
疑惑と信頼
力なく倒れた先に待っていたのは床だった。倒れるときに思わず掴んだ書類の山が机から崩れ、床に散る。どこまでも白くて、ひんやりした床に僕の身体はぶつかる。視界が掠れる左目で見えるのは、その真っ白な床が赤に侵蝕されていくところだけ。だけど、右目から溢れたそれは、段々と僕の視界さえ赤く染めていく。僕の目が赤いのか、床が赤いのか判別がつかなくなってきたころ、僕は意識を手放した。
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「え?」
言われた言葉の意味が理解できなくて、思わず気の抜けた声が出る。ユッカ先生の顔を凝視すると、不愉快そうに顔をしかめられたが、やっぱりどうしてもわからなくて、ただ見つめることしかできない。
しばらくそうしていたが、僕の無言の視線に耐えられなくなったのか、面倒くさそうにもう一度言葉を繰り返した。
「鬼百合が“飢餓のリリー”かもしれないと、僕は言っているのだが」
「……!」
ユッカ先生から受け取った書類を思わず握り潰してしまい、「久々にこなした仕事なんだから大事に扱ってくれ」と注意を受けるも、僕の身体は強ばったままだった。
そんなことを言われてショックだとかより、そうかもしれないと思ってしまった自分にショックを受けた。彼女は自分の部下で、信頼の置ける唯一無二の友人でもあった。それを、他人から言われた疑いの言葉に、否定することも怒ることもできずに素直に受け取ってしまう自分が、そんな自分がとても嫌になる。
「それで、僕があまり断罪の塔に赴くと不自然だと思ってな。代わりに伝えてもらえるか? ……おい、エマくん大丈夫か? 無理なら、他をあたるが……」
「……っ、いえ、僕がお伝えします」
その返事に満足して、ユッカ先生は去っていく。
返事は咄嗟のことだった。自分の部下のことだ。普通は相当嫌なことで、僕以外でもその役目を果たせるのなら、それを進んで快く了承することのほうがおかしい。普通じゃない。ならなぜだろう。僕はどうして自ら進んでやると言ったのだろう。
僕がディルク様の側近だから?
仕事に私情を挟んでると思われたくないから?
きっと、どっちでもない。
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自室で悩み抜いた末に、ディルク様へと報告しようと執務室へ向かうと、部屋の中にディルク様の姿はなかった。最近は例の事件のおかげで、割と執務室にいることの多かったディルク様だったが、通常時ならば執務室より自室にいることのほうが多い。それをすっかり失念していた。
だが、まだ事件は解決していない。それを考えるとおそらく休息のために自室に戻ったのだろう。いつもは警備のため、僕を呼び寄せて執務室からひとがいなくならないようにしているのだが、最近はあまり休んでいなかったのだから仕方がない。
僕は報告しに行きたくても行けなくなってしまった状況に、内心喜んでいた。そして同時に、そんな自分に戸惑っていた。
僕はいったい報告したいのか、したくないのか。おそらく答えは両方だ。
客観的に考えれば、鬼百合は確かに頻繁に人界へ任務と称しさぼりに行っているし、怪しいのは確かで、できれば一刻も早く伝えたい。だが自分では、部下を疑いたくない、部下を売るような真似をしたくない、伝えたくはない、そう思っている。
冷静になった今考えれば、ユッカ先生の頼みに僕がと自ら言ったのは、きっと他のひとでは確実にディルク様の耳に届くと思ったからなんだろう。
なら、僕はこのことをもみ消したいのか?
疑われた事実をもみ消して、平然とみんなと話すのか?
そんなことは、できない。鬼百合が疑われるようなことをしているのは事実だ。それは否定しようがない。それを僕がもみ消すなんてことをすれば、それこそみんなへの裏切り行為じゃないか。それに、鬼百合が裏切り者でないのなら、すぐに疑いは晴れる。
でも、万が一、本当に裏切り者だったとしたら?
「──……ッ」
嫌な考えを振り払うように頭を振る。もうこれ以上何も考えたくはなかった。
でも、もしも、そうだとしたら。僕は彼女の敵になれるのだろうか。躊躇わずに、彼女のことを殺めることが──
ガチャ。ひそやかに響いた背後の扉の音。それに感じる、親しんだ者の気配。
「……部長」
僕を呼ぶ聞き慣れた声は、いつもより静かで、どこか哀しみが滲んでいた。その人物が現れたことと、その声に動揺を隠せないでいると、ゆっくりと足音が近づいてくる。
話しかけているのに振り向かないのは不自然だ。早く振り向かなければと思うのに、さっきまでのことを考えると、どうしてもできない。
「部長、」
さっきよりもはっきりと、より大きく聞こえた声に、頭で考えるよりも早く身体が動く。振り向いたのと同時に、右目が黒く塗りつぶされる。直後、焼けるような痛みが走る。
痛い、痛い、痛い、痛い。あまりにも痛くて、泣きたくなる。
───ごめんなさい。
僕を刺したときに囁いた、きみのその言葉があまりにも哀しくて。
痛い、痛い、痛い、痛い。
胸が、痛いよ。