#109





おお。意外と足速いな。いつもどこかやる気なさげだからか、なんか意外。


「え。緑水さん、どうしたの?」


少し弾んだ息で、私のところまでやってきた緑水さんが「どしたのって…」とがくりと項垂れた。

「博士から杏ちゃん来るって聞いたから。…話しにくるって、聞いたから。正門前まで迎えに行こうと思ったら…」


そこまで言って、長い前髪から覗く鋭い視線を、沖矢さんに向けて。


「──どちら様?」

まるで睨みつけるように、そんなことを宣った。

緑水さん、態度わるっ!



「この方は、沖矢昴さんって言って、哀ちゃんのお隣さんの人!東都大学院生で、丁度大学行くところだったからって、送って下さったの!」

「──へぇ。俺、ハードワーカーな博士のおかげで、大体ココにいるけど。見たことないねぇ。…初夏にハイネック着てる男なんて、物珍しくて見覚えると思うけど」

「広い学内ですから。僕は工学部ですし。中々こちらのキャンパスまでは足を向けませんから」


…なんか、空気がピリピリしてる、ような?
なんでこう、快斗くんの時といい、緑水さんは初対面での挨拶はいつも喧嘩腰なんだ!


「お、沖矢さん、ありがとうございました!知人が来てくれましたし、ここまでで大丈夫です」

後ろで、「知人って、そんなつれない言い方酷くない?」と緑水さんがぼやいてるが無視だ、無視。


「…そうですか。なら良かった。お気をつけて。──よく学内をうろうろしてますので。また何かあったら、遠慮なく頼って下さいね」

「ありがとうございます」

「わざわざ君に頼るようなことはないと思うけどねぇ」

「緑水さん!」


だめだ、なんかわかんないけど、緑水さんが喧嘩腰モード入ってる。とりあえずとっととここを離れよう。これ以上暴言吐いたら大変だ。

沖矢さんの親切心をなんだとおもってるんだ、ほんと。


もー!と緑水さんを押しながら、沖矢さんに会釈をして、その場を離れた。





とにかくその場を離れようと慌てていた私は。

そんな私達の後ろ姿を、沖矢さんが見ていたことには気付かなかった。

ずっと細められていた瞳を、薄っすらと開いて。
















緑水さんをぐいぐいと押していたら、何かにひっかかり、ずるりと滑った。

ああ。今日は本当ひどい。


べしゃりと潰れるように転んだ私に、前にいた緑水さんが「うわー。ごめんごめん」と謝ってくる。


「このために来たのにねぇ」


と、私を立ち上がらせてくれたと思ったら。

そのまま、背中を向けてしゃがみ込まれた。



「ん」


「え」

「いや俺、黒っちみたいに転びそうになってるのぱっと助けれるほど反射神経自身ないからねぇ。だから、ん」

そう、しゃがみこんだまま、後ろ手をパタパタと動かして。


──これは。おんぶのポーズに見えるんだけど…って、え。

おんぶ!?


「やだよ!」

「やだじゃないよねぇ」

「緑水さんバカなの!?ここ東都大学だよ!」


人前で!おんぶされろって?とんだ罰ゲーム!


「えー。俺どっちかっていうと、天才の方かなぁ」

そういう意味じゃないよ!この人ほんといつもふざけてる!

「ほら。嫌なら抱っこにする?」

仕方ないねぇ、といった風に立ち上がって。
両手をおいでとばかりに広げられた。

ぶんぶんぶん!と首を振る。


「やだよ!何言ってんの!」
「じゃあおんぶされなさいな。大人しく」


長い前髪から覗く瞳が、有無を言わさない感じで。
いや、実際転びかけまくってるんだけど…。そして今しがた転んだばかりだけど…。


ごくり、と覚悟を決めて唾を飲み込んだ。









「で。こうなるんだねぇ」

「そりゃそうだよ!誰がおんぶなんて!」


せめて腰を支えようか?と緑水さんの腕が伸びるのを、ぴしゃりとはたいた。

結局、緑水さんのシャツを掴む形で終着点を得た。
これはこれで恥ずかしいけれど、背に腹は変えられない。


でも、すっ転びそうになると、なんなく支えてくるので。
シャツを掴む必要も、なんなら最初のおんぶ云々の必要もなかったんじゃないかとも思わなくもないけど。


「引っ張られる感覚で気付けるんだよねぇ。でもギリギリだよ?おんぶだと100%安心安全でしょ?」

とのこと。


まあ、助けてもらってる事には間違いないので、もう深くは追求しないでおくことにした。




沖矢さんと離れた後の緑水さんは、もうすっかりいつも通りだ。


「なんであんな喧嘩腰なの」

そう思わずぼやくと、「えー。だって、俺の“杏ちゃんのお兄ちゃんポジ”を、ポッと出の男に取られたら堪ったもんじゃないじゃない」といつものお決まりな返事が返ってくる。


「いや本当、緑水さんをお兄ちゃんだと思ったことないからね」

「本当、杏ちゃん俺にはドライだよねぇ」


やれやれ、と分かりやすくため息をつかれた。


「日頃の行いのせいだよ」

そう返しながらも、どこかいつも通りの緑水さんのペースに、ホッとしている自分がいるのも事実だ。

変わらず軽口ばっかりで、堂々とセクハラまがいなことしてくるけど。


──焦った様子で、走ってこちらに来てくれた。
話を、聞きにくると知っていて、珍しくあんな姿を晒してくれたということは。


お父さんの唯一の助手だもんね。私の身体の事情を知っていて、身体検査を一緒に行ってる緑水さんが、本当のことを知らないことはないだろう。


きっと。こうして敢えて、いつもどおりにしてくれてる。
何も、変わらないよ、と言わんばかりに。

ちらり、とシャツを掴む腕の先の人物を見ると、視線に気付いた緑水さんのチェシャ猫みたいな大きな口が、にっこりと柔らかな弧を描いた。


兄、なんて思ったこともないと言ったけど。
緑水さんは私の中で、すっかり身内だったりするんだよなぁ。



「──だからと言って、セクハラは控えた方がいいと思うんだけどね」

「杏ちゃんにしかしてないから、安心して」

「そんな安心ゼロな言葉いらないからね?」













そうして、いつもの研究室に着いて。

「じゃ、俺はここで」

と、扉の前で緑水さんが言った。
こくり、と頷くと、頭をぐしゃぐしゃぐしゃ!と力いっぱいかき混ぜられて。

ちょ、と文句を言う間もなく、緑水さんはその場を離れていった。


これは。
頑張れ。と、応援したつもりだろうか。

おかげで髪がぐしゃぐしゃだよ。緑水さんみたいな髪型になっちゃうじゃないか。

まあでも、うん。
緑水さんらしいから、ちゃんと気が抜けたよ、ありがと。



すぅ、と息をすって。
しゃらり、と再び、クローバーを手に添えて。

──よし、大丈夫。



カラカラと、扉を開く音だけが、その場に響いた。



「──杏、いらっしゃい」


眼鏡の奥に、どこか寂しさが滲む微笑みを湛えて。

お父さんが私を迎え入れてくれる。



「…どこから、何から話そうか」



そう、お父さんは、ゆっくりと語り出した。