#111_K



[おーい、新人、そろそろ昼休憩行っていいぞ]

[うす、すいませんお先します]

[おお。あ、そうだそうだ!これ持ってけ]


そう言ってぱしり、と渡されたのは、おっさんの嫁さんが作ってくれたと言う、こっちで愛飲されてるぶどうやカシスが入った濃度の濃い果実ジュースを、炭酸で割った飲み物が入った水筒だ。
こちらでは、夏季に嫁さんが持たせてくれる飲み物が、お茶ではなくて、これらしく。


[独り身じゃあ、こんなん誰も作っちゃくれねぇだろ?栄養もあるし、水分も補給出来っから!お前さんひょろっちぃから、暑さにぶっ倒れんじゃねえぞー]

[…どもっす]


このおっさんは、なにかと世話焼きの、良い人なんだけど。

…一言余計なんだよな。

俺だって日本に帰れば、可愛い彼女がいつも美味しい夕飯作ってくれてるっつの!




目深に被ったガソリンスタンドのキャスケットのつばをくいっと上げると、刺すような陽射しが目に入り込む。
まだ5月だってのに、本当常夏。くそあちぃ。恐るべき中東の夏季。

スタンド裏の、椰子の木の木陰に座り、サンドイッチとさっき貰ったドリンクを一口飲んだ。
日陰は幾分温度が低く、ほっと息をつく。




すっかりスタンドの一員となって、幾日か経った。

なんちゅーガソリンの安さだよ、と驚きながらも。
世界各国に滞在しながら、ドバイの良さに惹かれて定住を決めたアジア人を偽って、こちらに潜入した中で。


わかったことは、時折、大きめの厳ついトラックがくると。
メンテナンスだと言って、所長自らピット作業を行うことだ。

ご丁寧に、シャッターまでしっかり閉めてな。

ここの従業員は、タイヤ交換以外の作業出来るのが所長しか居なかったみてぇで、皆、所長の行動を疑問にも思わねぇんだろうな。
お陰で貴重な技術者として俺が重宝されてる。

まあ、もちろん無資格だけどな。偽造した資格書みせたら一発採用だったぜ。
知識はあるし、自分のバイクのメンテもやってだから、作業に問題はねぇ。


…まあ、それはともかく。
地下通路への入り口は、十中八九あそこで間違いねぇだろう。

盗聴器も仕掛けたし、あとは厳ついトラックが来るのを待つばかりなんだけど。


もうちっとピットの内情知りてぇし、明日にでも母ちゃんに故障した車装ってきてもらうか。


そんな風に思考を巡らせながら、ごくり、と先ほどもらった飲み物で喉を潤す。

甘酸っぱい炭酸の弾ける味覚が、口に拡がって。




──すっごく暑いんだから、ちゃんと水分補給してね?熱中症に気をつけて!!



杏がここに居たら。
そう言ってこういうの、持たせてくれたりすんだろーか。




…やめよ。寂しい独り身の妄想みたいで、すごく切ない。
ふんわりと想像して幸せになったあとの現実のギャップが、すごく虚しい。

ただでさえこのリゾート地、カップルが楽しそうにきゃっきゃうふふとビーチ駆け抜けてるの見て、無性に切なくなるんだしよ。




ガソリンスタンドの裏。
俺の休んでる椰子の木の先には、透き通るように綺麗な砂浜と、地平線をのぞく青い海。

そんなテンションの上がりそうな景色にも、数日ここにいるのでもう、見慣れてきたもんだが。


やっぱり思ってしまうもので。

── 杏と水着着て、こういうとこできゃっきゃうふふと、してぇよなぁ。ってよ。



照り付けるお日さまの下で、健康的な肢体を惜しげもなく披露してもらいたいもんだ。

何がいいかな。
布面積が狭いものをどうしても期待しちまうが、フリル付きとかでも杏絶対可愛いよな。
普段は薄暗いとこでしか拝ませてもらってない魅力的な白山を、太陽の下で拝観したい。
走ってふるると揺れる姿を見たい。水に濡れた杏の水着姿が見たい。


──でも、他の野郎に杏の水着姿なんて拝ませたくはねぇってのが問題だ。

…白馬の野郎とか、プライベートビーチとか持ってそうだよな。
うん、どうにかして借りよう利用させてもらおうそうしよう。

持つべきものはボンボンのクラスメイトだ。


──僕もご一緒させて頂きますね?どこかのコソ泥がビーチ付近の宝石を狙わないとも限りませんので。


嫌ぁな幻聴がどこからか聴こえて、思わずぶんぶんと首を振った。


くそ。アホなことばっか考えちまうのは、阿保みたいにあちぃからか。
脳みそ溶けてきてそ。

気ぃ引き締めねぇと。



そう、気を取り直して上を見上げると、雲ひとつない澄みきった青空が広がっていた。





思わず右手を伸ばし、空に掲げて。




空に向かって、指を広げて伸びる自分の手の甲を、じっと見つめた。





手を差し出せば、いつだって俺の元へと伸ばされる手のひら。

ドジするといけねぇからって、付き合う前から言い訳つけて。
杏の手を、いつだって俺の手のひらの中に、すっぽりと収めていた。

そのたびに、どこか嬉しそうにはにかむ杏がそこにいて。

それにどうしようもなく満足してる、単純な俺がいた。



そうやって、手が届く距離にいつもいたからか。

空の先。

伸ばしても伸ばしてもその先に杏の手がねぇってことが、自分で思ってた以上に堪えてる。




──この空の先で。あいつはちゃんと笑ってっかな。


多分。俺がこんな風にあいつの元を離れたことで。
きっとなんかしらの話は、哀ちゃんか親父さんに聞きに行ってることだろう。

全ての連絡手段を絶っているから、実際どうなのかはわからないが。多分。


出来れば。無事ピンクアイオニーを盗み出して、なんの心配もいらねえぞ、となった後で、その身体の真実を知ってほしいところではあったけれど。

それは、俺のわがままでしかねぇ。


自分に都合のいいだけの真綿で包むように、守ってるようなつもりになってるだけだよな。



俺がああして、しばしの別れを告げたことで。
きっと杏はちゃんと知らなきゃいけない、と思うだろうし。

何も知らないままで待ってるってことは、ねぇだろう。
俺が杏の立場ならまずそんなこた出来ねぇし。


杏は、きっと。自分の身体のことを知ったところで、ちゃんとそれを受け入れる芯の強さがあることは、俺だって知ってる。


事情を知る親父さんだって哀ちゃんだって、側にいる。

──非常に癪だが、緑っ君もなんやかんや、フォローしてんだろう。






ただ。そう。

これは、本当俺のわがままでしかねぇんだ。


あいつが嬉しそうに、照れたように笑うのも。辛いときにその涙を流すのも。

俺の腕の中に収まってる時であってほしいなんて。





[うおーい新入りー!休憩中すまん!故障車の対応頼む!!なんかボンネットから黒い煙出てんだー]

[っ、へーい!了解!!]




スタンドからのおっちゃんの声で、意識をあわててこちらに戻した。





──センチメンタルに浸るには、まだ早い。

まずは俺のやるべきこと、しっかりこなさねぇと。



掲げていた手のひらの先。
まぶたの奥に残る杏の笑顔を俺ん中に閉じ込めるように、ぎゅ、と拳を握りしめて。




青い空をバックに、スタンドへと駆けていった。