
やさしさの果て
ふと、気がつくと、見慣れた天井が目に入った。わたし、どうしてここにいるの。
上体を起こすと、布団代わりにかけられていたらしい黒い着物がはらりと落ちる。それですぐに思い出す。今までのこと、すべてを。できることなら、思い出したくはなかったのに。
ボロボロのその着物を見て、ふとあたりを見回す。この着物の持ち主がそばにいる気がしたのに、そこにはただ底寒い闇が広がっているだけだった。
永逝、永逝はどこなの?
もう帰ってしまったのか。仕事が終わったのだから、帰ることはわかっていたけれど、もう帰ってしまうなんて。ひどいとまでは言わないけれど、今はひとりになりたくなかったのに。
すぐ、帰ってくるわよね。
──本当に? すぐに帰ってくる?
もう仕事を、やるべきことを終えてしまったのに?
もう、ここにくる理由なんてなんにもないのに?
帰ってくる、永逝は帰ってくる!
震える自分の身体を抱くようにうずくまる。
父様を亡くしたわたしには、もう永逝しかいない。わたしをわたしとして見てくれるのは、もう他には誰ひとりだって──
『お前のせいで母親は死んだ』
いや、違う。父様はわたしをわたしとして見てくれてはいなかった。
『いつも見えない何かを見ていて気味が悪い』
『足もない化け物』
『お前さえ生まれなければ小夜は死なずに済んだ』
父様はいつもわたしが気味悪いと言われていても、変わらずに接してくれていた。気味悪いなんて、一度も言わなかった。
でも、それも嘘。
『お前なんて死んでしまえばいい』
思わず、胸の辺りを撫でた。大きな傷口から、痛みと共に血が出ているように感じたのに、そこには何もない。ただ心臓がいつも通りに脈を打っている。これの動きが止まることを、父様は願っていた。父様の命が尽きてしまうというその一瞬まで、強く願っていた。
気がつくと、私は護身用として渡されていた短刀を手に持っていた。父様から渡されたものだったけれど、もしかすると、早くこれで死んでしまえという意味だったのかもしれない。
自分の生より、わたしの死を望むくらいだもの。ありえなくはないわ。そうでしょう、永逝。
引き抜くと、刀身が月明かりにきらりと瞬いて私をそこに映す。
永逝、永逝。わたしが死ねば、あなたとずっと一緒にいられるのかしら。もうこうして、ひとりになることなんてないのかしら。
切っ先を喉元に向ける。でも、どうしても手が震えて定まらない。ふと、頭についていた髪飾りに手を伸ばす。それを無造作に取って、痛いくらいに強く握りしめる。
永逝、わたし、あなたのことがほんとうに好きだったの。他には何もいらないくらい、あなたが好きだった。でも、やっぱり苦しいの。父様がわたしのことを憎んでいたなんて、哀しくて苦しいの。
このままだと、きっとわたしは父様が死んでよかっただなんて本気で思いはじめてしまう。そんな自分が汚らしくて、嫌なの。こんな汚いわたしを、あなたはきっと好きになってはくれない。
父様を憎みたくなくて、あなたに嫌われたくなくて、ひとりになりたくない弱いわたしは、きっとあなたが一番嫌がる方法で終わらせる。
永逝、ごめんなさい。ありがとう。
あなたと過ごした日々は、短くてもとてもきらきらしてて幸せだった。だから、もう十分なの。今のままのわたしが、わたしは好きだから。本当にありがとう。
できることなら、あなたとまたどこかで会えたらいいのにね。