しくなる。このまま、すずは儂の腕の中をすり抜けて逝ってしまうのか。もう、すずと会えないのか。ぱたりと、すずを抱く手に雫がこぼれた。
儂は今寂しいのだろうか。寂しくないと言えば嘘になるのだろう。だが、たかが人間相手になぜこうも寂しいと感じなければならないのだろう。これでは、まるで、
「……ああ、そうか」
不思議に感じたことがある。死神が見えるだけのただの人間だというのに、泣いている顔を見たくないと思ったり、傷つけたくないと思ったり、やさしくしたいと思ったり。その笑顔を、心を得たいと焦がれたり。
それはなぜか。答えはこんなにも近くにあったのに。
「これが……“愛しい”という感情か」
それを最後に、儂は気を失った。