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「泣きそうな顔をするのに、泣かないことが気がかりだったんです」

私の手首を手当しながら、安室さんが言った。
安室さんはあの後、涙が止まらなくなってしまった私を嫌がったり疎んだりせずに根気よく慰めてくれた。
大丈夫、大丈夫。まるで子供に言い聞かせるように、私の背中を撫で続けてくれた。
優しくされると余計に涙が止まらなくなる。でもきっと、そういうことも安室さんは全部わかった上だったんだろう。
結局もう涙なんか出ない、というところまで泣き尽くし、目も鼻も真っ赤になってしまった。イケメンの前でこんな不細工な顔晒すなんて大分しんどい。
最後に泣いたのはいつだっただろう。何年分かまとめて泣いたお陰ですっきりしている。

「泣きそうな、顔…?」
「ええ、時折。泣きたいという顔をしているのに、あなたは決して涙など見せなかった。逆に笑ってさえいるから、そんな姿が酷く脆く見えたんです」

私の手首に包帯を巻きながら、安室さんはほんの少しだけ困ったように笑いながら言った。

「人間、どこかで力を抜かなければいけないんですよ。でもあなたは、ずっと張り詰めたままで。今にも壊れてしまいそうだと思いました」

自分では大丈夫だと思って踏ん張っていたつもりだったけど、安室さんから見たら私はそんなふうに見えていたんだ。
ぐす、と鼻を啜りながら私は視線を落とす。

「元来、あなたは強い人なんでしょう。だから限界まで…限界を超えても、それでも我慢して抱え込んでしまう」
「…私、全然、強くなんてないです」
「そうですか?僕は職業柄いろんな方とお会いする機会が多いですが、あなたの強さは稀だと思いますよ。あなたはもっと自信を持った方がいい」

はい、これでいいでしょう。包帯を巻き終わった安室さんが言いながら手を離す。動かすと少し痛みはあるが、包帯でしっかりと固定してもらったため大分楽だ。

「ありがとうございます…」
「今のあなたにはコーヒーよりも温かい紅茶の方が良さそうだ。今準備しますから待っていてください」

完璧すぎて、少し怖いくらいの人だなぁ。
安室さんがキッチンに立つのを見つめながら、泣きすぎて腫れた瞼に触れる。ぼんやり重くて、まだ涙腺が壊れているのか少しのことでじんわりと視界が滲む。
安室さんには恥ずかしいところを見られてしまった。でも、安室さんがいてくれて心底良かったと思っている。名前で呼ばれたのには、びっくりしたけど。でも嫌じゃなかったし、それどころか…嬉しかった、と思う。
恥ずかしいなぁ。
小さく息を吐いて、ローテーブルに突っ伏した。

「ミナさん」

安室さんの声に顔を上げる。目の前に差し出されたホットタオルを見て目を瞬かせた。安室さんの顔とホットタオルを見比べてから受け取ると、掌に伝わる程よい温かさに心地良くなる。

「瞼に当ててください。気持ちいいですよ」
「……何から何まで、ありがとうございます……」

情けないなぁ。思いながら視線を落とすと、くい、と額を指で押された。言わずもがな安室さんの人差し指だ。
きょとんとしてしまった私をじっと見つめて、安室さんはすぐにクスリと笑う。

「情けないな、なんて思っているでしょう」
「んぐ、」

心の声を読まないでいただきたく。気まずくなって視線を逸らす。

「そういうところですよ、ミナさん。情けないなんて思わなくていいんです。…他人に甘えるのが下手ですね、あなたは」

そんな言い方されると、甘えてもいいんだと言われていると錯覚してしまう。
やめてほしい。誰かに甘えることに、慣れてしまいたくない。特に、安室さんには。
だって安室さんは、いずれいなくなってしまう。帰る方法が見つからないなんて結末ももちろんあるだろうが、安室さんが決して諦めるような人じゃないことはこの一週間で感じている。
方法が見つからないなら、方法を作り出してでも自分の世界に帰るだろう。この人は、恐らくそういう人だ。
安室さんに甘えることに慣れて、安室さんがいなくなった後に一人で歩くことも立つことも出来なくなるのが怖い。どの道私は、一人なのだから。

安室さんに返事を返せないままホットタオルを瞼に押し当てた。じんわりと熱が伝わって、気持ちよさに体の力が抜ける。

「…気持ちいいです」
「それは良かった。少し温めたら、ミルクティーをお持ちしますよ」

閉ざされた視界の中、安室さんの声を聞いて胸が温かくなる。
なんでこの人はこんなにも優しくいられるんだろう。人間の器が違うというか、ここまで非の打ち所のない人間っていたんだと半ば感心してしまう。
血行が良くなって、ホットタオルが丁度温くなった頃合でコトリと音がし、タオルを目元から外す。
目の前にはミルクたっぷりのミルクティーが置かれていた。甘い香りは、これはハチミツだろうか。

「どうぞ」
「…いただきます」

タオルを置いて、マグカップを口に運んだ。
優しい甘さのミルクティーにほっと息を吐く。

「…美味しいです」
「お口に合って何よりです。…少しは落ち着きました?」

私の正面で、安室さんはローテーブルに頬杖をついてこちらを見つめている。私はちらりと安室さんを見てから、こくりと小さく頷いた。

「……あの、…名前…」

先程元彼と対峙した時から、安室さんは私のことを苗字で呼ばなくなった。嫌な訳では無いが、少し慣れなくてどことなくこそばゆいので軽く問いかけてみる。
私の小さな一言で安室さんは全てを理解したようだった。

「あぁ、…もしかして、嫌でした?」
「えっ、いや、…全然嫌ではないんですが、突然どうしてかな、って思って…」
「あの男性はあなたのことを名前で呼んでいた。僕が佐山さんと呼びながらあの場に割って入るよりも、ミナさんと呼んだ方が僕の印象を付けやすいと思ったんですよ。…元交際相手のことを名前で呼ぶ男、なんて、屈辱と感じる場合もありますからね。…ミナさんと実際呼んでみたら、想像以上に馴染みやすかったものですから。もしあなたが良いなら、このままで」

う。やはり安室さんには、彼が私の元彼だということはお見通しだったようだ。気まずくなって視線を泳がせる。
名前呼びもなんだか慣れない。元彼に名前を呼ばれていた時にはこんな気持ちになんてならなかったのに。
安室さんはやや動揺した様子の私を見て、クスリと笑って小さく肩を竦める。

「もう、あんな男に引っかかっちゃ駄目ですよ」
「……はい」

彼と穏やかな時間を過ごしたこともあった。家に一人でいるよりも、彼がいてくれた方が安心できたのも事実だ。子供の恋愛じゃないんだし、彼に体を許したこともある。付き合った期間は短かったが、嫌な事ばかりではなかった。
けれど、彼のことが好きだったかと考えたら…正直、今はよくわからなかった。
愛して欲しいと思いながら、実際彼のことを愛せていなかったのは…私の方だったのだろうか。

「ミナさん」
「っ、はい」

ぼんやりと考え込んでしまっていたから、安室さんの声に必要以上にびくりと身を弾ませてしまった。

「今日は、もうぐちゃぐちゃと考えるの禁止です」
「え、あの、でも、」
「駄目です。あの時ああすればこうしていればとか、自分が悪かったんじゃないかとか何か出来たんじゃないかとか。それは全部、終わったことですよ。後悔して今考えたところで答えは出ません」

でも、と言葉を繋ごうとするも、私が口を開きかけたところで私の唇に安室さんの人差し指が押し当てられる。
咄嗟に口を閉じてどうしたら良いかわからずに目を瞬かせれば、安室さんは小さく笑った。

「もちろん過去を思い返して反省するのも大事なことです、が。…あなたは過去を反省するよりも、未来を想像してそれに進む方が良さそうですね。なりたい自分を想像する。そっちの方が、考えていても楽しくないですか?」

なりたい自分を、想像する。
少し視線を落として考えていれば、そっと唇から安室さんの指が離れていく。

「ミナさんがなりたいのは、どんな自分ですか?」

安室さんの声にゆるゆると視線を上げる。

「…はっきりと、言いたいことを言えて…ふらふら流されるだけじゃなくて、自分の足で歩けるような人になりたい…です」
「なるほど。それから?」
「出来ることなら、後ろ向きになりたくない。…手探りでもいいから…前に進んでいける強さが欲しい」
「いいですね。他には?」
「…人を羨むのではなく…自分が持っているものを、大切にしたい」
「素敵な考えですよ。あとは?」
「あとは…」

安室さんに促されるまま、するりするりと言葉を口にする。口にするうちに、自分の考えが少しずつまとまって来る気がした。
欲張りすぎだろうか。自分が自分の思い描くような人間になれるのだろうか。

「……悲しいことがあっても辛いことがあっても…いつでも、笑っていられるような…そういう人に、なりたい」

強くなりたい。
私はまだまだ、こんなことじゃダメだ。情けない自分ではいたくない。胸を張って生きていけるような、そんな人間になりたい。
私の言葉を聞くと、安室さんは一つ頷いた。

「…僕からすれば、今ミナさんが話した理想のほとんどが既に達成されていると思いますが…まぁ良いでしょう。なりたい自分を目指せば、それでいいんですよ。それだけで真っ直ぐに前を向くことが出来る」

なりたい自分を目指すだけ。ぱちり、と目を瞬かせる私に、安室さんはただし、と言葉を続ける。

「歩き疲れることもあるでしょう。苦しくなることもあるでしょう。その時は、必ず休まなくてはなりません。休んで周りを確認しないと、目指す目標がズレていても気付けませんからね」

確かに、私は周りを見れていなかったのだと思う。
視野が狭まって、何が大切かも見えていなかったのかもしれない。それで大切なものまで取り零したら、取り返しがつかないことだってある。

「ミナさんに必要なのは間違いなく休息でしょうね。力を抜くことを覚えた方が良い」
「力を抜く………」
「…まぁ、あまりそう考え込むとまたぐるぐるしてしまうでしょうから、ほどほどに。…全く、あなたは甘えさせるのにも一苦労ですね」

安室さんは苦笑して肩を竦めた。
じっと目が合ってドキリとする。安室さんの瞳は透き通るような綺麗なブルーグレーで、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうになる。
どぎまぎした私に気づいたのか、安室さんが小さく笑った。

「明日は、どこかに出掛けてみましょうか」
「…そ、そんな、のんびりしていてもいいんですか…?」
「言ったでしょう、大事なんですよ休息って。…焦ってどうにかなる話でもないですしね。視野が狭くなるよりもずっといい。…それに…」

言葉を切った安室さんが、ふと視線をローテーブルに落とした。

「…糸口が掴めたかもしれません」
「えっ?!」

驚いて目を見開く。思わず立ち上がってしまいそうだった。
糸口。今安室さんは糸口と言ったのか。安室さんが元の世界に帰るための糸口がわかったのか。
身を乗り出す私に苦笑して、安室さんも少しだけ姿勢を正す。

「ミナさん。先程の、あなたの元交際相手の男を…僕は、知っているんです」
「…え?…えっと、知っているって…どういう」

彼と安室さんがどこかで会っていたというのか?けれど、そんなタイミングが果たしてあっただろうか。
安室さんは確かに単独行動をすることもあったけど、それは私が会社に出社した月曜日だけの話だ。後は私とほとんどずっと一緒にいたし、買い物の際に少し離れることはあってもそれも数分の話。
一体いつどこで。そんな疑問が私の顔に浮かんでいたんだろう。安室さんは緩く首を横に振った。

「この世界で、ではありません」
「………は…?」

「僕が巻き込まれた爆発の原因でもあった、爆弾を仕掛けたのが…あの男だったんです」

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