
それぞれ
いつ見ても綺麗に咲き誇っている、真っ青な紫陽花がある庭を訪れる。花について詳しくは知らない儂でも、その花の名前だけは記憶に残っていた。確か、冥府の誰かがとても好きな花で、よく造花を飾っていたのを覚えている。飾られていた作り物の紫陽花は薄紫色のものだったから、ここのものをはじめて見たときはこんなにも美しい青もあるのかと思った。
その紫陽花の庭を横切ると、戸を開けたままの部屋の奧に、青い着物を着た少女が壁に寄りかかって眠っていた。靴を脱ぎ、すずを起こさないよう慎重に部屋に上がる。閉じられた瞼を縁取る長いまつげが、白い頬に影を落としている。
父親が死んだと知らせれば、きっとこの目から流れるであろう涙を思いながら、無意識に伸ばしていた手に気づいて、引き戻す。親を亡くす痛みは、儂もよく知っている。だから今だけは、なにも知らないまま静かに眠らせてやろうと自然に思えた。すずの隣に腰を下ろして一息吐くと、今までの疲労のせいか一気に睡魔が襲う。そのまま、儂の意識もまどろみの中に溶けていった。
頬に掠める暖かな感触に目を覚ますと、すずが顔をのぞき込むようにして儂の頬に触れていた。あまりの近さに驚いて固まったまま見つめていると、すずが薄く頬を赤らめながら困ったように笑う。
「なにか言ってよ……恥ずかしいじゃない」
「……お前がしたことだろう」
「まあ、そうなんだけど」
くすくすと笑いながら身を引くすずに、少しだけ名残惜しく感じる。生きた人間の体温をここまで身近に感じたことはなかったからかもしれない。
どちらもなにも言わずに、ただ庭の紫陽花を眺める。以前は忙しなく話していたすずも、今日は無口だった。なにも言わなくても感じているのかもしれない。今から、父親のことを話されるのだと。
「約束通り、父親について知らせにきた」
儂が見てもすずは顔を合わせようとはせず、ただまっすぐに前を見つめていた。すずなりに、すべて受け入れる準備をしているのかもしれない。
「……お前の父親は、死んだ」
「っ……やっぱりそう、なのね」
「そう、とは……わかっていたのか」
「ううん。でも、あなたの様子が変だから……もしかしてそうなのかな、って……」
俯いたすずの震える声。泣くのを必死に我慢しているような、胸の痛む声ですずは言葉を紡ぐ。生憎、哀しみに耐える相手にどう声をかければいいのかわかるほど、他人と関わってこなかった。
壁を背に座っているすずの正面に膝を着き、痛いほどに強く握られた拳をほどこうとぎこちなく手を伸ばす。
「……程々にしろ、手が傷つく」
「やめて!!」
手が触れた瞬間、ヒステリックに叫んで手を弾かれる。まだ俯いたままのすずを、ただ見ていることしかできない。
「お願い……お願いやめて……。あなたにやさしくされると、わたし……わたし、泣いてしまうわ」
自分を抱き締めるように痛みに耐え続けるすず。ほどかれた拳に儂は少しだけ安堵する。
「よかった」
「……え?」
「儂は、お前にやさしくできていたんだな」
哀しむ相手にかける言葉すら知らない、あまりにも無知すぎる儂がすずに対してやさしくできていたのなら、結果はどうであれ安心した。すずは戸惑ったように俯いていた顔を上げ、潤んだ瞳に儂を映す。そこにいる儂は、薄い微笑みを浮かべていた。
「、ごめん……ごめんね、永逝……」
ぼろぼろと涙を流しながら、すずは儂の胸にしがみつく。
「わからんな……どこに謝る必要がある?」
「そうね……、ありがとう……」
静かに儂のコートの肩口を濡らすすずの頭を撫でながら、儂は少しずついままでの経緯を話していった。儂が死神であること、一連の事件は死神が起こしたものであるということ、その死神に父親が殺され、その肉体を身を隠すために使われていたこと、すべて。
聞いているのかあやしいと思っていたが、時々嗚咽混じりに聞こえる続きを促す声に、ちゃんと聞いているのだとわかった。
すべてを話し終わったときにはもうすっかり夕暮れになり、明かりのついていない部屋に夕日が射し込む。
「……そう、父を殺したのは死神なのね………」
「ああ」
だいぶ落ち着いたらしいすずは、ようやく儂の肩から顔を放す。目尻がほんのり赤くなっていて、痛々しかった。
「なんだか複雑だわ……、父の仇が死神だなんて、まるでそうなるべくしてなったようで」
「そんなわけないだろう」
「そうよね、わかってるわ。だけど……」
「だから、憎んでいいんだ。儂たち死神を」
すずの言葉に被せるように言う。すると、すずは苦しそうな切なそうな哀しそうな、そんなものがごちゃまぜになったような表情で儂を見た。
やり場のない憎しみは、いずれ自分の身を滅ぼす。そうなるくらいなら、他人を恨むほうがよっぽど楽だろう。
「永逝、あなたのそのやさしさは少し間違ってると思うわ」
「そんなつもりは……」
「わたし、永逝が好きよ。だからあなたのこと……恨めるはずないじゃない」
どういう意味合いかはよくわからない。だが、その“好き”という言葉には収まりきれないほどのぬくもりを感じた。戯れ言をと一蹴することもできたが、そのぬくもりはディルクたちから感じるそれと似ていて、とてもそんな気にはなれない。
「ねえ永逝、わたし夜風にあたりたいわ。少しだけ外に連れて行ってくれないかしら」
「身体を冷やすぞ」
「ならその上着を貸してちょうだい」
「……他の人間に見られたら、」
「なら見られないようなところへ連れて行ってちょうだい」
頑として譲る気のないすずに言われ、儂は渋々上着を脱いだ。それを乱雑に被せて、すずを抱き上げる。
「やだ、本当に貸してくれるの?」
「儂のせいで身体を壊されては困るのでな」
「ふふ、素直じゃないわね。──きゃあっ」
すずが言葉を言いきるや否や、屋敷の上空に飛び立つ。鬼百合に能力がバレていない以上、やたらと力を使うことはできないが、動けないであろう今だけなら少しくらい構わないだろう。
すずが小さくなった自分の家を見て目を白黒させている。
「き、気のせいかしら……。いま、飛ぶというより空に落ちるような感覚だったような気がしたのだけれど……」
「気のせいじゃない。儂の死神の能力は“重力操作”だからな」
「……?」
「理解できないならそれでいい。自在に飛べる能力とでも思っていろ」
無重力状態のせいで、ふわふわと泳ぐ儂の髪とすずの髪が混ざり合う。
人間と必要以上に関わってはいけない。人間を知りはしても、得てはいけない。それが死神であったはずなのに。儂はどうしてこれほどまでにすずに惹かれ、痛むほどに焦がれ、その心を得たいと思ってしまうのだろうか。
「……不思議ね」
「何がだ?」
「わたし、唯一無二の父を亡くしたというのに……それほど悲しくないの」
「儂のコートをそれだけ濡らしておいてよく言う」
「もう、茶化さないでよ」
軽く睨んだあと、やわらかな笑みを浮かべるすず。
「きっと永逝がそばにいてくれるおかげだと思うわ」
「………そうか」
「ふふ、照れてるでしょう」
「馬鹿を言え」
夕日がすっかり沈むまで儂とすずは上空でいろいろなことを話した。
何気ない日常のことやくだらない世間話、自分の家族のことや好きな食べもののこと。どうやらすずは野菜が好きらしく、特に大根が好きだと熱く語っていた。野菜を食べたことがないと言ったら、一度は食べてみるべきだとすすめられた。すべてが終わったら、食べてみるのもいいかもしれない。
話している途中で寝てしまったすずを部屋に寝かせ、儂も部屋の隅に腰を下ろす。久々に長時間能力を使用したおかげで、少しばかり疲れた。
儂は安らかに眠るすずの寝顔を眺めながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
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それは唐突に起こった。嫌な胸のざわめきに目を覚ますと、乱れた布団にすずの姿はない。不安になって立ち上がり縁側に目を移すと、すずが呆然と空を見つめていた。ほっと胸をなで下ろしつつ、声をかける。
「すず、どうした?」
「永逝……!」
儂の声ではっと我に返ったように振り返り、不安げな声と表情で儂を見上げる。何かを伝えようとしているすずの次の言葉を待った。
「あれ見て……」
すずの指さすほうを見るために縁側に出ると、外はすっかり闇に飲まれていた。ぽっかりと夜空に浮かぶ満月の明かりが、儂らを照らしている。だが、儂が見たのは空だけではなかった。
夜闇に包まれる町が、闇を切り裂くように空に向かってそびえる、薄く発光した白い巨木に照らされている。
「くそ、もう動いたか……」
「やっぱりあれが“零落樹”なのね」
儂が言うまでもなく、すずは理解しているようだった。
死神を人間に、神さえ人間に。この世に在るすべての者を人間にする力のある“零落樹”。だが、通常その使用は不可能に近い。ディルクから聞いたところによると、もともと小さな種子の状態である零落樹を育てるためには使用者の魂が必要になる。しかし、使用者単体の魂では到底足り得ぬ量らしく、使用者の魂がそれこそ純血の神並みに膨大であれば話は別だが、大抵は使用者が死に終わる。
そのことから、鬼百合が人間の魂を奪い喰らっていたのは自分の魂の増大のためと推測できた。弱って体力も万全でない鬼百合ならまだ少し猶予があるかと思っていたが、どうやらそんなに待ってはくれないらしい。
「………行くのね」
「……ああ」
部屋にあったコートを着る儂に向けて、すずは消え入りそうな声で問う。すずにとって鬼百合は父親の仇だ。それに儂が会いに行くというのだから、内心穏やかではいられないだろう。
縁側から庭に出たところで、すずの呼び止める声に振り返る。
「わたしも連れて行って」
「……人間を儂らの問題に巻き込むわけには、」
「あそこにいるひとは、わたしの父を殺したひとなんでしょう? だから、わたしそのひとからちゃんと父の最期を聞きたいの。どうして父だったのか……聞きたいの」
まっすぐに儂を見つめる瞳には曇りがなかった。復讐や憎しみという感情はなく、ただ知りたい。それだけを映す瞳だった。
どうしてここまで強くあれるのだろうか。儂は両親を殺めた自分が、左手が、憎くて憎くて仕方がなかったというのに。もし儂がすずと同じ立場なら、必ず鬼百合を殺そうと躍起になったはずだ。
そうしてしまうと簡単に予想できる自分がひどく弱い存在のように思えて、思わずすずから目をそらす。
「鬼百合はお前にも襲いかかるかもしれないぞ」
「手を出してきたら、この手で殴ってやるわ。わたし、足がない代わりに腕力だけはすごいのよ。それに、あなたが守ってくれるでしょう」
儂のプライドにかけて、守れないとは言えない。部長である儂が副部長の鬼百合に負けるとは微塵も思っていないのも事実だ。
そんな儂の性格を見抜いていたのか否か、儂が仕方なく頷くと、すずは面白そうに笑うのだった。