#107
「──本当に、一人で大丈夫?」
「うん。哀ちゃんに甘えてばっかじゃ、ダメだし」
ちゃんと、自分のこと、自分でけじめ、付けないと。
そう告げると、哀ちゃんは暫し考えるような素振りを見せた後、急になぜか大きな声で話し出した。
先程まではどちらかというと、近くの私にしか聴こえないほどの静かなトーンで会話をしていたのに。
「困ったわ。タクシーを呼んでも良いんだけど。今の杏さんの状態じゃ、無事に研究室まで辿り着くか…誰か、ちょうどよく東都大学に行く人でも居ればいいんだけど!」
…ん?何言ってるんだろう、哀ちゃん。
駅まで行くのはたしかになんかヘマしそうだから、今回はおとなしくタクシー呼ぼうと思ってるよ?
正門から研究室までの距離くらい…大丈夫だと…うん。まあたしかに、2回くらいは転ぶかもしれないけれど。
でも私にとっては許容範囲内だ。
なんで、そんな訳の分からないことを、大きな声で…?
「ええっと…あ、哀ちゃん?」
どうしたの?という思いをこめて、私が声を掛けた、その時だ。
ピーン ポーン
タイミングよく鳴ったチャイムに、哀ちゃんがなぜかジト目になった。
「…確かにかまかけたのは私だけど。堂々とノってくるあの人もどうなの」
ジト目のまま何事かをぶつぶつと独りごちりながら、「杏さん、もう行くでしょう?ついでに一緒に玄関先まで行きましょ?」と声を掛けられたので、慌ててカバンを手に持ち、赤茶色の後ろ髪を追って。
「はい」
玄関先に着いて。そう、哀ちゃんが扉を開けた瞬間。
開いた扉の目の前に立っていたのは、胡桃色の髪の、眼鏡を掛けた背の高い男の人で。
なぜか、両手に鍋を抱えていた。
「やあ。こんにちは。ビーフシチューを沢山作ってしまったので、お裾分けを」
「…タイミングばっちりねぇ、本当」
「え、何かありました?」
すっとぼけやがって…と、哀ちゃんから出たの?と思うような口調でそんな声が聞こえたのに、目の前の人は全く気にしてませんな飄々とした糸目顔だ。
いや、元々細目なんだろうけど。
美少女の不審者を見るような視線にも動じてないのはすごい。
…どういうご関係の人なんだろう?
そんな私の疑問に答えるように、哀ちゃんが軽く説明してくれた。
「杏さん、驚かせてごめんなさい。この人は、うちの隣に住んでる沖矢昴さん。こうやって、時々うちにお裾分けに来てくださるの。──いつもすっごくタイミング良く、ね」
「やだなぁ。たまたま偶然が重なってるだけで」
にこにこにこ、と笑っているんだろう。多分。元々細目みたいだから、目が笑ってるかわかんないけど…。
そんな男の人に、哀ちゃんもにっこりと微笑み返している。
でもなぜか、周りの温度が下がったような。
…ほんと、どういうご関係?
「…まあいいわ。今回はその“たまたま偶然が重なって”が、こちらとして望むところだったんだから──昴さん、貴方、この後のご予定は?」
「そうですね…料理も作り終えたことですし、大学に向かおうかと」
にっこり、と細目をアーモンドのような弧を描いて微笑みながら。
そう言って沖矢さんと呼ばれた男の人は、抱えていた鍋を哀ちゃんに手渡した。
「──あら。嘘みたいに丁度良いわ。確か貴方、東都大よね?ついでだし、杏さんを一緒に東都大まで連れて行ってくれない?」
「え!?哀ちゃん!?」
「私で良ければ」
にこにこにこ。考えの全く読めない糸目の笑顔で、沖矢さんという男性は、私の方に向き直った。
「丁重に送り届けさせて頂きます」
「いや、えっと…」
「ついでなんだし、甘えておきなさいな。私としても、一人で行かせるよりずっと安心だから。──ね?お願い、杏お姉ちゃん」
…鍋を抱えた美少女の上目遣いのお願いいただいちゃいました。
うう。
哀ちゃん、私がそんな風に哀ちゃんに言われたら頷くしかないのわかっててやってる!!
そう。まんまと「はい」と頷いてしまった私は。
気付けばレトロな赤色の可愛らしい車に乗り込んでいた。
…哀ちゃんの『お願い』は本当、すごい威力なんだよ、うん。
***
赤い車が遠ざかって行くのを鍋を持ったまま見送った後。
ふぅ、と思わずため息を1つ吐いた。
…フォローすると言いながら、この有様じゃ。
怪盗さんが不貞腐れそうよね。
あの人、存外嫉妬深そうだし。
確か同級生の…白馬君、といったかしら。
「俺の居ない間に半径1キロ以上近づかさせねぇようにしねぇと」とか、中々無茶苦茶なこと言ってたわよね。
怪盗紳士が聞いて呆れるわ。
そんな怪盗さん的には、間違いなく不貞腐れちゃいそうなことをしてしまったかもしれないけど。
でも。
あの状態の彼女をひとりで浅黄教授のところまで行かせるのは、どう考えても心配だったのよね。
責任は怪盗さんにもあると思うわ。
勝手なことばかりして。黙って全部背負っていくなんて格好つけて。
そりゃ、彼女の心配が増すに決まってるじゃない。
先刻の、大丈夫。と静かに笑う杏さんの姿を思い出す。
あの子は、こういう状況になっても、笑うのね。
きっと、心の中にぐるぐるといろんな思いが渦巻いてるだろうに。
──泣きたかったら、泣けば良いのに。
…なんて。
私みたいな捻くれた女に言われたくはないでしょうけどね。
怪盗さんの思うようなフォローには、なっては居ないでしょうけど。
私なりのフォローは、あの子の意思を尊重しながら、見守ること、だわ。
──だから。
せめて。余計な怪我だけでも、少なくなると良い。
…私が鏡で、この姿を見て、自分の業に嫌気がさすように。
多分、杏さんにも、そんな瞬間があると思うから。
誰の助けでも良いの。
自分の身体に、嫌気がさす瞬間が、少しでも減ると良い。
「──貴方が私の騎士(ナイト)を気取るなら。私の大切な友人も、守ってくれるんでしょう?」
今は見えなくなった赤いてんとう虫に、そう投げかけて。