
戦闘開始
すずを抱えて森の中を駆け抜ける。暗闇の中でも、あの薄く発光している零落樹のおかげで方向感覚をなくしてしまうことはなかった。遠目から見るとあまりわからなかったが、まだ成長段階とはいえ零落樹は途方もなく巨大だ。
魂が足りていないのか、それとも深手を負ったせいで体力が追いつかないのか、どちらにしろ今のところこれ以上成長する気配はないが、いつ鬼百合が魂の供給を再開してもおかしくはない。急いだほうがいいだろう。
「しっかり捕まっていろ」
言うや否やスピードを上げる。もはや人間が出せるそれではない。落下するような浮遊感に怖がっているのか、すずは返事もせずにただ儂にしがみついている。
間もなく木々を抜けると、白く巨大な木の根本が見えた。
「永逝……あれは、なんなの……?」
すずが呆然と指差す先は木の根本。太い根っこと地面の間には、何かが挟まっているように見える。ぱっと見、それがなんなのかはわからないが、目を凝らせばすぐにわかってしまう。
それは、無数の人間の手足だった。
「生贄よォ、アタシのためのねェ」
木の上からゆっくりと降りてくる人影。コウモリの羽を背中に背負い、右側頭部だけに生えた大きな角。尻尾はなく、不完全な悪魔の姿をしたその人影は間違いなく、鬼百合だった。美しかった金髪は角の生えた右側だけが黒くくすみ、左腹部から太腿の中腹辺りまで続く、まだ塞がりきれていない治りかけの傷口が血で汚れている。
鬼百合は儂が抱えるすずを見ると、おかしそうに口元を歪めた。
「あらあらあらァ? 珍しいのを連れてるわねェ、もしかしてアタシへのおみやげェ?」
「そんなわけないだろう」
「でもォ、こォんなところに連れて来るなんてそうとしか思えないじゃなァい? だって──」
咄嗟に抱えていたすずを草むらに放る。直後、鬼百合の神具が儂の胸元の服を軽く裂く。すずを手放していなければ、今ごろすずは肉体と魂を強制的に剥離、つまりは殺されていたかもしれない。
「こんなふうに襲われちゃうわよ」
すぐに左手をかざすが、ひらりと宙を舞い、鬼百合は元の位置に戻る。その目は心底楽しそうに歪んでいた。
「……すず、怪我はないか?」
「ええ、平気よ。わたしのことは気にしないで。それより、あなたは平気なの?」
「愚問だな」
軽くすずとやりとりをしている間も、鬼百合はまるで観察でもしているかのような目で興味深そうにこちらを見ていた。死神を見聞きできるすずが気になるのだろう。
「アンタってェ、すずっていうんでしょ?」
「わたしを……知ってるの?」
「もちろんよォ、アタシが入ってた肉体の子供だものォ。残留思念で伝わってきたわァ、アンタの父親の記憶がねェ」
「残留思念……?」
意味がわからないのか、言葉を反芻するすずに続ける。
「残留思念とは、魂の抜けた肉体に残る心の断片のことだ。……だいたいは死ぬ瞬間の恐怖ばかりだが、そのとき強く思っていたものが残ることもある」
「そう……父は、最期までわたしのことを……」
涙ぐむのをこらえる気配を背中に感じながら、儂は内心ほっとする。すずの父親が死ぬそのときまですずのことを思っていたことで、少しでもすずの心が軽くなるのならいいと。
ふと、鬼百合の表情が陰る。だが儂の視線を感じてか、すぐにさっきまでと寸分違わぬ嫌な笑みを浮かべた。
「でもよかったわァ、永逝さんがきてくれてェ。アタシの集めた魂の残量ももう少ないのよォ、だから急いで調達したんだけどォ……まだまだ足りなかったみたいねェ」
町から調達されたのであろう人間たちは、今や見る影もない。その代わり、零落樹からは無数の霊魂の気配を感じる。白く大きなそれは、ある種の神々しささえ感じてしまうほどのものではあるが、死屍累々の光景を見てからではおぞましさしか感じない。
自分を人間に堕とすために自分の愛する人間をここまで殺されておいて、何もしない主神の神経を疑う。いや、そもそも、人間に害を与える悪魔を生み出した時点で、儂には主神の考えなど到底理解できないが。
「まさか、この儂を零落樹の養分にするつもりか?」
「んふふ、そうよォ。部長レベルの死神でも魂の密度は人間とは比べものにならないわァ……それに加えてアンタは“神”だものォ、それも人間が成ったまがいものじゃなく“七情神”の純血じゃなァい。養分としてはおつりが来るくらいよねェ?」
楽しそうにケタケタ笑う鬼百合。神と呼ばれるあまりの不愉快さに、思わず眉を顰める。
「貴様はどうも勘違いしているようだな」
「ん〜? 何がよォ」
「その頭は飾りか? 儂は普通課病死部部長、閻魔が子息“四百四病の永逝”。副部長ごときにこの儂が破れると1ミリでも思っているのなら、愚かを通り過ぎて哀れだな」
鬼百合の顔からみるみるうちに余裕は消え失せ、怒りが顔を染める。悪魔のなり損ないのような姿をしていながら、まだ死神としてのプライドを持っているのだろうか。だが、それもすぐに嘲笑によって隠された。
「世情に疎いアンタは知らないかもしれないけどォ、アタシは悪魔とのハーフってだけで副部長までにしかなれなかったのよォ。つまりィ、実力は部長クラスってことォ」
「それは知らなかったな」
笑みを深める鬼百合。
「──だが、貴様が儂に勝てる可能性がゼロなのに変わりはない」
一気に間合いを詰め、左手をかざす──が、鬼百合は素早い動きで儂の手が届かない高さへ飛び上がる。
「“神は空を飛べない”……これって何気に真理よねェ」
「……そうだな。だが、これでは貴様の攻撃も当たらんだろう。さっさと下りてこい」
「嫌よォ、永逝さん強いしィ」
それに、と続けながら鬼百合は神具を手の中に出現させ、細く鋭利なそれの刃を儂の頭上にかざす。鬼百合の手の中にあった神具が、蝋燭を吹き消したようにふっと消える。
「──ぐっ!?」
左肩に走る鋭い痛みに目を向けると、さっきまで鬼百合の手の中にあったはずの神具が、深々と儂の肩に刺さっていた。黒いコートをじわりとさらに黒く血が染める。引き抜こうと手をかけようとした瞬間、今度は唐突に姿を消した。
途端に溢れ出す血に、遠く背後からすずの声が聞こえる。
「永逝……!」
「物質転移……アタシの能力よォ。まあ、小さなものを目に入る範囲にしか飛ばせないしィ、手に触れてないと無理だからァ、呼び戻せる神具しか跳ばせないけどォ」
「ベラベラとよくしゃべる奴だな。儂にそこまで話していいのか?」
「わかっても意味ないからいいのよォ」
にっこりと笑う鬼百合の手には、また神具が儂に向けて翳されていた。その先端はどこに刺そうか悩むかのように、ゆらゆらと不安定に揺れている。
神具による傷は、たとえ純血の神であっても容易に治すことはできない。人界の刃物などと違い、精神体に直接働きかけるものだからだ。
血の滲む肩を見て、ため息を吐く。肩をやられたせいか、腕にうまく力が入らない。これでは左腕を動かすことすらままならないだろう。能力を使わなければの話だが。
「鬼百合」
名を呼ぶと、鬼百合は不可解そうに神具を翳したまま儂を見つめる。
たとえ半身悪魔だろうが、友人であるエマを傷つけられようが、裏切り者だろうが、鬼百合は仲間だ。仲間を殺すということを自ら選べるほど、儂は薄情でもなければ酷薄でもない。
「貴様にひとつ選択肢をやろう」
「……選択肢ィ?」
「いまここでおとなしく捕まるか、儂に殺されるか。好きなほうを選ばせてやる」
「っぷ、くく、あははははっ!! 選ばせてやるゥ? この状況でよくそんなことが言えるわねェ、永逝さん?」
予想通りの返答に、儂は再びため息を吐く。やはり、儂には選択肢が用意されていないらしい。
「ほんっと、オカシなことを言うわねェ。いったいどうしたのォ? 同情するくらいなら、生贄になってくれるほうが助かるんだけどォ」
「……馬鹿も休み休み言え」
ふんと鼻を鳴らして、上がらないはずの左腕を頭上の鬼百合に向かって翳してみせる。それを見て鬼百合は驚いたように目を見開く。
「おかしいわねェ、ちゃんと関節を狙ったはずなんだけどォ?」
「関節を貫けば動かせなくなるとでも思ったか?」
そのままふわりと浮かび上がり、固まったまま呆然と儂を見つめる鬼百合の目線と儂のそれが真正面でぶつかる。ここまで隠し通してきた能力だったが、もうこれ以上隠しきれはしない。その必要もない。
「なん、で……」
「なぜ、貴様は儂にそう問うのか? ……この“四百四病の永逝”たる儂にか?」
「まさか死神の……そう、そういうことね」
俯き加減でぽつりとひとり納得したようにつぶやくと、鬼百合の黒い髪のくすみが金髪を侵蝕するかのように少しだけ広がる。それはまるで鬼百合の胸中のせめぎ合いのようにも見えた。
ばっと顔を上げた鬼百合は、恐ろしいほどいつも通りに口角を上げる。
「永逝さんは、あくまでも“死神”だって言いたいのねェ? 自分が神だって……認めない気なのねェ?」
念を押すように何度も何度も同じことを聞き返す鬼百合。儂を映すその赤い瞳は、揺れている。
「貴様は何もわかっていない。儂は──」
「もういいわ!!」
鬼百合の一際大きな声が儂の言葉を遮る。もう何も聞きたくも見たくもないというふうに、鬼百合は顔を背けた。そして、背後の零落樹を見上げながら、自嘲気味の声音を響かせる。
「……やっぱり、永逝さんとアタシは同じだけどぜんぜん違うわァ。アンタの言葉はアタシに届かないものォ」
「……──」
「だから、」
振り向きざまに神具が翳されるのを見て咄嗟に体を反らすが、避けきれずに頬が薄く裂ける。力を使っていなければ、完全に脳天に突き刺さっていたことだろう。
「せめてアタシの役に立ってよねェ!」
さっきまでの暗い影は消え去り、鬼百合の顔はまるで悪魔のように狂気に歪む。片方の角と尾がない不完全な悪魔は、死神より死神のようで、悪魔より悪魔のようだった。
「……いいだろう。そんな中途半端な姿で儂に勝てると思うなら、相手をしてやる。その考えを捨てざるを得なくなるほど、徹底的にな」
言い終わると同時に鬼百合に重力をかける。目の前を悠然と飛んでいた鬼百合が地面に吸い込まれるように不自然に落下する。と、ほぼ同時に儂の右足の太腿を抉る神具。地面と激突する直前にこちらに跳ばしたのだろう。
痛みに気が散って落下してしまいそうになるのを、なんとか堪える。肉を多少抉られてはいるが、骨や筋肉はそれほどダメージを受けていない。だが、場所が場所だからか、出血は多い。すぐに左腕のコートの袖口を破り、ほとんど動かない左手で支えながらなんとか縛る。左肩の傷もなかなかにひどいが、動きを封じるためだったからか、それとも手を抜いたのか、それほど出血は多くはない。
「ぅ……ごほごほっ、は、……ふふ、膝狙ったのに外れちゃったわァ。でもォ、もうそんなにボロボロじゃなァい……」
「……貴様ほどではないがな」
かなりの重さで落下した鬼百合は、かろうじて飛べてはいるが、見てわかるほどに無理をしていた。落下の衝撃で閉じかけていた傷が開いたのか、腹部から左太腿にかけてとめどなく血が溢れ、内臓もやられたのか、苦しげに血を吐いている。