食わず遊びの使者


 本当になんの前触れもなく、ふと思ったことがある。人の意識という曖昧なものでできた世界で暮らす彼は、どうやって生活しているのだろう。
 そう、例えば食事だ。確立世界の人間に見られていると、草ひとつも動かせないこの認識世界では、満足に食事もできないのではないだろうか。人目を忍んでこそこそと盗み食いをしている姿を想像して、切なくなる。むしろ、この世界の食べ物はちゃんと食べられるのだろうか。


「ごはんならちゃんと食べてるよ」
 失礼だな、と言いながら、私が渡した買い物袋をがさがさと漁る。
 空腹に喘ぐ彼を想像していてもたってもいられなくなった私は、コンビニでおにぎりやらサンドイッチやらを買い込んで彼に会いに来ていた。栄養バランス的に、手作りのほうがいいのかもしれないけれど、そこまで手を込む余裕はなかった。
「そうなんですか? でも、なにをどうやって……」
「そんなこと聞いて、どうするの?」
 取り出したおにぎりの包装を開けながら、なんのお礼もなくかぶりつく。もくもくと食べる彼を眺めつつ、私も買っていたお茶を一口飲む。
「だって、気になるじゃないですか。こんな世界で生活してるんですから、食事とかお風呂とか着替えとか、どこでどうやって寝てるのかとか」
「ふぅん?」
 興味なさそうに返事をしながら、今度はサンドイッチに手をつける。なんとなく見ていただけだけれど、なんだかやたら食べるスピード早い。みるみるうちに、それなりに入っていた袋の中身がなくなっていく。しかもよく食べる。
 一通り食べてしまった彼は、お茶を飲みながらふうと息を吐く。
「それで、ここでの生活のことだっけ。食事は君みたいに持って来てくれる人に貰ったり、そのへんにあるもの適当に食べたりしてる。お風呂とか着替えは、まあ必要ないかな。この世界では汚れって概念ないのか、勝手に綺麗になるし」
「勝手に綺麗になる?」
「そう。以前、僕の忠告を聞かずに確立世界で動かされてる物に触った人がいてね、それはもう面白いくらいにそこらじゅうが血濡れになったんだけど、次の日にはなくなってたよ」
 動いた物にぷちっと潰される人を想像して気分が悪くなる。
「僕もほら、最後にお風呂入ったのは一週間くらい前だけど、臭くないでしょ」
 身を乗り出してパーカーをぱたぱたと扇ぐ彼。そのゆるい風にのって、ほんの少し甘いようなにおいがする。ときたま香る彼のにおいだ。
「そうですね、いいにおいです」
「……ま、まあ、それでも入りたいときはあるから、隙を見計らって入るんだけどね」
 居心地悪そうに椅子に座る彼に首を傾げながら、想像する。お風呂に入っているときに、もしも確立世界の人に見られたらどうなるんだろう。シャワーでも湯船の中でも、凄惨な結果にしかならなそうだ。
「ていうかさ、なんで君こんな普通にここにいるわけ?」
 机に足を乗せた彼がそう言った。
「え、今さらそれ聞きます?」
「君が来るなり買い物袋差し出して『ごはんはちゃんと食べなきゃだめです!』とか言うから、聞くタイミング逃したんだよ」
 そういえばそうだった。あまりに気になりすぎて、すっかり彼と数日間会っていなかったのを忘れていた。
「ここ最近は来てなかったから、ようやくあきらめたかと思ってたのに、また来たと思ったらこれだよ。君は本当におかしいね、いろんな意味で」
 失礼な言いようだけれど、それもまた事実だ。
 佐藤さんとの一件以来、私の足はここに向かわなかった。それも仕方のないことなのかもしれない。彼の顔を見れば、どうしたって佐藤さんのことを思い出す。助けてあげられなかった、小さな女の子のことを。
「……ずっと考えてたんです。佐藤さんのこと、この世界のこと、人ではないもののこと……あなたのこと」
「へえ、それで? なにか結論は出たかい?」
 問いかけのようでいて、その実あまり興味のなさそうな言葉を真正面から受け止める。
 もしかすると、彼には私が今から言おうとしている言葉がなんなのか、わかっているのかもしれない。未来はわからない、と断言した彼だけれど、不思議な力を持っているのは確かだった。
「私、あなたを信じます」
 やはりというか、彼は身動ぎひとつせずに、ひどくつまらなそうに私を見ている。その目は、先を促しているように見えた。
「あなたを……信じられない気持ちは確かにあります。だって、あなたは私にはなにも教えてはくれないし、どこを信じればいいのかも、あなたは教えてくれない」
 言いながら思い返す彼の言動は、常に私を突き放したようなものばかりだった。単純な私はそれに振り回されてばかりだったけれど、もうそれはおしまいにする。
「けれど、私はあなたを信じたい。だから、もう絶対にあなたを疑ったりしません」
 あのとき、佐藤さんを助けたかったと言った彼の言葉に嘘はないと信じられるから。それだけで、私には十分だった。
 彼はやはり面白くなさそうに目を細めつつ、窓から青空を見上げながらつぶやく。
「……だから、君は好きじゃないんだ」




 二度目の好きじゃない宣言に打ちのめされた私の心を思いやることもなく、次の日は当然のようにやってきた。
最初に言われたときもそうだったけれど、ろくに理由も聞けずにまたもや「そうですか」と返してしまった。嫌い、と言い切られるなら理由も聞きやすいのかもしれない。けれど、彼は好きじゃないと言うのだ。追求するにはあまりにも曖昧な言葉だった。
 私を好きじゃないと言った彼がそうしていたように、私も窓から外を眺める。今日は雲ひとつない晴天だ。洗濯物もよく乾くだろう。
「はああああ……」
 そんな晴れ晴れとした天気に似つかわしくない重いため息に、思わず前の席を見た。私の数少ない友人であるアスミちゃんだ。
 いつもなら朝から元気溌剌なはずのアスミちゃんが、机の上に突っ伏して大きなため息を吐いている。好きなイケメン俳優の出ているドラマを見逃したときでさえ、ここまで落ち込んではいなかった。珍しいどころか、はじめて見る光景だ。
「アスミちゃん、どうしたの?」
 声をかけると、ゾンビのような動きでゆっくりと振り向く。その顔は憔悴しきっていて、目もどこか虚ろだ。
「ああ……ハンナ……」
「なにがあったの? 私でよければ話聞くよ」
「うう、ハンナぁ〜!」
 ガタンと椅子を倒しながら、アスミちゃんが私に抱きついてくる。机越しなため、少し、いやかなり無理のある体勢で、だいぶ苦しい。
 しかしながら、相手はなにかと世話になりっぱなしのアスミちゃんである。多少、背筋を痛めるくらいは我慢できてしまうのだった。


「ククがいなくなった?」
 力なくアスミちゃんが頷く。
「うん……昨日の朝からいなくなって……」
 ククというのはアスミちゃんの家で飼われている犬のことだ。どうやらアスミちゃん一家は大の犬好きであるらしく、何度も何度も写メを見せられては自慢されているのでよく覚えている。大きくて血筋の良さそうな犬だけれど、元野良犬だったという話は耳にたこができるほど聞かされた。
「繋いでいた紐がなにかで切られてて……誰かが悪戯で逃がしたんじゃないかって」
「ククが行きそうな場所とかは探したの?」
「探したよ。でも、どこにもいなかった。ククなら必ず、戻ってくるはず、なのに……」
 目に涙を浮かべるアスミちゃんにつられて、私まで泣きたくなってきてしまう。
 どうにか私にできることはないだろうか。考えてはみるけれど、無難に迷子犬のポスターを作るとか、一緒に探すくらいしか思いつかない。それにしたって必ずククが見つかるとは言い切れないし。
 そこまで考えて、はたと思いついた。これって、立派な『悩み』なんじゃないだろうか。
「……ねえ、アスミちゃん。今日の放課後、ちょっといい?」
 わけがわからないと瞬きをくり返すアスミちゃんを安心させるために、私の持ちうる限りの明るさで笑って見せた。


 すっかり見慣れた夕方の誰もいない教室で、眉をひそめたアスミちゃんが、古びた机と私を交互に見てはため息を吐いた。
「あんた、それ騙されてるよ」
 アスミちゃんから聞いた噂は真実で、私の悩みを見事に解決してもらったこと、そのひとのことはよくわからないけれど、とにかくすごい力を持っていることをかいつまんで話すと、ばっさりそう切り捨てられた。正直、自分で話していてもうまく伝わらない気がしていたので、その返答は予想通りだ。
「その、カミコウガ、だっけ? そんなやつの言うこと、まさか本気で信じてるわけ?」
「教えてくれたのはアスミちゃんなのに、信じてないの?」
「信じてるよ! 信じてなかったらハンナに教えるわけないじゃん!」
「なら、」
「でもそいつは別! 本当に噂の人かわかんないし、怪しすぎる。もう会うのはやめなよ」
 今はアスミちゃんのほうが大変だというのに、それでも私のことを本気で心配してくれるのは、すごく嬉しい。けれど、これだけはもう決めたことだから。
 私の腕を掴んでいたアスミちゃんの手を取って握り返す。
「ごめんね。私、彼のこともっと知りたいの」
「……まさか、好きなの?」
「えっ」
「そいつのこと、好きなんだ!?」
 ついにハンナにも春が来た! と、まだなにも言っていないのに、すでにアスミちゃんの中で確定してしまったらしい。慌てて否定しようとして、アスミちゃんがふと古びた机に手を置いた。
 あ、と思ったときにはすでに遅く、アスミちゃんの腕はするりと机の中に吸い込まれていく。
「えっ、ちょ、なにこれ!?」
「アスミちゃん待って!」
 相変わらず、混乱するアスミちゃんの意思とは関係なく、ずるずると容赦なく引きずり込んでいく。とっさに自由なほうのアスミちゃんの手を掴むと、そのまま、物理法則を無視してふたりまとめて机の中に吸い込まれていった。
 いくらなんでもタイミング悪すぎるよ。


 ぱちりと目を開く。何度か瞬きをくりかえしていて、ようやくここが彼のいる認識世界だと思い出した。いつもはある程度覚悟してから移動するから、こんなに突然だと思考がついていかない。ただでさえ、よく似た別の世界に移動するという、非現実的なことなのに。
 足元を見ると、アスミちゃんが寝ていた。私は普通に立っていたから、佐藤さんのときもそうだったけれど、回数を重ねるごとにだんだん慣れていくらしい。
「やあ、トラブルメーカー」
 机の上で足を組んで座っている彼が、心底嫌みったらしくそう言って笑った。
 相変わらず目に痛いパッションピンクのパーカーを着て、ライムグリーンの帽子を被っている。昨日会ったときはまだ気にならなかったけれど、今日から衣替えで薄着になっている私からすると、少し暑苦しい。
「あの、悩みがある人を連れて来ました」
「そうみたいだね。つくづく君は、そういう類と縁が深いらしい」
「そういう類って、まさか、」
 脳裏に過ぎった嫌な予感を口に出そうとしたとき、それを遮るようにアスミちゃんの声が聞こえた。
「んん……なに……?」
「アスミちゃん、大丈夫?」
「ハンナ……あたし、一体どうしたの? ていうか、机に吸い込まれた気がしたんだけど……」
 まさしく彼女の言う通りなのだけれど、どう説明したものかと口を噤む。彼はどうやらこの世界のことを隠したいわけではないらしいし、話してもいいのだろうけれど、説明して信じてもらえるかはわからない。
 悩む私の横から、彼が身を乗り出して来る。
「そうだよ。君は机に吸い込まれてここへ来た。僕らの世界にようこそ」
 にやりといつもの歪んだ笑みを浮かべた彼に、アスミちゃんはぽかんと口を開けて瞬きをくり返すばかりで返事がない。確かにいきなり見知らぬ人がいれば、驚くのは無理もないことだけれど。
「アスミちゃん?」
「ぃ……」
「い?」
 小さくなにかをつぶやいたアスミちゃんの声を聞き取るために、私がさらに体を近づける。それと同時に、身を乗り出していた彼は逆に身を反らしていた。
 それを疑問に思う暇もなく、アスミちゃんの大声が私の鼓膜を破らんばかりに響く。
「い、イケメンだああああ!!!?」
 よほど衝撃だったのか、アスミちゃんは叫びつつも飛び上がるように立ち上がった。その間も、アスミちゃんの目は見開かれたまま彼から離れない。正直、ちょっと怖い。その視線を一身に受ける彼に同情した。
「うっわ、超イケメンじゃん! なにこれ!? え、マジでなんなの? こわっイケメンすぎてこわっ。アイドルかなにか? いや、これはアイドルも霞むわ……二次元? もはや二次元? すごすぎるよイケメン過ぎ! ていうか美形? もうどんな表現していいかわかんないけど、すっごい。なにこれ、えっ? なんかわかんないけど腹立ってきた」
 ぶつぶつとしゃべりながら、アスミちゃんは心底嫌そうな顔をした彼の周囲をうろつきつつまじまじと観察していた。
 特に美醜に疎いわけでもないし、彼が綺麗な顔をしていることも十分わかっていたはずだけれど、さすがにここまでは予想していなかった。心の中でそっと彼に謝る。アスミちゃんのイケメン好きのことを、すっかり忘れていました。
「いい加減にしてくれないかな? 黙っていれば、ひとのことを『これ』だの『怖い』だの『腹立つ』だの……随分好き勝手言ってくれるね」
 若干アスミちゃんに引いていた彼は、ついに我慢の限界がきたのか、アスミちゃんを睨みつけた。けれど、当のアスミちゃんにはなんのダメージもなく、むしろ「怒った顔もいい!」と喜んでいる。
 さすがに話が通じないとわかったのか、舌打ちをながら私に顎でアスミちゃんを示した。
「ねえ、これなんなのさ」
「アスミちゃん……井上明日美ちゃんです。私の友人で、今回の相談者です」
「そんなことはわかってるよ。この状態はなんなのって聞いてるんだよ」
 苛立ちまぎれに親指で、いつの間にか彼に急接近しているアスミちゃんを指した。さすがにベタベタ触ることはしていないけれど、初対面の他人に至近距離で凝視されていい気分ではないだろう。
「す、すみません……アスミちゃんって、その、面食いというか……男女問わず綺麗な人が好きで」
「なにそれ……」
 うなだれる彼に、再度心の中で謝る。
 そしてアスミちゃん、そろそろ自重しよう。写真撮りたそうにしても、絶対にだめだからね。


 ひとまず興奮状態のアスミちゃんをなだめて、彼のことを紹介する。あれだけ疑ってかかっていたから、彼への態度も一変するかと思いきや、その逆で、拍子抜けするほどあっさり信じてくれた。
「こんだけのイケメンだもん。ただの人なわけないじゃん」
 依然、スマホを片手に持ったままのアスミちゃんがけろりとした顔で答える。説明する手間が省けたのはいいけれど、彼はあまり納得がいかないようだった。もちろん私もだ。けれど、彼は早く話を進めたいらしく、深く突っ込むことはなかった。
「とにかく、そういうことだから。君の悩みを聞かせてよ」
 そう彼が言うと、アスミちゃんは持っていたスマホの画面を彼に向けた。その画面には、黒く艶やかな毛並みの犬が映されている。アスミちゃんのいなくなった飼い犬、ククだ。
「いなくなったこの子を、捜してほしいの」
 流し見るようにちらりと画面を見たあと、アスミちゃんの真剣な表情を見て、はあとひとつため息を吐く。
「それじゃあ相談ってより依頼だね。まあ、僕は別にどっちだっていいんだけど」
 そこで一旦区切ってから、彼はことさらにやりと嫌な笑みを浮かべる。
「捜してあげることはできる。ただし、それなりの対価は払ってもらうよ。君にその覚悟はあるかな」
「対価……」
「安心してよ。命をよこせとか、そんなんじゃないから。君にはなんの害もないはずだよ。ただ、僕のために少しだけ協力してもらう。どう?」
 アスミちゃんは戸惑うように私を見た。けれど、それに返す言葉を私は持ち合わせていない。だって、彼が対価としてなにを要求しているのか、私は知らないのだ。
「……わかった。ククのためだもの。あたしにできることなら、なんだって協力する」
「よし、じゃあ交渉成立だね」
 彼は満足そうに頷くと、ふと目を窓の外に向けた。まだ明るかったはずの空は、いつの間にか薄暗くなってきている。
「さっそく捜しに行きたいところだけど、今日はもう遅いから、明日にしよう。明日はもう少し早めに集合してもらうよ」
「早めって、どのくらいですか?」
「それはあとで連絡するよ。じゃあね」
 連絡ってどうやって、と聞く暇もなく、彼の白い手がひらりと目の前をひらめき、私のこめかみに触れた。




 設定した覚えのない時間に、目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。慌てて止めて、時間を見れば朝の5時。いつもならまだ眠っている時間帯だ。
 ふと、目覚まし時計からひらりと紙が落ちた。なんだろうと不思議に思いつつ拾ってみると、見覚えのあるデザインが目に入る。その紙は、私が愛用しているチョコレート模様のメモ帳だった。その可愛らしいメモ帳に、すらりとした綺麗な文字が書かれている。
『今すぐ ◯◯公園に集合』
 まったく覚えのないメモ書きだ。もしや、これが彼が言っていた連絡というものなのだろうか。だとしたら目覚ましも彼の仕業だったりするのかもしれない。認識世界にいる彼は、確立世界に接触できなかったはずなのだけれど。
 思い返してみれば、彼からのメッセージらしきものは以前にもあった。佐藤さんの居場所がわからなかったとき、携帯にあったメッセージ。あれも恐らくは彼からのものだったはずだ。はっきり聞いたことはないけれど、あんなことができるのは私の知る限り彼だけだ。
「……とにかく、行かなきゃ」
 ここでいろいろと悩んでいるだけではなにも解決しないし、なにより、遅れたら彼にまた馬鹿だなんだと言われてしまう。思考が短絡的なのは否定できないけれど、馬鹿と言われてなにも感じないほど馬鹿でもない。
 むしろ、今回ばかりは彼にこそ文句を言わねばならない。平日の朝5時に突然起こすなど、非常識にもほどがあるのだから。


 公園に着くと、先に来ていたらしいアスミちゃんが見えた。アスミちゃんは私が来たことにも気づかずに、しゃがみ込んで楽しげに地面を見つめている。
「おはよう、アスミちゃん」
「あ、おはよ!」
 声をかけると笑顔のアスミちゃんが返事をしてくれた。昨日はあまり元気がなかったけれど、どうやら今日は少し元気になったらしい。
 ふと、アスミちゃんの足下の地面から不自然に砂ぼこりが立つ。覗き見てみると、筆ほどの長さの手頃な枝がころがった地面には、靴でなにかを消した跡があった。なにか描いて遊んでいたのだろうか。
「ああ、これ? 神くんと話してたんだよ」
「紅華さんと?」
 思わず首を傾げると、ころがっていた枝がひとりでにふわりと浮いた。
「なっ、なに……!?」
 食い入るように枝を見つめていると、枝は地面にさらさらとなにかを書いていく。書きづらい場所にも関わらず、驚くほど丁寧で綺麗な字だ。というか、この字は見覚えがある。つい最近、というより、つい今朝に。
『やあ おはよう 相談者より遅れて来るとはいい度胸だね』
 この憎まれ口、間違いなく彼だ。
「ど、どういうこと? 認識世界から確立世界には干渉できないんじゃないんですか?」
 アスミちゃんと地面を交互に見ながら言うと、地面の文字はひとりでに消え、アスミちゃんは首を傾げた。
「その、なんちゃら世界とかいうのはよくわかんないけど、あたしたちだけのときなら、こうやってやり取りできるんだってさ。詳しいことはわかんないけど……」
「そ、そうなんですか? どうして私たちの前だけ……?」
 ひとりでに動く枝に話しかけるというのも、ひどく変な気分だ。文章が書かれていくのをじっと待つ。意外と書くのも早い。
『なにを話してるかは勘でしかわからないから 確実に伝えたいことがあるなら君も地面に書いて』
 言われてみれば、確立世界に私たちがいることは足音や地面につく足跡でわかるけれど、声は伝わらなかったはずだ。じゃあさっきは本当に枝に話しかけていただけだったのか。なんとなく恥ずかしい。
 すっと差し出すように目の前に置かれた枝を受け取り、彼と同じように文字を書く。けれど、思ったより書きづらく、いつもの私の字より下手になってしまった。
『おはようございます どうして私たちの前だけ、こんなことができるんですか?』
『君たちがこっちの世界のことを知ってるからだよ 知ってる人間の前でなら干渉できるし 逆に干渉されることもない』
 なるほど、それならこういうことができるのもわかる。そして、普段から人通りが少なくて、なおかつ早朝に集合した理由もそれが理由だったのだろう。
 あれ、でもそうなると。
『ククをどうやって探すんですか? 移動したら話せませんよね?』
『携帯を出して』
 言われるがままに携帯を鞄から出す。まだ手のひらに乗った状態で、携帯が勝手に開く。誰かが勝手に携帯を操作しているのがわかるのに、まったく手の感触やぬくもりは伝わってこない。相手が彼だとわかっていても、いつしかの恐怖を思い出してぞわりと寒気がする。
「うわ、すごい」
 アスミちゃんが興味津々で携帯の画面を覗く。はっとして画面に意識を戻すと、見慣れたデジタルの文字が無機質に並んでいた。
『移動中はこれでどうにかなるよ。あとは打つふりでもしてくれればいい。君もこのほうが書きやすいでしょ?』
 地面に文字が書きづらかったのはバレバレだったようだ。
『じゃあ、さっそく捜しに行こうか』


 捜すと言っても、彼にはすでに見当がついていたらしく、迷うことなくその場所に足を運んだ。私たちがやって来たのは、深い森への入り口。私にはあまり馴染みのない場所だけれど、アスミちゃんにはそうではなかった。
「あたしは、ここで怪我をして動けなくなってたククを拾ったんだよ」
 つまり、ここはアスミちゃんに拾われる前のククの住処だった場所だ。それなら、確かにここにいる可能性は高いけれど、アスミちゃんの表情は晴れない。
「でも、もうここは捜したよ。この森のどこにもククはいなかった」
 やっぱりすでに捜した後だったのだ。
『ここはアスミちゃんがもう探したらしいです。次はどこに行きますか?』
 彼に聞くべく携帯に入力する。しかし、さっきまでならすぐに返ってきていた返事が来ない。こちらから彼の存在を認識できるものは携帯しかなく、彼がなにも行動を起こさなければ、私たちは彼がそこにいるかさえわからない。今、ここには私たち以外はいない。移動すれば足音くらいはするはずだから、確かにいるはずだけれど、目に見えず、触れ合えず、存在を感じられないのはやはり不安だ。
 もしかしたら携帯の文字に気づいていないだけかもしれない。携帯の電波を探すようにあちこちに翳すと、途中でぴたりと携帯がなにかに動きを止められる。よかった。やっぱりいたみたいだ。
『今日はもう解散。君たちは学校に行って』
「……確かに、もうそろそろ学校行かないとやばいね。行こ、ハンナ」
「う、うん」
 ククを捜すためなら、1日くらいサボったっていいとは思っていたけれど、アスミちゃんが行くというのなら行かなければ変だろう。おとなしくアスミちゃんの後をついて行く。
 彼が捜してくれるのだから、すぐに見つかるだろうと思ったのが甘かったのだろうか。冷静になって考えてみれば、確立世界にいる犬を捜すなんて、認識世界にいる彼には無理があるのかもしれない。
 そう考えながら携帯を閉じようとすると、それを阻止するかのように文字が入力されていく。
『放課後、君だけいつもの場所に』
 君だけ、という言葉に不覚にもどきりとしながら、了承の意を伝える。アスミちゃんには話せないことでもあるのだろうか。


 放課後、アスミちゃんを適当に誤魔化しつつ、私はいつもの世界にやって来ていた。すっかり見慣れたパッションピンクにほっとする。朝にも話したけれど、やはり姿が見えないと会った気はしないのだ。
 しかし、そんな私の反応を気にすることもなく、彼は私を見るなり深くため息を吐いた。
「君ってほんと厄介なものを連れてくるよね」
「な、なんですかいきなり」
「今回ばかりは、僕の手に負えるものではないってことだよ」
 そんなにククを捜すことは難しいのだろうか。やはり確立世界の犬を捜すのは無理があったのか。
「君は本当に学習しない馬鹿だね。ただの犬なら、捜すまでもなく見つけるのは簡単だよ」
「なら……」
「だから君は馬鹿だって言うんだ。昨日僕は言ったよね。『つくづく君はそういう類と縁が深い』って」
「あっ!」
 すっかり今の今まで忘れていたが、確かに言っていた。あれ、だとすると、まさか。
「ククは、普通の犬じゃないんですか……?」
「だから、そうだって言ってるんだよ。僕は昨日からね」
 やっと理解したか、この馬鹿。と、彼の目が言っている。確かに、これはさすがに馬鹿としか言いようがないかもしれない。シンプルに考えて、ただの犬の捜索なら、彼がこんな回りくどいことをするはずがないのだ。佐藤さんのときに、そう言っていたじゃないか。
「でも、じゃあ、手に負えないっていうのは?」
「それは、あの犬が普通のあやかし……っていうのも変な話だけど、そういうのとは少し事情が違うからかな。君のときみたいに、さっと祓ってはいおしまいってことにはできないし、あの子の願いとも違うでしょ?」
 アスミちゃんの願いはククの帰還だ。ククがあやかしだったとしても、それが達成できなければ悩みを解決したとは言い難いだろう。けれど、アスミちゃんに事情を話せばわかってもらえるのではないだろうか。
「僕はあくまで悩みを解決するだけであって、願いを叶えられるわけじゃない。けど、引き受けたからには解決してみせるよ」
「じゃあ、アスミちゃんには話さないんですか?」
「話すつもりならここに呼んでるさ」
 言いながら、彼は教室から出て行こうとする。慌てて追いかけると、彼ははあと再びため息を吐いた。
「そのためには、一応あのひとに会わないとね」
「あのひと?」
 彼はちらりと私を見て、にやりとどこかぎこちなく笑った。
「この世界での、僕の協力者だよ」


 認識世界にも数は少ないけれど、住人がいるのだと彼は語った。その大半は確立世界の人間が想像し、生み出した、あやかしに類するものたちであるけれど、一部少しだけ変わったものがいるのだという。成り立ちはあやかしと同じだけれど、その在り方はまるで違うのだと彼は言った。
 連れて来られた場所は、古びてはいるがなかなかに立派な神社だった。朱色の鳥居をくぐると、石畳の道が社へと続いている。ひんやりとした空気は、胸を軽くする。認識世界にあっても、神社の清浄さは変わらないらしい。
 はじめて来た神社のはずなのに、どこか懐かしい気がするのは気のせいだろうか。
「わらわのコウガ〜!」
 静寂を切り裂いて神社から飛び出して来たなにかが、彼へと突撃する。それは、きらびやかな着物に身を包んだ、豪華な美女だった。白磁のように白い肌、着物の上からでもわかるほどに女性的な湾曲を描く体、色素の薄いたっぷりとした長い髪。どれをとっても文句なしの美女だけれど、頭にぴょこりと立つふたつの耳と、お尻のあたりから生えた6本のふわふわした尻尾が、そのひとが人間ではないことを示していた。
 とは言っても美女は美女。彼は美女に抱きつかれてはいるものの、どうやら身長で負けているらしく、ただひたすらに苦しそうな顔をしている。
「会いたかったぞ、コウガ! ずっとずぅ〜っと待っておったのに、少しも会いに来てはくれぬから、寂しくて寂しくてうっかり通行人を祟ってしまうところであった!」
「ぐっ……いいから、離してくれないかな……」
「おっと、すまない愛しのコウガ」
 にこにことご機嫌な美女が彼から身を離すと、今気づいたとばかりに私を見た。美しい金色の瞳が、すっと細められる。その目力に負けて、一歩後ずさる。
「コウガ、この娘は誰だ?」
「……えぇと、藤里。藤里ハンナだよ。僕の、うぅん……君、僕のなにかな?」
「えっ!? 私は、えっと、」
 聞かれて気づいたけれど、私と彼の関係って一体なんなのだろう。最初は相談者、だったけれど、今は違うし。私が一方的に彼に付きまとっているような状態だから、つまりそれは、あれ、ストーカーだろうか。いや、それだけは違うと思いたい。一応、本人から許可は得ているわけだし、こうして仕事も手伝っているのだから。
「じょ、助手? とかですか?」
「へぇ……じゃあ助手で。僕の助手の藤里ハンナだよ」
「なるほど、助手か。わらわを差し置いて、助手か。なるほどなぁ?」
 美女さんは笑っているけれど、目が笑ってない。すごく怖いです。
「そ、それで、こちらの方は……?」
「言ったでしょ。この世界での僕の協力者。この神社で祀られてる本物の神様だよ」
「えっ!!?」
 彼が本物の神様だと言うのなら、つまり、本当に本物の神様ということだろうか。確かに、どことなく神々しいような気もする。というか、彼と比べればだいぶ神様らしい。
 美女、もとい神様は得意げに胸を張る。
「わらわが正真正銘、本物の神よ。本来、お前のような下賤の者が目にすることは叶わぬ存在なのだ。光栄に思え」
「と言っても、あやかし上がりの神様だし、こんな小さな名のない神社の名もない神様だから、たいしたことはないんだけどね」
「あぁん、コウガは意地悪だのぅ」
 再び彼にべったりとくっつきながら頬摺りする美女には、あまり神様の威厳はない。彼はかつてないほどうんざりとした死んだような目で、されるがままになっている。世の中には変わった神様もいるものだ。
「……それで、お狐様に頼みがあるんだ」
「うん? 愛しのコウガの願いなら、なんであれ叶えるぞ」
「どういう結果になるかはまだわからないけど、たぶんどちらにせよ君の力が必要になるから、準備をしておいてほしいんだ」
「承知した。いつでも力を使えるようにしておこう」
 割といつも通りの展開ではあるけれど、また私は置いてけぼりにされている。さっぱりなんの話か私にはわからない。しかも、彼もお狐様もそれを私に説明する気はないらしい。
 ぼんやりとふたりのやり取りを見ていると、彼がくるりとこちらを向いてにんまりと笑った。
「さて、用事は済んだし、もう暗いから君の家まで送ろうか」
「えっ、もういいんですか?」
「いいんだよ。でもちょっと散歩したいから、付き合って」
 お狐様に会いに来るだけなら、私は必要なかったんじゃないだろうか。そう思いつつ、私たちは神社を出て、少しだけ遠回りなルートで私の家へと向かった。


 ぽつりぽつりと他愛ない会話をしながら、人気のない道をふたりで歩いていると、世界でたったふたりぼっちになってしまったような気がする。実際は、見えないだけですぐそこらに人がいて、普通に暮らしているのだけれど。
 それに、あのお狐様のように認識世界の住人も少なからずいる。決して、私たちふたりぼっちではない。いや、別にふたりぼっちを望んでいるわけではない。けれど、なんとなく、いや、はっきりと気分が沈んでいた。
 原因はやはりお狐様だろうか。彼がずっとひとりでいたわけじゃないことがわかって、嬉しい反面、残念な気持ちもあった。ひどい人間だ、私は。
「……あの、」
 いつの間にか途切れていた会話を再開させるべく口を開くと、目の前を歩いていたピンク色の背中が消えた。正しくは、視界から消えた、だった。
 音もなく彼に飛びかかった黒い獣が、彼を吹き飛ばす。線が細くて頼りなさげな彼は、その見た目に反することなく獣と共に転がっていく。
「紅華さん!!?」
 道端の林に寝転がった、というより黒い大きな獣にのしかかられている彼に、慌てて駆け寄る。
「っ……来るな!」
 彼の声に思わず足を止める。獣の影になって、なにがどうなっているのかさっぱりわからないけれど、どうやら大きな怪我はしていないらしい。
「……あーあ、いったいなぁ。ちょっと落ち着きなよ」
「黙れ。やはり貴様など信用するべきではなかったのだ。今すぐにその息の根止めてくれる」
 軽い彼の声に、地を這うような低く唸る声が返す。
「いいよ。殺したいなら殺せば? その場合、その子は一生ここから出られないけどね」
 脅すような獣の声に、彼は少しも引かない。それが気にくわないのか、獣はイラついたように唸る。
「ならば無理にでも帰させるまでだ」
「やだなぁ、拷問でもする気? そんなことをすれば、結局僕は死んじゃうよ」
 彼の声は不気味なほどにいつも通りだ。下手をすれば、すぐにでも噛み殺される距離に牙があるのに、その声には微塵の恐怖も混じっていない。表情は見えないけれど、その顔にはあの意地の悪い笑みが浮かんでいるのは、容易に想像できた。
「それに、僕はなんにも悪いことはしてないよ。こんなか弱くて善良な男子高校生である僕を、君は殺すのかい? それで、君は清浄でいられる?」
 彼の手がゆっくりと持ち上がり、獣に触れそうになったところで、獣は大きく飛び退いた。ようやく自由になった彼に駆け寄ると、多少服は汚れているものの、目立つ怪我はない。うっかり帰ってしまうといけないので触れはしないけれど、ほっと安堵の息を吐くと、彼は私をちらりと見てにんまりと笑う。
「ほら、彼のことは君のほうが僕より詳しいでしょ?」
「えっ……私、あんなの知りませんよ」
「知ってるよ。よく見て」
 言われるがままに少し離れた場所で、こちらを警戒するように睨んでいる獣を見る。やはり見覚えはない。
 見れば見るほど黒くて大きな獣だ。大きな耳と大きな口、そして長い尻尾。ぎらぎらと暗闇で光る瞳は濃い金色で、口の端から見える牙は鋭い。本物を間近で見たことはないけれど、大きな狼に似ているような気もする。黒くて大きな、狼。
「ま、まさか、あれは……」
「そう、彼が君の友達の捜し犬だよ」
 返事をするように、獣はひとつ唸り声を上げた。


 元々ククは認識世界に根を下ろす、所謂あやかしのようなものだったらしい。強い力を持っていたククは、時折確立世界へ干渉して、黒い犬に姿を変え確立世界を散歩していたという。
 眉唾物の話だったけれど、彼曰く「力の強いあやかしに類するものは、確立世界に干渉する力を持つことが多いんだ。それが所謂、怪奇現象とかUMAとかの正体だね」ということらしい。
 あるときククは、確立世界で怪我をした。身動きがとれなくて、認識世界に戻るにも戻れなくなって困っていたとき、アスミちゃんに拾われたのだ。そうして、傷を治療され、なし崩し的に飼われることになり、名を与えられた。
「いつかは帰らなければならぬとわかっていた。だが、愚かにも私はそのいつかが来ないことを祈るようになっていたのだ。私があやかしである限り、人間である明日美と同じ時を生きることなど、到底無理だとわかっていながら」
 そうして、終わりの日がやって来た。ククの力で無理矢理、認識世界から確立世界に姿を現し続けていたのだから、ククの力が弱まれば、姿を保つのが難しくなるのは必然だった。だから、姿を消した。自らの牙で紐を噛み切り、本物の犬ではなかったことを悟らせないように。
「この世界の住人は皆、自分本位で傲慢だ。それは、私も例外ではなかったと、この数年で思い知らされた」
「……お別れくらい、言えなかったんですか? アスミちゃん、すごく、すごく悲しんでました」
「最後に会って、明日美を連れ去らない保証はなかった。それに、今となっては過ぎたことだ。もう私には、姿を変える力も、世界に干渉する力もありはしない」
 少しばかりうなだれるククに、アスミちゃんの悩みは解決されないことを悟った。けれど、話を聞いた彼の顔は少しも陰っていない。いつものにんまり笑顔だ。
「君にひとつ選択肢をあげるよ」
「……なに?」
「もう一度ククに戻るか、このまま彼女と別れるか」
 彼は意地の悪い笑顔で指を二本立てた。




 私が望む望まないに関わらず、朝はやってくる。それがどうしようもなくやるせなくて、学校に行くことすら億劫だ。特に、アスミちゃんへ言わなくてはならないことを考えると。
「おはよう、アスミちゃん」
 教室に入ると、すでに来ていたアスミちゃんに挨拶をする。少しばかりぎこちなくなってしまったけれど、そのことには気づかなかったようだ。
「おはよ、ハンナ。今日は放課後にククを捜すの?」
「ええっと……」
 どう切り出せばいいのだろう。悩んだけれど、やはりそのまま話すのが一番かもしれない。
「実は、昨日の放課後も紅華さんと会ってて、その……見つかったの、クク」
 慎重に言葉を選びながら伝えると、アスミちゃんの顔がみるみるうちに明るくなる。それが余計につらい。
「じゃあ、ククに会えるんだ!」
「う、うん……でも、少し問題があって。だから、放課後にまた紅華さんに会ってほしいの」
「それは、いいけど……」
 これ以上は私の口からは言えない。あとは、ククとアスミちゃんの問題だ。私たちは、ククがどういう決断をするのか、見守ることしかできない。
 けれど、願わくば、ふたりにとって悲しい結末になりませんように。


 放課後、いつも通りの手順で認識世界へ向かうと、にんまりと笑う彼がいた。あたりを見ても、ククの姿はない。
「やあ、よく来たね」
「ハンナからククが見つかったって聞いたんだけど」
「そうだね、見つかったよ」
 悪い想像を膨らませていたのか、彼が肯定すると、強ばっていた表情が和らぐ。
「それで、ククはどこ?」
「ここにはいないんだ。案内するよ」
 そう言って彼が軽やかにターンして教室から出て行く。アスミちゃんがちらりと私を見た。大丈夫という気持ちを込めて頷くと、アスミちゃんも彼のあとを追うべく教室を出る。
 学校を出てからの道のりは、既視感があった。確か、あのお狐様のいる神社への道だったはずだ。ククはそこにいるのだろうか。そういえば、彼はお狐様になにかを頼んでいたようだったけれど、なにか関係があるのだろうか。
 神社に着くなり、彼は「ちょっと待ってて」と言って奥へと姿を消した。それからしばらくして戻って来たとき、彼の足下には見慣れた姿のククがいた。
「クク!」
 アスミちゃんがすぐに駆け寄ろうとするけれど、それを彼は片手で留める。私はすっかり、ククがアスミちゃんの元へ戻る気になったのだと思っていたのだけれど、彼の様子を見る限りそうではないらしい。
「結論から言うと、彼は、ククは君の元へは戻らないよ」
「っ……なんで!?」
「君も本当はわかってるだろ。ククがなぜこちらの世界にいるのか。その意味がわからないほど、君は馬鹿じゃないはずだ」
 静かに言い聞かせるような口調の彼は、アスミちゃんを帽子の鍔の下からまっすぐに見つめている。本来の姿より二回りほど小さい足下のククも、アスミちゃんをじっと見ている。 
「……確かに、こっちの世界にいるって聞いたとき、まさかって思ったよ。でも、あんたから大体のことは聞いてたし、迷い込んだだけなんじゃないかとも思った」
 アスミちゃんは膝をついて、ククと目を合わせた。
「でも、違うんだね。ククは、普通の犬じゃなかったんだ」
 少しばかり戸惑いながらも、アスミちゃんはククの頭を撫でる。それに嫌がる素振りも、喜ぶ素振りも見せない。けれど、そのアスミちゃんを見つめる目は、どこか寂しげにも見える。
「本来は力の強いあやかしだよ。君に拾われてから、情が移ったらしいんだ。彼も君のそばにいることを望んでいるけど、それを叶えることは難しい」
「なんで? 前みたいに、一緒にいられないの?」
「もう、彼の力は尽きてる。長く君のそばにいられるほど、力が残ってないんだ。死んでしまうわけじゃないけど、あちらの世界にはいられない」
 彼は「それに、」と続ける。
「彼にも帰る場所があるんだ。残念だけど、それは君の家じゃない」
 その言葉に、アスミちゃんははっとしたような顔をして、ククを見た。私やアスミちゃんにとっては、不可思議で少し恐ろしい世界でも、ククにとっては大切な生まれ故郷なのだ。そんな場所を簡単に捨てることはできないし、そうさせてしまうのもなにか違う。
「……そっか。そうだね、それなら仕方ないか」
 無理に笑ったアスミちゃんの顔は、胸が苦しくなるほどに痛々しい。ククがいなくなってから、アスミちゃんがどれだけ悲しんでいたかを身近で見ていた私は、とてもじゃないけれど見てはいられなかった。
 そんな、今にも泣きそうなアスミちゃんに、ククが慰めるようにすり寄る。
「今までありがとう、明日美」
 昨日聞いた声より、ひどくやさしい声が響く。アスミちゃんが息を飲むのが伝わってきた。けれど、すぐにその声の主を理解して、くしゃりと顔を歪める。我慢しようとして失敗したのか、ぽろりと一粒涙がこぼれてからは、次から次へととめどなく溢れていく。
 ククはもう慰めることはしなかった。声を殺して泣くアスミちゃんの横を通り過ぎ、私の目の前を過ぎて行く。あの山へ帰るのだろう。
 結局、ククとしてアスミちゃんと暮らす道は選ばなかったのだ。あくまであやかしとして、ここで生きていく道を選んだ。きっと、あやかしであるククにとってはそれが一番なのだろう。どれだけ、アスミちゃんと共に在りたいと願っても、ククはただの犬にはなり得ないのだから。
 ゆっくりと歩いていたククが、ふと私の横で足を止めた。
「柄ではないが、明日美の友人であるお前だから、特別に忠告しておいてやろう」
「え?」
「あの男に、これ以上関わるべきではない。あれらは、ある意味あやかしより質が悪い」
 ククはちらりと後ろを見た。それにつられるように視線を追うと、彼が険しい表情でこちらを見ている。いや、もはや睨んでいると言っても過言ではないだろう。割と距離があり、大きな声ではなかったため、話を聞かれていたわけではないだろうけれど、ひやりとした。
「あの、それってどういう、」
 彼の視線から逃れるようにククを見ると、そこにはすでにククの姿はなく、辺りのどこにも影も形もない。化かされたかのような気持ちになりながらも、私とアスミちゃんは、沈んだ心を抱えて帰路に就いた。




 次の日、アスミちゃんは吹っ切れたように明るく声をかけてくれた。今でも寂しいし悲しいけれど、ククが元の世界に帰りたいと言うのなら、無理をさせてまで引き留めたくはないからと言っていた。アスミちゃんらしいと言えばアスミちゃんらしい。アスミちゃんは、とてもやさしい子だから。
 それにしても、疑問はやはり多々残る。これももはや毎度恒例なのだから、気にしなければいいと思うものの、彼が関わっていることなので気にせずにはいられないのだ。なにせ、私はまだ彼の正体を暴くことをあきらめてはいない。そういった細かな疑問から、彼のことを知ることに繋がるかもしれないと思うと、余計に知りたくなってしまうのだ。
「それで、なにが知りたいんだい?」
「教えてくれるんですか?」
「教えられることならね」
 手土産にと家庭科室をわざわざ借りて作って来た、出来たてのクッキーを彼はとてつもなく渋い顔で食べている。コンビニの差し入れのほうがよほど喜んで食べていた気すらする。それほどまずいのだろうかと一枚食べてみるが、味見した通り、なかなかの出来だ。
「ええっと、じゃあ、なんでククはあの姿に? 力がなかったんじゃないんですか?」
「お狐様に力を借りて、一時的にあの姿にしてもらったんだよ。あの姿でなきゃ、ククだとはわからないだろうからね」
 確かにその通りだ。姿が狼っぽいとはいえ、大きさがかなりあるし、ぱっと見では狼にすら見えない。到底ククとは思えないだろう。
「お狐様は、神様らしく、願いを叶える力があるんだよ。だから、大抵のことはできる」
「じゃあ、ククを本物の犬にすることもできたりするんですか……?」
「できただろうね」
 言いながらさくりとクッキーをかじる。渋い顔は相変わらずだけれど、まずいとは言われないので、まずいわけではないのだろう。たぶん。
「じゃあ、どうして」
「ククがそれを望まなかったからね。それに、お狐様はなんでも叶えてくれるわけじゃない。恐らくなんでも叶えられるけど、気分で叶えたり叶えなかったりするから」
 お狐様の艶やかな笑みを思い浮かべながら頷く。なんとなく想像できてしまう。
「聞きたいことはそれだけ?」
「いえ、あの、アスミちゃんの記憶を消さなかったのは……?」
 尻込みしつつも思い切って聞いてみると、彼ははあと深くため息を吐いた。それと同時に彼の手が止まり、ふと机の上の紙皿を見ると、決して少なくなかったクッキーは綺麗に完食されていた。やはり美味しかったのだと心の中でそっとガッツポーズをする。
「結果的に悩みは解決できてないし、あの泣きじゃくって腫れた目の女の子に、それで今回の対価なんだけど〜なんて言えないよ。僕はそこまで外道じゃない」
「わかってます。あなたはやさしいです」
 笑いながらそう言うと、クッキーを食べているときより渋い顔をされた。あまりにひどい。
「……今回のことでわかったよ。君は、ある種の才能を持ってるね」
「才能、ですか?」
「そう。ひとでないものを呼び込み、好かれる才能。もはや呪いと言ってもいいかもしれないね。君についていたものも、君の因果に巻き込まれただけとも言える」
 紙コップに注がれたお茶を平然と飲みながら、とてつもないことを言う。その言い方だと、危うく死にそうになっていたのも自業自得と言われているようで、少しばかりむっとする。それとは反対に、彼は愉快そうに口の端を上げた。
「でもそれは、僕にとっては都合がいい。僕の存在を周知させるまでもなく、あやかしに関わる悩みを持った人間がわんさかと押し寄せて来るだろうからね」
「あやかしに関係ない悩みじゃだめなんですか」
「だめってわけじゃないよ。ただ、確率の問題で……まあ、いいや。ともかく、今日から君は僕の助手兼撒き餌兼案内係だ。せっせと相談者を連れて来るように!」
「あ、ちょっ」
 散々好き勝手言った挙げ句、なんの了承もなく確立世界へと強制的に帰還させられた。
 結局、なんの手がかりも得られなかったと俯くと、いつの間に乗せられていたのか、手に空の紙皿と紙コップがあった。文句を言いつつ、というか文句すら言われなかったけれど、それでも渋い顔の割にきちんとすべて食べきってもらえたことを思い出し、気分が少し浮上する。
 我ながらなんて単純なんだと思わなくもない。それでも、やはり嬉しいものは嬉しい。ひとまずの目標として、彼においしいと言わせるためにも、帰りに料理本を買おう。