ミーンミーン
蝉の鳴く声が、耳に響く。
とうとう、快斗君が帰らないまま。7月になっていた。
「あっつ……」
「本当、嫌んなるくらいあっついわね」
馨ちゃんと2人、ぐでっとなりながら、帰路に着く。
もう直ぐ夏休みではあるけれど。夏休みも夏期講習ががっつり入っていて、すっかり受験モードの夏である。
あまりの暑さに帰り道、2人で買ったパピ子はあっという間に汗まみれで。もはやシャーベットと化していた。
それを、我が家の近所の公園のベンチで座って2人、齧り付く。
「そうそう、杏、私今日、ジムの日だからね」
あんたん家で飯食えないから。
そう、暗に伝えるその言葉に、思わず噴き出した。
「やだなぁ、馨ちゃんったら。まるで新婚の旦那さんみたいだよ」
「──そうね。しばらく男も懲りてるし、杏の飯も美味いし。それもアリね」
「へ」
パピ子を咥えた馨ちゃんが、ぐい、と私の襟元を掴む。
──私のモノになる?一生守ったげる。
少しハスキーな、超絶お色気ボイスが、耳元に届いた。
馨ちゃんの香水の香りが、絡みつくように脳みそまで刺激する。うわ……良い匂い……馨ちゃん綺麗──って!
「──っ、あっぶな!」
惚れてまうとこだった!こわ!
に、と笑って咥えたままのパピ子の底を、私の口元へとひっつけて。暑さにひんやりとしたパピ子が気持ち良い。じゃなくて!
「奪っ、ちゃっ、た」
語尾にハートマークでも付かんばかりの勢いで、そう言って馨ちゃんが微笑む。うーわ、美女の壮絶破壊力抜群笑顔頂きまして……奪われた……私の唇とハート奪われた……!
「──こっわ。馨ちゃんまじこっわ……っ」
「ま、明日は行けると思うから。良い子で待ってなハニー」
そう、ぽんぽんと頭を叩かれて。
気をつけて家帰れよ、なんて。
美人で男前過ぎるってなんなの。
我が家の近くの公園なので、どう考えても大怪我はしないと思うのだけど。馨ちゃんには、足元気をつけてよ。とさらに念を押され、その場で別れた。
馨ちゃんの過保護が快斗くんと同レベルになってきてないか、と思わず苦笑してしまう。このままじゃ本当にマイダーリンだ。
ふふ、と思わず心の中で笑みをひとつ。
最近は、前よりちゃんと笑ってる気がする。
きっとだから、馨ちゃんもあんな風に、以前みたいな冗談もかましてくれるようになったわけで。
いやまあ、あの冗談は刺激が強すぎたけどね。
馨ちゃんが本気出したら老若男女全堕ちできる気がする。
「──ね、快斗君。危うく浮気するとこだったよ?」
馨さんには勝てねぇかもしんねぇ。なんて項垂れそうな快斗君が脳裏に浮かんだ。
──7月だ。もう、7月。
快斗君が、ドバイに行ってから。もう2ヶ月も過ぎたんだ。
最後に声を聞いたのは、5月末で。
まるでずっと昔のように感じてしまう私だけど。それはきっと、快斗君の居ない日々が、思った以上にずっとゆっくりに感じてしまうからだろう。
快斗君、でもさ。なんでかな。
緑水さんと海で話した時。最悪、私が探しに行けばいいと腹を括ってから。
快斗君と、絶対、また、会えるって。そう確信してるんだ。
──俺のハート、大事に、預かっといてな。ちゃんと、“そこ“に戻るから
そう。あんなキザなこと言う快斗君が、戻ってこない訳がないんだから。
「うし!」
ひとり、そう気合を入れて。
我が家のマンションの入り口に着いた、その時だ。
パタパタ、と翼がはためく音と共に。
白い鳩が、一瞬、見えた気がして。
驚いて上を見上げても、そこに羽ばたく鳥の姿は無く。ふぅ、と思わずひと息ついた時。
ひらり、と白い羽が1枚舞い落ちた。
「──っ、!!」
もちろん、そんな、白鳩=快斗君、なんて都合のいいことがあるわけないってわかってる。今の羽だって、マンションの誰かが飼ってるインコかオウムかが、脱走したとかかも知れない。
でも。
なんだか、予感がしたのだ。
突撃するかのように玄関の自動ドアが開いた瞬間、滑り込むように入って。内ドアを解除する為の鍵を探すんだけど、焦りからか見つからない。
「っ、ああもうっ!」
そう、思わず声を上げた瞬間、マンションから出て来た住民であろう人が、内ドアを開けたので、慌てて滑り込んだ。
「怪しいものじゃ無く、このマンション住んでますからー!」
そう、走りながら叫んだ私は、大分怪しさ満点だっただろうけど、そんなことを気にしてる場合じゃない。
バンバンと叩くようにエレベーターの上ボタンを押したものの、その番号はタイミング悪くずっと上の階を示している。
「っ、来ない!」
待ちきれなくて、踵を返した。
非常階段の住居者用の鍵を開けて、階段をひた走って。
途中で転んでしまった。なんとか落ちるのは堪えたがスネに階段の角が当たって結構痛い。でもそれどころじゃない。
──まった怪我して!おめぇ、自分のおドジ自覚しろっての!走るな、焦るな、階段は要注意!って何回も言ってるだろー?
そんな過保護おとんな快斗君のぶすくれ顔が目に浮かぶ。
ねえ、快斗君。今はだってしょうがないよ。走らずにいられると思う?
ねえ、快斗君。こうやって、何度、心の中で貴方に問いかけただろう。いつも、快斗君なら、こう言うかな、って想像してさ。
ねえ、快斗君。やっぱり私の都合の良い思い込みかな?白鳩が居たなんて、ただの勘違い?
そりゃ、何度も、部屋のドアを開けるたび。窓を眺めるたび、貴方がそこに居てくれたらと、何度も何度も期待したけど。
予感がしたとか、ただの願望でしかないけれど。
ねえ。快斗君。だって会いたい。会いたいんだよ。
走って。走って。また転んで。
同じ脛を2回強打するとか、これも身体のパンドラのパワーかと、思わず半泣きになりそうな痛さで。
今思うと、大人しくエレベーターを待っていた方が、早かったかもしれない。
それでも。じっとしていることなんて出来なくて。
はぁ、はぁと息を切らせて着いた我が家は、扉の鍵が開いていた。
「──っ、」
どくどくと鳴る心臓は、走ってきたからだけじゃない。
ばんっ、と勢いよく開けた先。
廊下を真っ直ぐ進んだ奥。
扉の開いたリビングから振り返る、見慣れない小さなシルエット。
「っ、あ……っ」
靴を脱ぐのも惜しんで走り出した。
「っ、かい、っと、くんっ……!!」
しがみつくようにぎゅ、と抱きつくと。
──小さな顔に、私の大好きな蒼い瞳が、瞬いた。
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