紫陽花

「…………ッ!!!」

 珍しく真剣に受理待ちの書類を処理していたディルクが椅子から勢いよく立ち上がる。その勢いで綺麗に整えられていた書類の山は無惨にも床に落ち、それを手伝っていたデリクデリカが呆れたような視線をディルクに送るが、それさえも気に留めずに、ディルクは一心に宙を見つめている。

「またぐちゃぐちゃだねぇ〜」

「ったく、ほんとだよ。……おいディルク様、どうしたんだよ?」

「……ぁあ、あああっ!!」

「ディルク!?」

 自分の身体を抱えるようにして身を震わせるディルクに駆け寄るデリクデリカ。

「一体どうし──」

「……逝が」

「え?」

「永逝の力が、暴走している……!!」


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 すずの死という耐え難い事実によって左手の力が暴走した永逝は、いち早く人界の異常に気づいたディルクによる命でデリクデリカが捕縛することに成功したが、半径200m圏内にいた約1000人ほどの人間の魂を消失させるまでに至った。
 人間を死に至らしめることは許されざる罪であり、1000人もの魂が巡ることなく消失してしまった損害は膨大であるとして、永逝は七情神から死罪が言い渡された。
 だが、そこにひとりの天使が現れ、『鬼百合に殺されるところだった自分を救った恩人なので殺さないでほしい』という主神からの言伝がきたことで、死罪は免れることになった。
 しかし、永逝の左手の力は危険と判断され、左手を封じた上での軟禁を余儀なくされた。
 それから数日後、永逝のもとへ向かう人物がいた。


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 きみが禁忌を犯すなんて、誰が予想できただろう。少なくとも、長い付き合いである僕にはまったく予想はできなかったよ。それはディルク様にも言えることで、この数日で心身共にだいぶ疲労なさってた。
 故意ではないにしろ、禁忌は禁忌。ルール破りにはそれなりに厳しくしてきたディルク様も、さすがに息子であるきみには非道にはなれないらしいね。それも仕方ないだろう。僕だって、もし鬼百合がそうなっていたら……。
 目が覚めたとき、ディルク様が一番に会いにきてくださったのは嬉しかったけど、本当に死んでしまいそうなくらい弱々しくて驚いたよ。
 それから、ユッカさんの力でも僕の右目は治らないらしいということを聞かされたんだ。僕は治らないというショックより、ユッカさんが治せない傷なんてあるんだな、なんて呑気に感心してたんだけどね。
 どうやら、僕は半分以上死んでたようなもので、死なないように血を送り続けるのが精一杯で治せなかったらしい。それは仕方のないことだよね。目玉ひとつで生きられるなら安いものだ。
 そして、鬼百合が犯人だったことを改めて聞かされ、事件の経緯をすべて聞かされた。きみがまさか人間に肩入れしてしまうなんて、本当に予想外なことばかりで困ったけど、僕はきみが生きていて本当によかったと思ってる。

「……ねえ、聞いてる?」

 今日、目覚めてからはじめて会った永逝さんは、ぼんやりとしていて何もしゃべることすらしない。もっと愛想よくすればいいのにと思いながら見ていた仏頂面も、今は見る影もなくて、それが少しだけ寂しく思えてしまう。
 永逝さんの心は、ここにはない。

「そうだ、今日はきみにこれを渡そうと思って……、ほら」

 永逝さんの目の前に差し出したのは、鮮やかな青を湛えた美しい花。
 すずという少女はこの花が好きだと聞いて持ってきたんだ。怒るかもしれないとも思ったけど、きっと永逝さんはこれがそばにあるほうが落ち着く。ここは、あまりに白すぎるから。

「これは……なぜ、」

「きみの力の暴走で本物は枯れてしまったから、アニエスに作ってもらった擬態の花だけど」

 青い花を眺める永逝さんの横顔は、あまりにも痛々しくて、まるではじめて会ったころのようだと思う。また大切なものを失ってしまってからのきみに会うことになるなんて。もう失くさせないと過去に約束したのに。

「……そろそろ僕は行くよ、じゃあね」

「…………ああ」


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 この、どこまでも白い牢獄のような部屋に押し込められて早数日が過ぎた。
 といっても儂には実感がないのだが、どうやら儂以外にとってはかなりの日数だったらしく、生死をさまよっていたエマもああして出歩けるまでに回復している。眼帯をしている姿には多少、罪悪を感じないでもないが、本人自身があまり気にしていないようでこっちが拍子抜けしたくらいだった。
 渡された紫陽花が挿された花瓶をサイドテーブルに置き、ただ眺める。あの庭に咲いていた紫陽花ほどではないが、これも負けず劣らずに美しい青さで咲いている。アニエスの擬態化で作られた偽物だとしても、すずを想起させるには十分だった。
 思えば、すずとの記憶の中にはいつも紫陽花があった。ふたりで夕暮れの空を飛んだときも、すずはあの青い紫陽花が好きなんだと言って笑っていた。あのときは曖昧な返事しかできなかったが、今ははっきりと言える。

「……すず、儂も紫陽花が好きだ」





 青よりも深く、愛したひとへ

 この、きみのような紫陽花を捧ぐ




【紫陽花】 完