見えざる角【後】


 ふわあ。間抜けな声を出しながら思わずあくびをする。もちろん手で少しは抑えたものの、あまり効果はない。暖かな春の日差しは確かに眠気を誘うけれど、そればかりが原因ではない。
 昨日一気に話を聞いたせいか、ベッドに横になってもずっと頭が冴えていてなかなか寝つけなかった。それなりに冷静に話を聞けたと思っていたのだけれど、意外と精神的にきつかったのだろうか。自分の知らない世界があるということが明確になったのだから、当然の反応なのかもしれない。
 でも、それでもいつまでもこんな調子はよくない。彼と関わっていくと決めた以上、これからもこんなことは頻繁に起きる。慣れていかなくちゃならないのだ。
「とは言え、世界規模の話はさすがにキャパオーバーかな……」
「な〜にが世界規模だって?」
 窓の外を見ていた視界に、前の席から身を乗り出してこちらを覗いてくる顔。
「アスミちゃん」
「どしたの? 大きなあくびかましちゃって。悪夢は見なくなったんじゃないの?」
「あ、ううん。違うの、これはちょっと……考え事してたら寝不足になっちゃって」
 あははと思わず取り繕うように笑う。アスミちゃんの訝しげな視線に耐えつつ、どうしようかと頭を働かせる。
 そもそも悩み解決屋の噂を教えてくれたのは他でもない唯一の友人、アスミちゃんだ。謂わば彼に次ぐもうひとりの恩人なわけなのだけれど、彼女に事の顛末は話していない。というか普通に考えて話せるわけがない。特にアスミちゃんには。
「考え事? なになに、なんか悩みあんの?」
「ええ? あはは、悩みなんてないよー。ほら、やたらくだらないこと考えて眠れなくなったりすることあるでしょ?」
「ふーん?」
 あ、これはあきらかに信じてない目だ。内心焦りつつも、表面的には努めて平常心に徹する。
 彼に口止めされてない以上、話してしまってもいいのかもしれないけれど、話せばアスミちゃんは必ず積極的に関わりたがる。できれば彼女には危険な目には遭わせたくないし、一歩間違えれば死ぬところでしたなんてとてもじゃないけれど言えない。心配はかけさせられない。
「まあ、ハンナがそう言うなら納得してあげるけど、どうしようもなくなったら話してよね」
「……ごめんね」
 そのまま窓の外を眺めながら他愛ない話をしていて、ふと思い至る。そういえばアスミちゃんの交友関係はとても広くて、この学校の大体の生徒とアスミちゃんは友達だったんだ。
「あのね、ちょっと聞きたいことあるんだけれど……A組の佐藤恵奈さんって知ってる?」
「ああ、佐藤さんね。知ってるよ。大人しくて小動物みたいな子だよね」
「うん、その子。佐藤さんって……えっと、ど、どんな子かな?」
 聞くことを決めてなかったせいでアバウトな質問になったけれど、たぶん方向性は間違ってない、と思う。
「うーん……あたしもそんな仲いいってわけじゃないんだけど、見た目より意外と強い子だと思うよ。まあ、溜め込みやすいのは確かかな」
「溜め込みやすい?」
「そう。ストレスとか哀しみとか、そういう胸のもやもやーっとしたのをさ」
 言われてみれば、そんな感じもするかもしれない。大人しくて、言いたいことを思うように言えないような。けれど、昨日彼に対してはすぐ謝ったものの、はっきり苛立ちを露わにしていた。そこらへんが意外と強いということだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、私は再び窓の外に視線を戻した。


 夕日に包まれる学校は不思議な雰囲気を持っていると、最近よく思う。それは夕方にしか会えない彼を知った今だからなのか、それとは関係ないのかはよくわからない。ただ、この不思議な空間でなら、信じられないようなことも相応しく思えてくるのだ。例えば、角の生えた女の子とか。
 昨日の彼の言葉通り、誰もいなくなった教室に現れた佐藤さんは、なにかを決意したような真剣な眼差しで早く彼に会いに行こうと促した。私はそれに反対することもなく、いつも通り机に触れた。


「どうするか決まったかな」
 認識世界に来るなり、彼は佐藤さんに向かってそう言った。その声と表情は相変わらず人の神経を逆撫でるようなものだったけれど、佐藤さんは怯えつつもはっきりと頷いた。
「い、一時しのぎでも、いいです……だから、これを……なくしてほしい……これは……」
 なにかを言いかけた口を閉じ、ぎゅっと固く握りしめた拳を震わせる佐藤さんに、彼はらしくもなく残念そうに小さく「わかった」とだけ返事をする。
 どうしようもない違和感が思考にまとわりつくようで気持ちが悪い。佐藤さんは一体なにを隠しているのだろう。その言葉の続きはなにを言おうとしていたのだろう。彼だけはそれを理解している。彼だけは、佐藤さんの本当の悩みを知っている。今、彼はなにをしようとしているのだろう。
「あ、あと昨日は説明し損ねてたけど、僕も慈善家じゃないんでね。タダで……というわけにはいかないんだよ。それでもいい?」
 佐藤さんの顔が強ばる。どこからどう見ても怪しいひとに、代金を払えなんて言われたら、そりゃあ緊張もするだろう。いつしかの私がそうであったように。
「その……あんまりお金はないんですけど……」
「ああ、いや、支払うのはお金じゃないよ。それに、今回は邪魔が多かったうえに完治するかもわからないからね。安くしとくよ」
 邪魔と言いながら私を見るのはやめてください。と思いつつ、口には出さない。割と邪魔だった自覚があるからだ。
「お金じゃないっていうのは一体……」
「うん、まあ気になるよね。でも危ないことじゃないのは確かだし、一瞬で終わることだから。詳しい内容を教えたいところだけど……今はちょっと無理なんだ。ごめんね」
 顔に「君がいるから教えられない」と書いてある気がする。確かに私は邪魔者かもしれないけれど、人に教えられないような代金を要求するのもどうかと思う。
「……わ、わかりました。私ができることなら」
「よし、じゃあ契約成立だ。君の悩みをなくしてあげる」
 にやりと笑う彼に佐藤さんはぎこちなく笑い返す。
「じゃあ、取ろうか。帽子脱いでくれるかな」
 言われるがままにキャスケットを脱いだ佐藤さんの額には、相変わらず小さな丸みを帯びた角が生えていた。彼はそれを改めてまじまじと見ながら、なにか納得したように軽く頷く。
「ちょっと痛むかもしれないけど、我慢してね」
 佐藤さんの返事を聞く前に、角だけにそっと触れる。すると、彼が触れた角の先端からするすると解けるように、角が消えていく。
「い、痛っ」
 佐藤さんが思わず一歩下がったときにはもう、その額にあった角は影も形もなくなっていた。
「す、すごい……今のどうやったんですか!?」
「ちょっと浄化しただけだよ。たいしたことはしてない」
 いつしかと同じことを口にしながら、ほっとしたように彼は息を吐く。佐藤さんは信じられないようで、角があったあたりを手でぺたぺたと触っていた。
「こんなあっさりなくなるなんて……」
「まあ、あの程度なら楽だよ。だからこそ、また生える可能性も高いんだけどね」
 なんてことないような軽い調子でそう言うと、くるりと今度は体ごと私のほうを向いた。
「それじゃあ、お邪魔虫はここで退散してもらおうか。またね」
「えっ、ちょっと待っ──」
 額を人差し指でつんと軽くつつかれただけで、私の視界は暗転する。気持ちの悪い一瞬の浮遊感のあと、目の前に広がる夕方の教室には誰もいなくなっていた。いや、いなくなったわけじゃないのを私は知っている。私だけが認識世界から追い出されたのだ。
「そんなに知られたくないこと……なのかな」
 脳裏にはこの間本で見た醜悪な悪魔の姿が過ぎる。あの澄んだ空気を纏うひとが、悪魔なわけないとは思うけれど、ここまで徹底的に隠されると疑ってしまう。
「……ううん。悪魔は悪魔でもいい悪魔なのかもしれないし、それに、なにを要求されたかは帰ってきた佐藤さんに聞けばいいよね」
 そうだ。別に佐藤さんから聞き出すなとは言われていないし、いくら佐藤さんに口止めしたとしても、こちらの世界に干渉できない彼にはどうしようもないだろう。少し罪悪感はあるけれど、彼の正体を突き止めると宣言したのだから、やれることはやるべきだ。
 決意を新たに、私は教室で佐藤さんが現れるのを待った。


 佐藤さんが姿を現したのはそれからしばらくしてからのことだった。私としては、かなり驚いた。なんと、佐藤さんは音もなくふっと姿を現したのだ。確かに、今まで誰かが認識世界から帰ってくるのを見たことはなかったけれど、端から見るとこうなっていたのかとかなり驚いた。もしかすると、私が毎回向こうに行くときもこんなふうにして現れているのだろうか。だとしたら、彼はよく驚かずにいられるなあと無駄に感心した。
「佐藤さん」
 ぼうっとした様子の佐藤さんに声をかけると、ぱちぱちと目を瞬かせる。認識世界との行き来に未だ慣れないのだろう。あれは少し気分が悪くなる。
「大丈夫? 気分悪い?」
「あ……ううん、大丈夫」
 控えめな笑顔を見せる佐藤さんに胸をなで下ろし、帰ろうとする佐藤さんを呼び止める。
「藤里さん……どうかしたの?」
「あの、口止めされてるかもしれませんけれど、彼になにを要求されたのか知りたくて……教えてくれませんか?」
 正直にそう話すと、佐藤さんは手に持っていたキャスケットを被りながら、心底不思議そうに首を傾げた。
「……誰の話?」




 今朝は、さすがに登校するのを躊躇う程度には、絶不調だった。なかなか寝付けないなんてものじゃなく、まったく寝付けずに、気がついたら朝になっていた。本当にびっくりするくらい早くに日が昇ったので、地球の自転速度が変わってしまったのではないかとニュースを真剣に見てしまう程度には、混乱していた。
 昨日、結局佐藤さんはなにを要求されたのか一切教えてくれなかった。教えてくれないどころか、彼に関する事象すべてをすっかり忘れてしまっていたのだ。忘れた、というのも語弊があるような気がする。あれはもはや記憶喪失の域だろう。
 さすがに覚えてないなんてことあるはずないと思い、いろいろと聞き出したところ、佐藤さんは認識世界での出来事すべてと、悩み解決屋のこと、果ては自分の悩みだったはずの角が生えていたことさえ綺麗さっぱり忘れていた。かろうじて私のことは覚えていたけれど、なぜ出会ったのかは曖昧なようで、はっきりとは答えられずにいた。
 これは、彼の仕業なのだろうか。いや、それ以外にありえないだろう。彼に関することを中心に忘れているのだから。だとすると、なんのために。やっぱり口封じのためだろうか。それほどまでに、知られたくないことなのだろうか。
 いくら考えても答えは出ない。それならば、本人に聞くしかないだろう。答えてくれるかはわからないけれど。


「──じさと。藤里ハンナ!」
「は、はいっ」
 ぼんやり廊下を歩いていると、名前を呼ばれて飛び上がる。いけない。ただでさえ考えることが多すぎるのに、寝不足で注意力も散漫になっている。これじゃあ、彼に会ってもすぐはぐらかされて終わってしまう。気をつけなければ。
 自分に言い聞かせつつ振り返ると、白衣を着た先生がいた。確か化学教師だ。
「藤里くん、大丈夫かい? どこか調子が悪そうだけど」
「大丈夫です……すみません。あの、なにか?」
「そうだ、君、A組の佐藤恵奈くんと最近仲がいいらしいね」
 まさしく今考えていた名前を出されてどきりとする。
「は、はい、そうですけど……」
「そっか……それならよかった。あの子にもちゃんとした友達ができたんだね」
 心底安心したような先生に首を傾げると、困ったように笑いながら頭を掻く。
「あの子、佐藤くんはどうやらクラスで浮いてるようでね。心配してたんだよ」
「そう、なんですか?」
「うん。だから、君もあの子のこと気にしてあげてね」
 それだけ言うと、先生は白衣を翻して去っていった。
 佐藤さんがクラスで浮いている。そんな話聞いたこともなかった。言われてはじめて、私は佐藤さんのことをろくに知らないことに気づいた。
 彼の言っていた、もうひとつの佐藤さんの悩みって、なんなのだろう。どうして、角が生えたのだろうか。


 とにもかくにも、今は彼に会うことが最優先だ。なにせ、今の佐藤さんにどうして角が生えたか心当たりがあるかと聞いても、角が生えていたことなんてない、もしくは人に角なんて生えるわけない、と答えるだろうということは目に見えていたからだ。今、私の抱える疑問にすべて答えられる可能性があるのは、彼しかいない。
 いつもなら生徒がほとんど下校してしまった時間帯を狙って彼に会いに行くところなのだけれど、今日ばかりは待っていられずに、教室に人がいなくなるなりすぐに机に触れた。もしかすると拒否されるかもしれないと思ったけれど、予想に反して机はぬくもりを持っていた。私のしつこさを身を以て体験したからなのかもしれない。
 机に吸い込まれ、一瞬の浮遊感のあとにゆっくりと瞼をあげると、古びた机の上に行儀悪く座った彼が、私に背を向けて外を眺めていた。珍しく趣味の悪い帽子も脱ぎ、フードすら被っていない。私が来たことに気づいてはいるのだろうけれど、関心がないようだった。
 落ち込んで、いるのだろうか。わからない。けれど、声をかけるのを躊躇わせるような、寂しい背中をしていた。
「あの子、佐藤さんだっけ。僕のこと忘れてた?」
 沈黙を破ったのは彼だった。常日頃のような鬱陶しいほど弾んだ声ではなかったけれど、別段落ち込んでいるというほどでもないのか、明日の天気でも聞くようなあっけらかんとした声だった。
「……はい、忘れてました。あなたのことも、自分の角のことも」
「あはは、だよね」
 けたけたと笑いながらこちらを振り向いた彼と目が合う。私はどんな顔をしていたのだろう。余程おかしな顔でもしていたのだろうか。泣けるほどに。
 私を見た彼は、くしゃりと一瞬顔を歪めて、それでも無理に笑顔を作る。いつも張り付けたような胡散臭い笑顔の彼とは似ても似つかない、下手な笑顔だった。
「君の聞きたいことはわかるよ……僕に関わるなら、絶対に避けては通れない道だからね。だから、僕は君に答えてあげるつもりだったんだ。それで、終わりにしようと思ってた」
 震える声で心情を吐露する彼の言葉を、ひとつとして聞き漏らすことのないよう耳を澄ます。幸いこの世界は静かだ。あまり難しいことではない。
「でも……君ほど長く付き合った人は久しぶりでね。今さら寂しいとか、少しだけ思っちゃったよ」
「……よく、わからないですけれど、寂しいって思うのはあたりまえのことだと思います」
「うぅん、まあ、普通はそうなのかもしれないけどね。……で、どうする? なぜ佐藤さんの記憶がないのか、聞きたい?」
 またすぐにけろっとした様子で彼が問う。感情を隠すのがうまいのか、それとも演技だったのか。どちらとも言えない程度には、彼の今の表情は読めない。それでも私は、薄く浮かべられた笑みの奥に、泣きそうな顔が隠れているような気がしていた。
「聞きません。聞いたら、佐藤さんみたいに記憶をとってしまうんでしょう? あなたを忘れるくらいなら、聞きません」
 ぱちぱちと目を瞬かせて、彼は首を傾げた。
「あれ、いいの? このチャンス逃したら、もう本当になにも教えてあげないよ?」
「いいんです! 佐藤さんになにをしたのかは知りたいですけれど……言いたくないならいいです」
「ふぅん……馬鹿だね、君」
 言いながら彼は趣味の悪いライムグリーンの帽子を被り、フードを被る。ほとんど表情が隠れてしまったその影の下で、彼の笑顔を見た。
 やっぱり佐藤さんの記憶がないのは彼が原因だった。それさえわかっていれば、今はいい。記憶を奪う理由も、代金も、彼の正体に繋がることなのだろう。そして、彼は正体が明かされることに怯えている。それは今回はっきりした。彼は教えられないのではなく、教えたくないのだ。
「あ、でも、いつかは私が独自で突き止めますからね。そのときは記憶とらないでくださいよ」
「さあ、どうだろう。それは保証できな──」
 言葉が不自然に途切れた彼が、はっとしたように顔をあげる。つられて私も彼が見るほうを見たけれど、そこには特になにもない。
「あの、どうかしました?」
「君、今すぐに帰って」
 がたんと激しい音を立てて彼が机から飛び降りる。近距離に立つ彼に思わず一歩後退さると、彼はさらに二歩近づく。彼の帽子の鍔が額にあたりそうなくらいの距離に、目が回りそうになるのを必死に耐える。
「あっ、ああああの、な、なにを、」
「佐藤さんが危ない」
「えっ……?」
 言われたことが理解できずに瞬く。佐藤さんが危ないと、彼は言っただろうか。
「やっぱり、角を取っただけじゃだめだったみたいだ。原因を取り除かなきゃ、本当の意味であの子は救えない」
「ちょ、ちょっと待ってください。私にはなにがなんだか……」
「いいから、君は戻ってすぐにあの子に会いに行くんだ。本当は僕が行ってあげるべきだけど、それはできないから……いつでもいい、できるだけ早くにここに連れて来るんだ。わかった?」
「え、え?」
「返事は!」
「は、はいっ!」
「よし、それじゃあ戻すよ。いいかい、僕はいつでもここにいるからね」
 わけもわからぬまま、勢いに流されて頷くと、彼は私の肩に触れた。引力に引き寄せられるように視界が暗転して、気がついたときにはもう元の世界に戻っていた。
「なん、だったの……」
 呆然と立ち尽くしていると、すぐそばにあった机がガタンと誰かに蹴り上げられたように激しく揺れる。いや、蹴り上げられたように、ではない。実際に蹴り上げられたのだ。認識世界の彼に。
 思い至って走り出す。彼は言っていた。佐藤さんが危ない。なにがどうなって危ないのか、さっぱりわからないけれど、彼の言葉に嘘偽りがないのは確かだった。
 とりあえず佐藤さんのクラスであるA組を目指して走る。こんなに全速力で廊下を走っていたら先生に怒られそうだと思ったものの、幸か不幸かすっかり人気は失せていた。
 日々の運動不足と寝不足が祟って、すっかりへとへとな体でやたらと遠く感じたA組へ駆け込むと、ひとりぽつんと佇む体操服姿の小柄な女の子がいた。佐藤さんだ。
「さ、佐藤さん……」
 息も絶え絶えに名前を呼ぶと、ぴくりと反応した佐藤さんがゆっくりと振り返る。そのとき私は、呼吸を忘れた。
 振り返った佐藤さんの額には、滑らかな乳白色の角がふたつ、生えていた。それは確かに昨日、私の目の前で彼が手品のように取ってみせたものと同じもの。いや、本当に同じもの、だろうか。
 佐藤さんに生えていた角は、あんなに大きかっただろうか。あんなに鋭く尖っていただろうか。こんなにも、不安を感じさせるものだっただろうか。
「藤里さん……?」
「さ、とうさん、それ、」
「それ?」
 佐藤さんは首を傾げながら促されるままに額を探る。こつりと指先にあたる感触に、うっすらと笑みを浮かべた。ぞくりと背中が粟立つのを感じる。恐ろしい。
「あは、あはは、なにこれ。変なの」
 心底面白そうに笑う佐藤さんは不気味で、ひどく恐ろしい。竦みそうになる足を奮い立たせて、教室に一歩踏み入る。彼には佐藤さんを連れてこいと言われた。怖がっているだけじゃ、それはできない。
「佐藤さん、それをなくす方法、私知ってるんです。だから、私と一緒に……」
「なんでなくさなきゃいけないの?」
 きょとんとした顔で佐藤さんが私に問う。なぜと聞かれても答えられない。記憶を失う前の佐藤さんはそう望んでいたのに、今の佐藤さんは違うのだろうか。
「だって、これは私の心そのものだもん。それをなくせるはずないよ。藤里さんは、私の心を殺したいの?」
「っ!?」
 佐藤さんがなにかを私の足下に放り投げる。それはここへ来たときからずっと佐藤さんが握りしめていたものだった。見慣れた色合いからして、制服だと思っていたけれど、違っていた。いや、間違ってはいない。確かにそれは制服だった。ひどく引き裂かれ、もう着ることはできないであろう無惨な制服。
「これって……」
「藤里さんも、結局同じなんだね。あいつらと」
 吐き捨てるような言葉と眼差しに、なにも言えなくなる。制服の残骸を踏みしめながら、佐藤さんが私に近づく。ああ、これが佐藤さんの本当の悩みだったんだ。誰にも言えない、私にも、彼にも言えなかった、本当の悩み。角が生えてしまった原因。
「私、最初からあなたみたいな人、大嫌いだったの」
「な、んで……」
 佐藤さんはひとつ私を睨むと、通り過ぎて教室を出て行こうとする。
「待って!」
 肩を掴もうと伸ばした手を強く弾かれる。
「もう、私に近づかないで」
 ぎらりとした瞳が私を強く射抜いて、身動きできなくなる。愕然とする私を気にも止めずに、佐藤さんは無情にも歩き去っていく。私に止める術は、もう残されていなかった。




 あんなことがあったあとで、ぐっすり眠れるはずもなく、私は朝早くに目を覚まし、事前に聞いておいた佐藤さんの家へ向かった。今日は土曜。学校は休みだ。それなら佐藤さんは自宅にいるはず。
 早朝に家を訪ねることに若干の申し訳なさを感じながらチャイムを鳴らすと、出てきたのは佐藤さんではなく、佐藤さんによく似たやさしそうな女性だった。
「あの、朝早くにすみません。恵奈さんはいますか?」
「えな……? ごめんなさいね、家を間違えたんじゃないかしら。うちには恵奈なんて子はいないわ」
「え……そんな、住所に間違いは……」
 メモを見直しても間違ったところはない。間違いなくここが佐藤さんの家だ。まさか、昨日電話で先生に聞いたとき、聞き間違えたのだろうか。そこまで考えて、ふと玄関の隅に置かれた真新しい女物のローファーが目に入った。
「あの、その靴は……?」
「ああ……不思議よね。うちには娘なんていないのに、なぜか朝起きたら置いてあったのよ」
「……っ!」
 気がついたら私は走っていた。やっぱり、住所は合ってる。あのローファーは間違いなく佐藤さんのものだ。でも、あの人が嘘をついているようにも見えない。
 目眩がするようだった。まさか、今度は佐藤さんのお母さんが記憶を失っているなんて。もしや、彼のしたことだろうか。いや、彼は認識世界に閉じ込められているのだから、それはできないはず。それなら一体誰が。
 とにかく、佐藤さんを捜さなきゃ。でも、一体どこを捜せばいいのかわからない。私、佐藤さんのことなにも知らない。今どこにいるの。
「あっ! そうだ、アスミちゃん!」
 アスミちゃんならなにか知ってるかもしれない。立ち止まり、バッグから携帯を取り出して画面を開くと、携帯内のメモ帳が開きっぱなしになっていた。覚えのない画面を閉じようとして、手を止める。
「『◯◯公園に佐藤恵奈はいる』……?」
 もしかして、これは彼がしたことだろうか。考えてる暇はない。本当かどうかはわからないけれど、行ってみるしかない。ほかにあてはないのだから。


 最近あまり来ていなかった公園は、なかなかの広さがあるものの、早朝であるせいかまだ誰もいなかった。人気のない公園は寂しく、少し肌寒い。ここまで走り通しだったせいもあって、歩く足がひどく重かった。
 キイ、キイ。金属のこすれる音がする。ブランコだ。誰もいない公園でただひとり、ブランコに座る小柄な人影。いや、それはもう『人』ではないのかもしれない。赤く全身を染めたパジャマ姿の小柄な女の子は、きっと誰の目から見ても『鬼』そのものだろう。
「佐藤さん」
「……あ、藤里さん」
 私に気づいた佐藤さんはにっこりと笑って、赤い手を軽く振った。その勢いで手から数滴、赤い液体が地面に跳ぶ。この鉄臭いにおいは、ブランコからするものだけじゃないのだろう。いくら察しの悪い私でも、それだけははっきりとわかった。
「私、佐藤さんの家に行ったんですよ。そしたら、恵奈なんて子はいないって言われました。……どういう、ことですか」
「ああ、うん……私はもう死んだから」
「死んだってどういうことですか。佐藤さんは今もこうして生きてるじゃないですか」
「……驚いた。この姿を見ても、まだそんなこと言えるんだ」
 佐藤さんの赤い指が、確認するように角の輪郭を撫でる。ぺたぺたと赤く染まっていく角が、昨日よりも一回り大きくなっていることに今さらながら気づく。
「私は死んだよ。私が喰ってやったから」
「佐藤さ、」
「うるさいな!!」
 突然の怒鳴り声に口を閉じる。けれど、声を発した本人の佐藤さんはなんともないような顔で立ち上がった。
「あーあ……なんで藤里さんには記憶残っちゃったんだろ。ああ、私を知ってたせいか……」
 ぼそりとそうこぼして、私に背中を向けて歩き出す。
「ま、待ってください! どこに行くんですか!?」
「さあ……どこだろ。ここじゃないどこかなら、どこでもいい」
 そう言う佐藤さんの足が、すうっと透けて消えていく。ぎょっとして追いかけようとすると、不自然に置かれた大きめの石に足をひっかけて転ぶ。膝を少し擦りむいていた。痛くて、涙が出る。けれど、それだけじゃない。
「っ! 待って、佐藤さん!」
 地面に手をつきながら叫ぶ。どうしても、佐藤さんを行かせたくはなかった。足下から消えていく佐藤さんの背中を、潤む目で見つめる。すると、私の気持ちが届いたのか、なにか忘れ物でも思い出したかのような気軽な動作で、くるりと振り向いた。
「ああ、そうそう。藤里さん。私、あなたのことが大嫌いだったけど、ここまで私のことを気にかけてくれる人なんていなかったよ。私のために泣いてくれる人もね。だから──」
 一呼吸置いて、佐藤さんが笑う。はじめて見る、心からの笑顔。
「──ありがとう」
 朝日にきらきらと輝いて、そのまま、佐藤さんは消えた。




 次の週も当たり前のように月曜は訪れ、佐藤さんがいなくなってしまったことを誰も気づかないまま、平穏な日々は続いていた。いや、少し、違うかもしれない。噂で聞いた話だけれど、A組で何人か失踪者が出たという。土曜の朝に部屋へ行くと、大量の血痕だけを残して姿が消えたのだと。強盗に殺されただの、殺人鬼だのとさまざまな噂で持ち切りだけれど、結局のところなんの手がかりもないようだということだけは同じだった。あと、これはアスミちゃんから聞いた話だけれど、どうやら、私が佐藤さんを訪ねて行ったときに会った派手な女の子もそのひとりだったらしい。不思議なことに、その話を聞いたとき、ひとつも涙は出なかった。


 私らしくもなく机の上に腰掛け、窓の外をぼんやりと眺める。燃えるように赤い夕焼けが、あの日の佐藤さんを思い出させた。あのとき、私にできることはなにもなかったんだろうか。消えゆく佐藤さんを引き留めることは、本当にできなかったんだろうか。そんなことばかりが、頭を巡る。
 隣を見ると、同じように夕日を眺めている彼がいた。赤い夕日に照らされているせいか、髪の隙間から見える瞳が、赤く輝いているように見える。
「……君にできることはなかったよ。ああなる可能性は高かった」
 こちらをちらりとも見ずに、私の求める答えをくれる。
「あなたは、どこまでわかってたんですか」
 思わず責めるような口調になる。けれど、考えずにはいられないのだ。あの携帯のメッセージ。あれは彼以外に考えられない。だとしたら、佐藤さんがあの公園にいるとまでわかっていたのなら、佐藤さんを止めることだってできたんじゃないか。
「どこまで、か。僕に未来がわかるような口振りだね」
「違うんですか? だって、あなたはいつもいつも私たちの先をいってます……そうじゃないと、おかしいです。今回のことだけじゃない、私のときだって」
 彼は私の家を教えてもいないのにわかった。認識世界から確立世界の人は見えないし聞こえないのに、私が来ることがわかった。佐藤さんはなにも言わなかったのに、本当の悩みがわかった。全部、未来がわかるなら説明がつく。
「残念だけど、僕に未来はわからないよ。わかるなら、もっと有意義に使うね」
「……信じられません」
 だって、彼は嘘をつく。人を騙す。たくさんの隠し事をする。確かに彼は私の恩人で、私の命を無償で救ってくれたひとだけれど、今はもう、なにを信じていいのかわからない。私は、信じられるほど彼を知らない。信じたい。けれど、信じられない。それがつらくて、悲しい。
 くっ、と彼が噛み殺しきれなかった吐息をもらした。ひどく歪な笑みを浮かべている。
「ああ、ようやくか。随分遅いね、君は」
「え……?」
「忘れたの? 言ったでしょ、信用するの早過ぎってさ」
 愉快そうにケタケタ笑う彼。呆気にとられながらも、思い返す。そういえば、言われたことがあるような。
「そうだよ、信じられないのが正しい。僕らはみんなそうだ。信じられるやつなんていない」
「“僕ら”?」
「認識世界の住人のことだよ」
 ガタンと勢いよく机から飛び降りて、私の真正面に立つ。ちょうど夕日を背にした彼は、逆行で表情が見えず、ほんの少し恐ろしい。けれど、どこか楽しそうな弾んだ声だけは、いつもの彼だった。
「認識世界の住人は自己中心でわがままなやつばっかりなんだ。他人がどうなるかなんて、どうでもいい」
「あなたも、ですか」
「もちろん僕もだよ。ここに住んで長いしね、性質だって似てくるさ」
 ぐいと顔が近づく。帽子の鍔がぶつかりそうなほどの至近距離はこれで二度目だ。不思議なことに、あのときほどの動揺はない。赤みがかった瞳を食い入るように見つめる。
 信じられない。でも、信じたい。信じたい。彼を、信じたい。
「…………このくらいで泣かないでよ」
 居心地悪そうに彼が離れていく。言われてすぐに頬に手をあてると、濡れた感触が伝わる。自覚した途端に、さらにぶわっとあふれてくる。もう、いろいろと我慢の限界だ。
「だ、だってぇ……紅華さんがぁ〜!」
「はあ!? 僕のせい!? いや、まあ、そうかもしれないけど……」
 ぶつぶつ言いながら彼が、私の座る机を背にして座り込む。拭っても拭っても、涙が次から次へとあふれてきて、もうだめだった。
「ぅ、佐藤さん、佐藤さぁん……どうして、なんでぇ……」
 佐藤さんの最後の笑みが忘れられない。ずっと、瞼の裏に焼き付いて離れない。佐藤さんは、ずっとずっと、ああやって笑うことができずにいたんだ。誰にも言えずに抱え込んで、いつしか角まで生やして。どうして誰も気づいてあげられなかったんだろう。どうして、どうして。
「……心配しなくても、佐藤さんは消えたりしてないよ」
「うぇ……?」
「確立世界での『佐藤さん』は確かに消えてしまったけど、あの子は人ではないものになって、確立世界のどこかにいるはずだ。……運がいいのか悪いのか、君は人があやかしの類になる瞬間を見たんだね。滅多にないことだよ」
 淡々とした口調で語る彼は、決して私と目を合わせようとはしない。まるで、話してはいけないことを、内緒で話してくれているような。
「それほど……恨み辛みが強かったんだろう。たった1日で角が戻るほどだから」
「恨み……」
 人が人でいられなくなるほどの恨みなんて、どれほどのものだろう。やさしいお母さんと、たったひとりしかいないけれど気を許せる友人のいる、ひどく恵まれた私では想像もつかない。誰かを心から恨んだことのない私では。
「……助けてあげたかった」
 ぎゅっと帽子の鍔を引き下げながら、彼がつぶやく。
「助けてあげたかったなぁ」
 その言葉に、また涙がこぼれた。