
決着
本来なら神具でつけられた傷や治癒阻害の能力でもない限り、死神の治癒力で持ち直せるのだが、鬼百合はもう死神というにはあまりにも悪魔に近すぎていた。もう、死神の治癒力さえないのだ。
「もう諦めろ。悪魔の力に飲み込まれた時点で、貴様が勝つ確立は万分の一にも満たってはいない」
「……、それはアンタひとりだったら……の、話でしょォ?」
にたりと笑う鬼百合が見ていたのは、儂より遙か後方。そこには、やりとりを呆然と見ていたすずがいた。すぐに思い当たり、鬼百合の視界からすずを隠すように体をずらす。
「そんなので……アタシの攻撃から守れるとでも、思ってるのかしらァ」
言うや否や、目で追うこともできないほどのスピードで空高く舞い上がる。すぐに重力をかけようとするが、それを鬼百合の目が制した。儂の能力と鬼百合の能力とでは、どうしたって鬼百合の攻撃のほうが速い。いまから重力をかけたところで、さっきの儂のように鬼百合からの攻撃がすずに当たってしまう。
儂だからよかったものの、人間など簡単に死んでしまう。そんな危険は犯せない。
「そうそう、えらいわよォ。ちゃあんと状況わかってるじゃなァい」
満足そうに笑う鬼百合の目は、いまだ少し離れた場所で座り込んでいるすずを捕らえている。すずは戸惑うように鬼百合が翳している神具を見つめていた。
「ごほ、ごほっ……あー……そういえばァ、アンタの父親に遺ってた残留思念……どんなものか言ってなかったわねェ」
「な、何……?」
口から滲む血を拭いながら、鬼百合はすずに話しかける。
「アンタ、どうして自分が幽霊とか死神とか……普通の人間が見てはいけないようなものが見えるのか、不思議に思ったことはなァい?」
「そ、それは……」
「教えてあげるわァ。アンタはね──」
なぜ死神が見えるのか。それは儂が今まで気になっていたことのひとつでもあった。
死ぬ間際の人間や、魂と肉体の定着があまり進んでいない子供なら見えることはあるが、すずはどちらにも当てはまらない。それを鬼百合は知っているというのか?
「アンタは、死神と人間の間の子だからよォ」
「どういう、ことだ」
遠く離れたすずの息を飲む音がリアルに聞こえてきそうなほどに、すずの顔は驚愕に満ちていた。尚も楽しげな鬼百合に問えば、くつくつとした笑い声だけが返ってくる。
「あの男は本当の父親じゃないしィ。さして哀しむ必要はないんじゃないかしらァ」
「そんなこと──」
「そんなこと関係ないわ」
凛とした声に目を向けると、驚愕に満ちていたすずの顔は穏やかなものへ変わっていた。
「父親が死神っていうのには確かにちょっとびっくりしちゃったけど、わたしの父はあの人だけだもの。血のつながりなんて、関係ないわ」
まっすぐに鬼百合を見て話すすず。親の仇を前にこうも冷静でいられるのかとも思ったが、すずが誰かを憎しみに溺れながら怒鳴りつける姿は想像ができない。
「……そんな、まるであの子みたいなことを」
消えてしまいそうな小さな声で、鬼百合はつぶやいた。だが言葉とは裏腹に、黒い侵蝕がまた少し進む。それに意識が取られていて、鬼百合自身の変化に気がつかなかった。
唐突に頭を掻きむしり、着けられていた真っ赤な百合の髪飾りが地に落ちる。
「……だ、いやだ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!! 私の邪魔をするな!!! 私は聞かなきゃいけないんだ、殺さなきゃいけないんだ……!!」
叫ぶ鬼百合は、ゆらゆらと不安定に降下し、地面に膝を突く。開いた傷口から溢れた血が地面に小さな水たまりを作っていく。もう肉体的にも精神的にも限界だったのだろう。儂もそれに倣うように地面に降りるが、足をやられたせいでうまく立っていられない。
一通り叫び終えて激しく咳き込む鬼百合は、ふとうつろな目ですずを見た。
「はぁ、はぁ……、残留思念にはねェ……アンタへの激しい感情が遺ってたのよォ……」
「わたしへの……?」
「それは……激しい“憎悪”」
すずの黒く大きな瞳はさらに大きく見開かれる。
「……嘘よ、父様はいつだってわたしを一番に、」
「“お前のせいで母親は死んだ”」
「!」
「“いつも見えない何かを見ていて気味が悪い”“足もない化け物”“お前さえ生まれなければ小夜は死なずに済んだ”」
「──やめろ!」
鬼百合にこれ以上言わせてはだめだ。そう咄嗟に判断して重力をかけると、鬼百合はなんの抵抗もなくベシャリと血だまりの中に倒れ伏す。だが、それでもまだ鬼百合はすずを見ていた。
「“お前など死んでしまえばいい”……!!」
押さえつけるだけではだめだと、零落樹のほうへ鬼百合を飛ばす。やはり無抵抗に零落樹にぶつかり、根本に崩れ落ちる。零落樹に着いた鬼百合の赤い血が、じわりと零落樹に吸われて消えていく。
零落樹は自身に触れた精神体を養分として吸収する。鬼百合に触れた零落樹は、また少しずつ成長を始めた。
「ちっ、……厄介だな」
零落樹の破壊は種子の状態でなければできない。そのためには、死神の武器である神具で吸収された魂を奪わなければならない。うまく動かない左手を零落樹に伸ばそうとすると、弱々しい手に掴まれる。
「邪魔をするな、貴様から消してほしいのか」
「その必要は、ないわ……もう私は助から、ない」
それは見てわかることだった。もう鬼百合の体には血で塗れていない場所はなく、目もうつろで生気がない。身体中から感じていた悪魔の気配も消え、姿も元に戻っていた。
「……やっぱり、強いのね」
「当然だろう、四百四病の永逝だからな」
「そういう意味じゃ、ないんだけど……。…いや、でも……そうか……」
薄く笑む鬼百合は、どこか嬉しそうだ。自分が死ぬときだというのに、こうも笑っていられるものなのだろうか。
「……厩舎の文字を読んだ」
「…………そう」
「お前は、馬鹿だな」
「何よ……それ……」
睨むように儂を見上げる鬼百合を無視して、いまだ成長し続ける零落樹を見上げる。この調子ではまだ吸い足りないらしい。
そうして、厩舎の赤く綴られた文字を思い返す。
「お前の言う通り、儂は神だ。死神の能力を身につけて、死神としての地位を得たとしても、それが変わることはない」
いくら死神だと言い張っても、魂の質が変わることなどありえない。神は神で、死神は死神。神が死神になることなど無理で、逆もまた然りだ。そんなこと、生まれたときから知っていた。
「だが、儂はディルクに死神として迎えられた。マニゴルドやエマも、儂を死神だと言ってくれた。……たったひとりでも死神として認めてくれる者がいるなら、それだけで、“死神”なんじゃないのか?」
「認めて、くれる……」
鬼百合にとって、エマがそうだったはずだ。ディルクだってそうだ。エマもディルクも、いや、言葉にしないだけで、ほとんどの部長や副部長クラスの死神は鬼百合を死神として認めていたはずだ。
「でも……あの子は、私のせいで……」
「確かに、お前のせいかもしれない。お前が近づかなければ、その少女は短くとも生きていただろうからな」
「……っ」
「だからといって人間を殺していい理由にはならない。お前は、その悪魔と同じことをしたんだ」
悪戯に人の命を奪い、傷つける。魂はあやふやでも、確かに死神だった自分を、鬼百合は自ら捨てて悪魔になった。
鬼百合は自分の身体を抱くように縮こまり、消え入りそうな声を上げる。
「でも、悪魔を創ったのは主神でしょう。私を創ったのは主神でしょう。……私は、何も悪いことなんてしてこなかったのに……私を悪魔にしたのは神でしょう!!? 先に裏切ったのは、神じゃない……!!」
叫んだせいでまた咽せる鬼百合からは、もうほとんどの気配を感じない。もう、時間は残されていなかった。
「はぁ、はぁ、……ああ、渇く……。また、苦しくなる……」
「飢え、か?」
「そう……あの子のことを思い返すたびにつらくなる……。でも、哀しいわけじゃ、ないのよ……」
「……馬鹿なお前にもうひとつだけ教えてやろう」
目線が合うようにしゃがみ、苦しそうに息をする鬼百合を見る。
そもそも鬼百合は自分を知らなすぎた。少しでも知ってればこうならなかったかと言われると、そうでもない気もするが、今よりもう少しマシな状況ではあったはずだ。
「それは、“寂しい”という感情だ」
苦痛とも違う、悔しさとも違う、哀しみとも違う、憎しみとも違う。失くしたものを思い返すと、沸き上がる渇きにも似た不思議な感情。
『それはのう、“寂しい”という感情じゃよ』
それは、儂が一番最初に知った感情だった。
「“寂しい”……。そうか、私はずっと……寂しかったのか……──」
血とは違う透明なそれが瞳からこぼれた瞬間、鬼百合の身体は霧散した。最後の瞬間、声にならない声で鬼百合はありがとうとつぶやいた。それはとても、嬉しそうに。
「……死んでしまったの?」
すぐ後ろから聞こえた声に振り返ると、着物の裾や袖を土で汚したすずがどこか遠くを見るような目で零落樹の根本を見ていた。その手には、鬼百合が着けていた赤い百合の髪飾りが握られている。
「いや、……死神に人間のような“死”はない。あるのは“消滅”だけだ。ただ……我々にとっては、それが“死”というものなんだろうが」
ぽろりと、すずの瞳からこぼれた涙。儂はそれに驚くと同時に、違和感を覚えた。
「なぜ泣く? お前にとって、仇のようなものだろう」
「だって……ちっとも恨めやしないんだもの」
汚れた着物の袖で顔を拭うせいで、顔もだんだんと汚れていく。それを見てられずに、袖で拭ってやる。それでも足りないほどに、すずは涙を流し続ける。
「どんなことを思われてても……ここまで育ててくれたのは父に変わりはないのに、それなのに……、わたしは父様が殺されて、少しだけよかったって思ってしまった……!」
言葉が、出なかった。
すずは父親を殺した鬼百合よりも、事実を知って浮き出た汚い自分が許せないと嘆いていた。人間はそんなに綺麗ではない。ちょっとしたことで人を恨み、憎み、妬む。そんなことは知っていたが、それを許せないすずになんと声をかければいいかまではわからなかった。
「……すず」
「ごめんなさい、ごめんなさい父様……!」
儂の声はもう聞こえていないようだった。うずくまるようにして泣くすずの背中をさする。しばらくすると泣き疲れたのか、すずは眠ってしまった。なかば気絶するかのように眠りについたため、一瞬不安になるが、耳を傾けると聞こえてくる静かな呼吸音に安堵する。
「……まだ儂には仕事が残っているな」
成長の止まった零落樹を見上げてため息を吐く。
こんなものがあるから鬼百合も惑うのだ。最初から破壊してさえいれば、こんなことにはならなかった。今さらそんなことを言っても意味はないが、思わずにはいられない。それほどまでに、今回の事件はあまりにも犠牲が多すぎた。
左手で触れると、零落樹は時間を逆回しにするように瞬く間に小さくなり、種子の状態に戻っていく。すっかり元に戻った種子の隣には、水晶玉のような少し濁った大きな玉が転がっていた。どうやら吸収された魂が零落樹の中で混ざり合い、ひとつの大きな魂に変形してしまったらしい。これでは転生に回しても、人間の器には到底入りきらない。しかも鬼百合という不純物まで入ってしまっている。これは分離作業が大変そうだなとぼんやり、絶叫する色眼鏡を思い浮かべた。
白い種子を拾い、左手に少し力を込め破壊する。手のひらを広げると、消滅することなく粉々になった種子が風に乗ってさらさらと消えていく。これだけ騒がせておいてあっけないものだと思いつつ、ようやく終わったのだと少しだけ脱力した。