
冥府襲撃
冥府の門をくぐると、死神たちが慌ただしく走り回っていた。何人かの死神が医療部のほうへ運ばれているところを見ると、やはり鬼百合はろくなことをしていないらしい。
「永逝!」
ひとの波に沿って歩いていると、背後から呼ばれ振り向く。そこには神具に乗って死神たちの頭上を飛んでいるディルクの姿があった。儂に近づくなり高度を落とし、目線を合わせる。
「今日の冥府は随分と騒がしいな」
「うむ……実はのう、」
「鬼百合の仕業だろう?」
「やはり、知っておったか」
軽く目配せをしてから、背を向けるディルクについていく。いつもは気味が悪いくらいに静かな断罪の塔でさえ騒がしい。いや、むしろここが騒ぎの原因のようで、真っ白な壁や床の所々に赤い染みが飛び散っている。
そして、ついた先は大きな観音開きの扉。閻魔の執務室、ディルクの仕事場へと続く扉だ。アンティーク調の豪勢なそれにはおびただしい量の血が付着しており、廊下を横断するように床から窓へ赤い道筋ができていた。
「これは……」
「鬼百合のものじゃよ」
それを見下ろすディルクの顔は険しい。予想は大方ついていた。冥府で騒ぎを起こして、閻魔であるディルクが黙ってそれを見ているわけがない。
中に入るよう促され赤く塗れた扉をくぐると、いつも散らかっている床までも書類共々赤く染まり、奥にあった扉が派手に壊されていた。ディルクはそれを気にしたふうもなく、ぐちゃぐちゃの部屋の中で唯一無事な机に腰かける。
「……単刀直入に聞こう。人界でなにがあった?」
そう聞かれて、儂は少し言葉に詰まった。どう考えてもすずのことは話さなくてはならないだろう。だが、本当に話していいものだろうか。冥府がすずになんらかのアクションを起こさないとも限らない。いくら相手は人間だとはいえ、恩を徒で返すような愚か者になりたくはないのだが。
ディルクの不審そうな視線を感じて、意を決して口を開く。
「人界に降りてから、何度も死神の気配は感じたがすぐに消えてしまっていた。だから儂は、死んだ人間の身体に憑依しているんじゃないかと考えた。だとすると、一連の事件がはじまったあたりから不審な行動をとる人間がいるはずだ」
「ふむ」
「それで儂は……とある人間に話を聞いた」
ディルクが眉をひそめる。それは当然の反応だろう。
「どういうことじゃ?」
「詳しくは今度話すが……儂が見えて話せる人間がいてな、そいつに聞いた」
「ふむ、興味深いのう」
つぶやきながら腕を組むディルクを見ながら、かろうじて血の付着していない椅子に座る。慣れない力の長時間使用のせいで、立っているのが少しつらい。
許可も取らずに座るとエマに窘められるが、今日はどうやら口うるさい秘書はいないらしく誰も文句を言う者はいない。
「そいつの父親が、毎夜どこかに出かけると聞いて後をつけたんだが」
「当たり、だったわけじゃな」
「ああ。捕まえようとしたが、逃げられてこのザマだ」
「ふむ、逃げてゆくときもかなりのスピードじゃったと聞くしのう」
「……お前がやったんじゃないのか?」
血の跡からして、執務室の奥の保管庫で鬼百合は大量の血を流すに至っている。そして、保管庫に出入りできるのはディルクのみ。てっきりディルクの仕業かと思っていたが、ディルクの口振りだとどうやら違うらしい。
「今度は拙が話す番じゃな……」
儂がここにたどり着くまでの数十分、この冥府でなにが起こったのか。鬼百合はなんの目的でここにきたのか。
「まず先に言っておこう」
「……なんだ」
「エマ坊がやられた」
「!!」
エマがやられた。それは、鬼百合が自分の上司であるエマを襲ったということか。
エマは鬼百合にとっての恩師だ。悪魔の血を引く鬼百合を疎ましく思う者が多い中、エマだけが鬼百合を死神として正当に評価していた。エマだけが鬼百合の理解者だった。エマ、ただひとりだけが。
重ねてはいけないとわかりながらも、まるで、儂とディルクの関係のようだと思っていた。それなのに。
「エマは……生きて、いるんだろうな?」
「当然じゃ。あんなに優秀な部下を拙がみすみす死なせると思うか?」
にやりと笑うディルクに、ほっと息を吐く。たとえエマが鬼百合の恩師でなくとも、エマは儂の幼なじみで、大切な友人だ。もし死んでいたら鬼百合にはそれ相応の仇を討つ気でいた。
「じゃが、意識はまだ戻っておらぬ。右目から脳への損傷が激しいらしくての、すべて元通りというわけにはいかぬらしいのじゃ」
「それでも、生きているんだろう。ならいい」
「そうじゃな……」
泣きそうに笑う顔を見て、思う。ディルクも、我が子同然のエマが死にそうになっているのを見てひどく心配したのだろう。情に流されないのが閻魔。その動揺も見せてはいけないとなると、閻魔もそういい職ではない。
軽く咳払いをして、ディルクがまた顔を引き締める。
「鬼百合は冥府に帰ってきてすぐ、この執務室にきたらしくての。儂はそのとき自室におったのじゃが、エマが代わりにおってのう、それで襲われたらしい」
「真正面からならエマに勝てるはずはないが……不意でもつかれたか」
「おそらくはな」
エマにも今起こっていることの全容は知らせていたらしいが、黒幕の条件に該当していても、気は緩んでしまったのだろう。それだけ、ふたりの関係は親密であった。
赤い血で汚れた床のどこかにエマの血も混ざっているのかと思うと、やるせない。儂があのとき鬼百合を止めてさえいれば、躊躇わずに左手をふるってさえいれば。こんなことは起きなかっただろう。
「己を責めるなよ、永逝」
さっきまで騒がしかった断罪の塔は、いつもの静けさに戻っていた。ただ床に残る血と、響くディルクの声だけが非日常を感じさせる。
「拙とて騒ぎの最中にのんきに寝ておったのじゃ。デリクデリカにもマニゴルドにも指示を出しておきながら、結局はなんの役にも立たぬのじゃからの……笑い種じゃ」
「…………」
「冥府は拙の領土じゃ、冥府内で起きたすべての事柄は拙の至らなさ故のこと。おぬしに一切の責任はない」
「……ああ、わかっている」
わかってはいても、責められずにはいられない。今回はまだ運がよかった。どうであれ、エマは生きているのだから。だが、もしもエマが死んでいたらと思うと、人界で手を下せなかった自分にぞっとする。
「たのもー!」
静寂を破り部屋に飛び込んできたのは、ディルクに次ぐ年長組である老衰部の部長デリクデリカ。そして、それらに引きずられるようにして入ってきたのは、真っ白なひとりの死神。鬼百合の妹であり特務課自殺部部長、マーシィだ。
「お、永逝じゃん。出張オツカレー」
「疲れてるみたいだけど大丈夫ぅ〜?」
「デリクデリカ、久しいな。で、それはなんだ」
マーシィは、全身に赤い帯のようなものをつけられて拘束されている。赤い紐はデリクの力である、封印帯。それを巻きつけられたものは、能力のすべてを封じられてしまう。儂が幼いころ、自分で左手を制御できない間は世話になっていたものだ。
「拙が頼んだのじゃ。身内といえども裏切り者の家族じゃからのう。放っておくわけにはいかぬであろう」
「そうそう。共謀してないとも限らねえしな」
「それもそうだが……」
顔まで封印帯で巻かれているため表情はあまりよくわからないが、ろくに抵抗もせずにただうつむいている。鬼百合のことを知っていたかどうかはわからないが、共謀はありえないのではないかと思う。姉が裏切り者になり、こうして捕まっていることへの同情からではなく、鬼百合とマーシィの仲の悪さは冥府では有名だったからだ。
それさえも演技だとしたら、儂はまた馬鹿を見るはめになってしまうが。
「彼女を解放してもらえませんか?」
場に不釣り合いなほどの穏やかな声に目を向けると、予想通り、幽玄が嫌な笑みを浮かべて立っていた。幽玄も儂と同じくエマと幼なじみであり友人だが、そこまで動揺はしていないようだ。
そんな心の声が聞こえていたのか、幽玄はこちらを見ると少しだけ眉を下げる。
「どういうことじゃ?」
「彼女は鬼百合くんがしていたことを一切知りませんし、共謀もしていないからですよ」
「“読心”か?」
「はい。私もディルク様の側近として、裏切り者が出たときの判例として拘束はやむを得ないと思うんですが……彼にどうしてもと言われたんです」
幽玄が自分の背後に目をやると、おずおずと顔を出す焦げ茶色の髪の少年。目に涙を溜めて、封印帯で縛られたマーシィの姿を見つめている。面識はあまりないが、特務課自殺部副部長のカントだ。
「ま、マーシィ様はほんまになんも知りません。せやから、せやからっ、どうかひどいことはせんといてください……っ」
感極まったのかとうとう泣き出してしまったカントを宥めながら、幽玄は困ったように笑う。
「とまあ、こんな調子でして」
「ふむ。おぬしの気持ちもわかるがのう、マニゴルドの言う通り判例になってもらわねばならぬというのもあるのじゃ。特に、身内の裏切りは前例が少ないのでな」
少し悩むそぶりを見せるが、どうやらやることは決まっているようだった。ディルクはデリクに目配せすると、デリクは仕方ないといったふうに肩を竦めてマーシィの拘束を少しだけ緩めた。
「マーシィは鬼百合が捕らえられるまでの間、封印帯で力を封じた上で、マニゴルドと共に過ごしてもらおうかのう」
「見張りつきの軟禁、ってことですか」
さすがの幽玄も驚いている。かくいう儂も、裏切り者への見せしめに血筋を根絶やしにするくらいはやるものだと思っていたのだが。
「は、随分甘いな」
「ディルク様……! ありがとうございます!」
深く頭を下げるカント。デリクからマーシィを引き渡された幽玄は、身じろぎもしないマーシィを横抱きにしてカントと共に部屋を去った。