零落樹


 幽玄達が去った部屋に静けさが戻りつつあるとき、ふとした疑問が頭をもたげた。裏切った鬼百合にしてみれば、どこもかしこも死神だらけの冥府に戻って来るのはかなりのリスクを伴う。それだけの危険を犯してまで冥府にきた目的、そしてわざわざ断罪の塔に来た理由は。
 さっきはデリクデリカたちの突然の登場に聞きそびれてしまったこともあって、疑問は次々と沸いて出てきた。

「……で、結局ここでなにがあった?」

「おお、そういえば話の途中じゃったのう」

 ディルクが今思い出したというように頷くと、完全に緩んでいた場の空気が引き締まる。

「鬼百合の目的は“零落樹”じゃ」

「“零落樹”……? なんだ、それは」

「なんだよ、お前ディルクの息子のくせに知らねえの?」

 茶化すようなデリクを睨みつけると、ディルクが少しだけ笑う。

「仕方ないことじゃ、永逝は冥府に存在する秘宝に関しては無関心じゃったからのう」

「それにしたって零落樹を知らねえとかねえだろ! 冥府に保管されてる五大秘宝の中では一番有名なやつだぜ?」

「儂が知らないなら有名とは言えんな」

「まぁ〜まぁ〜、落ち着こうよぉ〜」

 間延びした声でデリカが割って入る。のったりとした雰囲気に反して、戦闘要員であるデリカは常にデリクのストッパー役だ。

「“レインカルナルスの花”は知ってるよねぇ〜?」

「ああ……」

 レインカルナルスの花。すべての死神の中で、たったひとりの死神だけが生み出すことのできた、死神にとっては特別な花。かつてディルクが妻として迎え入れた死神だけが、生み出すことのできた花だ。 

「死神を、人間にする花だろう」

「そうだよ〜。零落樹は、それがもっといろんなひとに使用できるようになったものって考えればいいんじゃないかな〜」

「いろんなってことは……悪魔や天使もか? そんなもの……」

 そんなものを鬼百合が手に入れてどうするのだ。死神にも悪魔にもなりきれないのであれば、いっそのこと人間にでもなろうとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。そんなことをして人間になったところで、すぐに死神から回収されて終わりだというのに。

「そんなもの、とは言ったものじゃ。のう永逝、秘宝の保管庫が拙の執務室にある意味がわかるか?」

「大切なもの、だからだろう」

「そうじゃ。じゃがの、他の意味もあるのじゃよ」

 ディルクが目を細めて背後の壊れた扉を見る。先をなかなか言わないディルクに焦れたのか、デリクがあとを引き継ぐように口を開く。

「『誰の手にも渡ってはならないもの』だからだろ」

「……うむ、秘宝目当てに侵入するものすべてをねじ伏せられるようにのう。結局それすらできはしなかったが」

「それで、零落樹がなんなんだ」

 話が思うように進まないことに苛立ちながらも、ディルクに先を促す。するとディルクは儂を真っ直ぐに見た。

「零落樹は、神にも使える」

 部屋の空気が一気に重くなったように感じたのは、きっと儂だけだろう。この場にいてそれを知らなかったのは、儂だけなのだから。

「それはつまり、“主神を堕とす”ことすら可能……ということか?」

 答えは返ってこない。だが、それが確かな答えだった。
 この世界を創り、人間を創り、死神を創り、天使を創り、悪魔を創り、神を創った、すべての創造主である最高神。普通ならば誰も見ることさえ叶わない存在を、地に堕とす。それが、零落樹が誰の手にも渡ってはならない秘宝のひとつに数えられている由縁か。

「思うんだけどよお、鬼百合の目的って一体なんなんだ? 魂喰って悪魔に近づいてさあ、あげく零落樹を奪って逃走だろ? 俺さっぱりわかんねえんだけど」

「単に力に目が眩んだだけじゃないのか?」

「そうかなぁ〜? だって鬼百合ちゃんすっごくいい子だったしぃ〜、私利私欲で裏切るような子じゃないと思うんだけどなぁ〜」

 そう言うデリカに呆れてしまう。現に零落樹は奪われ、エマを含む数人の仲間たちは神具で襲われて、死の淵に立たされているというのに。

「魂のことはともかく、確かに鬼百合の行動にはわからぬ点が多々あるのう。中でも、特に気になるのは“飢餓のリリー”と悪霊に名乗らせたことじゃ」

「リリー……、つまり“百合”か」

「思えば副部長以上で百合ってつく名前は他にはいねえし、まんま自分のことだよな」

「それに飢餓ってのもよくわからないよねぇ〜。死神は飢えたりしないのにぃ〜」

 悪霊をけしかけたのは、魂を狩るための隠れ蓑だったことは明らかだ。だが、わざわざ自分に関わるヒントを残す意味がわからない。
 飢餓のリリー。この言葉になにかが隠されているように感じられて仕方がない。そして、どうやらそう思っているのは儂だけではないらしい。この場にいる全員が、今すべきことを理解していた。

「……俺たちは失血死部に行く。鬼百合のことなにかわかるかも知んねえしな」

「それにぃ〜 今失血死部には部長も副部長も不在で大変だろうしぃ〜、そっちも僕らでなんとかするよぉ〜」

「うむ、頼む」

 ディルクの返答を聞くや否や部屋を飛び出していったデリクデリカ。入るときも出て行くときも騒がしいのは変わらない。デリクデリカが失血死部の面倒を見ることになるなら、老衰部の副部長であるゼノフォンはさらに忙しくなるだろう。普段から仕事をしないふたりなため、さして変わりはないかもしれないが。
 しばしの沈黙のあと、ディルクが言いづらそうに儂の腹辺りを見つめている。

「永逝には、もう一度人界へ赴いてもらおうと思うておる。他に戦力になる手の空いた者もおらぬのでな……。度々すまぬのう」

「仕方ないだろう。相手が相手だ。中途半端な奴では返り討ちに遭うだけだろうからな」

 そもそも部長の仕事はほとんどがデスクワークだ。有限ではあるが無数に等しい魂を管理しているのだから、それらを統率している部長が抜ければ魂が正しく巡らなくなってしまう。それでは本末転倒だ。
 力があり、多少仕事に余裕があるのは、現時点で儂だけなのだから当然の判断だろう。ディルクとしては、神としての魂を狙われている儂を行かせたくはないのだろうが。

「……今回の人界行きの目的はふたつじゃ。ひとつは零落樹の回収および破壊」

「破壊していいのか?」

「うむ。もともと、神々から危険だから破壊したほうが良いのではないかと言われておったものじゃからのう。いっそ壊してしまえと思うての」

 さっきのデリクの熱弁ぶりから考えると相当なことを言っているのだろうが、詳しく知っていることじゃないため実感が薄い。

「ふたつめは鬼百合の捕縛。……抵抗するようなら、殺しても構わぬ」

 仲間を殺す。迷うことすら許されない状況なのはわかっていても、どうしてもためらってしまう。それは儂に両親を殺した過去があるからなのか。それとも強い仲間意識のせいか。
 どちらにせよ、今回に限っては不要な感情だ。

「鬼百合は、拙が保管庫に仕掛けておった罠で深手を負っておる。その傷が完全に癒えるまでに、捕らえることができると良いのじゃが」

「そう簡単にはいかんだろうな」

 改めて部屋を見返す。これほどまでの傷を負っても痛みに倒れず、冥府から逃げ延びることに成功した鬼百合。それほどまでの意志を持って動いている鬼百合を、儂が止められるのだろうか。


 それから零落樹の使用法や破壊方法の詳しい説明を受けた儂は、さっそく人界へ向かおうとディルクに背を向けると、呼び止められた。

「おぬしが見える人間がおると言っておったじゃろ?」

「……ああ」

「その人間の父親が鬼百合の入れ物になっておったなら、協力してもらった手前、事情を話す必要もあるじゃろうと思うてのう。鬼百合を探す前に、会いに行ってやったらどうじゃ?」

「そんな暇は、」

「1日程度ならば鬼百合も動けぬじゃろう。安心して行って来ると良い」

 穏やかな笑みを浮かべるディルクに、なぜだか、自分すら知らない儂のすべてを見透かされているような気がした。去り際に少しだけディルクを睨んで、儂はその場をあとにした。




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 苦しい。痛い。寒い。身体の中の血という血がすべて抜けてしまったみたいに、寒気が止まらない。けれどそれ以上に胸が痛かった。
 私は部長をこの手にかけてしまった。不意を突いて、背後から一突き。手には感触が、耳には呻き声が、肌には返り血が、すべてが残ってる。
 でも、仕方ないこと。こうするしかないのだから。私がこの飢えから解放されるためには、仕方のないこと。
 けれど、どうしてだろう。どうしても、どうしても、涙が、止まらない。


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 人間が行き交う町の様子もすっかり見慣れてしまった。あまり人界へ行く機会のなかった儂としては、多少感慨深くもある。そんな微妙な感情を隅に追いやりながら、町外れの厩舎に向かった。
 もうすっかり朝だというのに、その場所だけはなぜか陰鬱としていて息が詰まるような圧迫感がある。ところどころ穴の空いた天井から射す朝日を、埃が反射してきらめいている。そんな埃っぽい床に倒れ伏してぴくりとも動かない人間。すずの、義理の父親だ。
 鬼百合が憑依していたためか腐食は進んでいないが、すずの話から考えるにもうだいぶ前に死んでいたのだろう。うつ伏せに倒れた身体をとりあえず仰向けに寝かせ、ついている埃を軽く払う。実体を持たない儂らと違って、人間は死んだあとも身体だけを残す。それが乱雑に扱われれば、持ち主である霊魂が悪霊化してしまう場合もある。

「……この男はもう喰われているから心配ないか」

 死者への冒涜、神への反逆。鬼百合のやっていることはまさにそれだ。“神は世界のために、天使は人のために、悪魔は自分のために、死神は主神のために”。死神の在り方を誤ってしまっている。
 止めなければならない。そのためには、まず鬼百合が深手を負いどこへ行くかを知らなければ。
 ふと厩舎内を見回す。一体なにをしていたのか、壁の所々に血らしき染みがある。目を凝らしてみると、染みに見えたそれらは文字だった。儂らが使う感じて理解する文字ではなく、人間が使う規則性のある文字。
 近くまで歩いて行くと、かなりの数の走り書きがあった。自分の血で書いたのだろうその文字は、なにかに悶え苦しむように壁を這い回っている。この中に、すべてが書かれている気がした。儂やディルクが疑問に思うこと、そのすべてが。
 比較的古いものを探しだし、意を決してその文字を目で追った。


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 はじめまして、どこかの誰か。最初に謝っておきます。ごめんなさい。きっと、この文字を見てさぞかし驚いたことでしょう。でも、私にはこの思いを安いインクなんかで記したくはなかったのです。できれば私の身体の一部で記したかったのです。この、薄汚れた私の身体で。


 私は今苦しいのです。今まで感じたこともないほどの痛み、苦しみ、絶望、虚無、そのどれとも違う強烈な苦痛。他のひととは違う汚れた私でさえ感じたことがない、悲しみ、悔しさ。これはきっと感情では表すことはできないのでしょう。
 そう、例えるならば“飢え”。飢えの苦しみなんて味わったことも、想像もできないけれど、きっとこれは飢えなのでしょう。飢え、飢餓。私は、飢餓のリリー。


 見知らぬどこかの誰か、もしあなたが周りのひとから疎まれる存在として生まれてきたらどうしますか?
 私は、そうして生まれました。生きる意味も、死ぬ意味も、なにもわからずにただそこに在り続けました。そんなとき、死を目前にしているひとりの少女に出会ったら、あなたはどうしますか?
 あきらかにその少女のほうがひどい状況にあるのに、その少女に励まされたとしたらあなたはどうしますか?
 私は恥ずかしくなりました。少ないけれど理解してくれるひとが周りにいて、なによりも明日がある私がそれでどうすると。


 ある日、少女が殺されました。脳の病気で、もう長くない一生を精一杯生きていた少女が。殺したのは悪魔でした。私を地獄に堕としてしまおうと考えた悪魔が、その邪魔になると考えてあっさり殺してしまったのです。
 みんな、わかっていました。少女があと半月ほどしか持たないことは。私にも、少女にもわかっていました。悪魔もわかっていました。それなのに殺したのです。
 私を堕としたくて、私の、私のせいで、私のせいで、私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせいで私のせ──


 私が生まれてしまったから。私が生きてしまったから。私が死ななかったから。私が生きたいと思ってしまったから。私が最後まで見守りたいと思ってしまったから。
 すべては私のミスでした。最初から望まなければ、こうはならなかったのです。少女は短いながらも一生を精一杯生きて、安らかに眠るはずでした。それなのに、少女は一瞬で肉の塊にされてしまった。
 痛かったでしょう。苦しかったでしょう。もっと生きたかったでしょう。私と、薄汚れた私と出会ってしまったせいで、そんな味わわなくていい苦痛を強いられてしまったのです。


 そもそも、なぜ私は薄汚れているのでしょう。それは問うまでもなく、私が悪魔の穢らわしい血を引いているからです。
 そう、最初から簡単なことでした。悪魔がいたから私は薄汚れ、少女は殺されてしまったのです。
 どこかの誰かさん、知っていますか?
 悪魔は神が創ったものなのです。


 私はいまだ飢えに苦しんでいます。少女がいなくなってからというもの、この飢えは段々とひどくなってきているようです。このまま餓死してしまうのもいいかもしれません。けれど、私はこの飢えを癒す方法をひとつだけ知っています。
 すべての元凶である神を、殺してしまえばいいのです。


 どこかの誰かさん、ごめんなさい。神を殺す、だなんて驚かせてしまったことでしょう。でも安心してください。神が死んだって、この世界は壊れたりしません。神がいなくとも、世界は巡るのです。


 今日、下準備を済ませました。バレないように少しずつ集めていたものを、そのへんの奴に適当に分けてあげてきました。奴は私の隠れ蓑でありメッセージ。宛先は、もちろんあのひと。
 汚れてしまったあのひとならと思って仕掛けてみたけれど、あのひとは気づくでしょうか。


 どこかの誰かさん、ここまで付き合ってくれてありがとう。わけがわからなかったかもしれないけれど、読んでくれただけでも嬉しいです。どうしても、誰かに知らせたかったから。
 もし、最期まで付き合ってくれる気があるのなら、ここから12時の方向にある広場をたまにでいいから見ててください。私の復讐が叶う日、そこに白く大きな木がそびえ立つことでしょう。


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 文章はそこで終わっていた。血で書いてあるからか、またはその文字に込められた感情からか、赤黒く記された壁は痛々しく悲しげだった。
 悪魔の血が混ざっている彼女だからこその苦悩。彼女だからこその悲劇。儂は彼女と少し似ていると思っていた。それは彼女も同じで、だが同時に違うとも言っていた。今、はっきりした。鬼百合はかなりの大馬鹿者だ。
 一息吐いて、厩舎から外に出る。まだ低かった太陽も、完全に昇っていた。儂らの使う文字ならともかく、人間の文字などそうそう簡単に読めるものではない。当然、それ相応の時間もかかる。儂は感じる疲労を無視して、すずの家を目指した。