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会社に辞表を渡してから早五日。
気付けば安室さんをうちに招き、ルームシェアをするようになって一週間が経った。
仕事を辞めて急に時間が出来た私は、安室さんが元の世界へ帰るためのお手伝いをさせて頂いている。お手伝いと言っても情報収集が主で、他には安室さんにこの世界のことを教えてあげるくらいのものだ。正直あまり役に立っているとは言えないし…これといった手掛かりも、未だ見つかってはいない。

「今更ですし答えたくなかったらいいんですけど…そもそも、安室さんってここに来る直前って何してたんですか?あの、着てたスーツがボロボロだったのが気になってしまって」

結局安室さんのグレーのスーツは一度洗濯してみたものの、とてもまた着れるような状態ではなかったため廃棄することになった。質の良いものだったから結構高いものだと思うのだが、安室さんは「一着くらい問題ありませんから」と大したことではないように言っていた。
薄々思ってはいたことだけど、安室さんってもしかしてかなりの高給取りなのでは…?探偵業ってそんなに儲かるものなのか…?相場がわからないのでなんとも言えない。

「答えたくない訳では無いのですが、答えにくくはありますね。…実はちょっと爆発に巻き込まれまして」
「ばっ?!」

安室さんは軽く肩を竦めて言うが、どう考えてもそれは「ちょっと」で済まされるような話ではない。

「爆発って…何があったんですか…」
「詳しくは話せないんですが。まぁ、爆発に巻き込まれて気付いたらあそこに倒れていて、あなたに声をかけられていたとそんなところです」

爆発に巻き込まれて異世界トリップ。本当にどこぞのお話の中のことのようだ。非現実的すぎて少し頭痛がするが、私と安室さんはこの非現実的な現象を攻略しなければならないのである。

「…もう一度爆発に巻き込まれたら戻ったりして」
「ははは、良い案ですね」

安室さん、若干棒読みです。しかし、爆発に巻き込まれたというのならあのスーツのボロボロ具合も納得できた。

現在の時刻は昼を過ぎて大分経った頃。今朝は一度買い物に出て、帰ってきてからは二人して情報収集に励んでいる。安室さんはパソコンで、私はスマホで。
お昼には安室さんお手製のハムサンド。安室さんが働いてる喫茶店で好評というサンドイッチである。これが、めちゃくちゃに美味しかった。
ふわふわのパンにシャキシャキのレタスとマヨネーズのソース。不思議な風味がしたので聞いてみたら、ハムにはオリーブオイルを塗り、マヨネーズには隠し味で味噌を混ぜているらしい。簡単なのに味がこんなに変わるなんて本当にすごい。今度安室さんのレシピでハムサンドを作ってみようかと思ったが、私ではこんな簡単なものすら失敗しそうな気がしてやっぱりやめておこうと思った。

「…でも、本当に何がきっかけだったんでしょうか。正直その、絶対に起こりえないと思っていた現象だけにどう調べていけばいいのかもわからないですよね」
「そうですね。何か糸口だけでも見えれば大分違うんですが」

タイムトラベルだとか異世界トリップだとかその単語の意味を調べては見たものの、当然ながらそれを発生させる方法の記載なんてあるはずもなく。何を調べれば良いのかもわからないまま、途方に暮れる間もなく調べ続けている。

「この五日間でこの世界の大体のことはわかりました。互いの世界で存在する人間が異なっていたり、同じ場所でも名前が異なっていたりと、細かな違いは多数ありますが地理やほとんどのことは同じなので。……この世界は平和で、とても静かですね」
「平和?」
「えぇ。あくまで僕の日本と比べての話ですが、犯罪件数も少なく比較的穏やかです。爆破事故や爆破テロも少ない。殺人事件も毎日何十件、何百件と起こっている訳では無い。僕の住む米花町は驚異的な犯罪発生率です。こことは比べ物にならない」

それって一体どんな犯罪発生率だ。確かに日本は平和と言えば平和かもしれないが、穏やかで静かと言われたら首を傾げてしまう。安室さんの住む米花町が、よっぽど犯罪の多い場所なのかもしれないが。

「米花町ってそんなに治安が悪いんですか…?」
「残念なことに。街自体は穏やかで良いところなんですが、犯罪件数は一向に減りませんね」

それだけ治安の悪く事件が多い場所なら、もしかしたら探偵という職業が多くても頷けるのかもしれない。恐ろしい街だなと思いながら私は曖昧に返事を返す。

「僕がここに来た大体の予想時間に何か大きな事件でもなかったかと調べてみましたが何も出てきませんし…あながち、爆発に巻き込まれたのがきっかけなのは間違っていないかもしれませんね。かと言って同じ規模の爆発を起こしてそこに巻き込まれに行くのは正直危険すぎますし、それで戻れる保証はどこにもない」
「いや、いやいや、やめてくださいね?さっきのは冗談ですよ。危険なことはしないでください」
「戻るどころか命の危険がありますからね」

言ってみただけで実際に試すつもりはないのだろう。
私はスマホでいろいろ調べつつ、気になったことはノートにメモしてまとめる作業をしていたが、さすがに肩が凝ってきた。

「ちなみに、安室さんの世界にいた人物とかで共通した人物はいない…んですよね」
「はい、著名人で調べてみましたが、一切。この世界の芸能人やアイドルを、僕は知りません。…ああ、でも、コナン・ドイルはよく知っていますよ。シャーロック・ホームズシリーズは僕も読みましたから。歴史上の人物に関しては共通していると思います」

歴史上の人物か。その辺が一致しているとなると、ますます謎が深まるというか余計にこんがらがるというか。
安室さんは情報収集に一区切りついたのか、軽く息を吐くと体を伸ばした。それから、指先で軽く瞼を揉む。
私も少し疲れたし、そろそろ一息入れても良いだろう。

「コーヒーでも淹れましょうか」
「僕がやりますよ。佐山さんは座っていてください」

立ち上がろうとした私を制して、安室さんがキッチンへと向かう。今は私よりも安室さんの方が疲れているはずだし、コーヒーくらいなら私でも淹れられるからと思ったのだが…一番最初に出会った夜に紅茶を淹れた時のことを思い出す。一線引かれたと思ったのはあの時だったが、その一線は一週間経った今も消えることは無い。
もしかしたら、私の考えすぎなだけなのかもしれないけど。私の考えすぎだったらいい。
キッチンでコーヒーの準備をしてくれている安室さんを見つめる。
…本当に何をしても絵になる人だな。きっと小さな頃から美少年だったんだろうな。


不意にピンポンとチャイムが鳴った。
ぱちり、と安室さんと顔を見合わせる。

「なんだろう」
「宅配便とかでしょうか」

宅配便なんかが来る予定は無い。もしかしたら回覧板か何かだろうか。
どっこいしょ、と腰を上げて大した距離のない廊下を進み、ドアの鍵を外す。

「はーい、」

がちゃりとドアノブを捻ってドアを押し開けた途端、隙間から伸びた手が強く私の手首を掴んだ。

「ッ?!」

突然のことに反応出来ず小さな悲鳴を上げた。手首が折れるんじゃないかという強さに痛みが走る。慌てて引っ込めドアを閉めようとしたら、それ以上の力でドアが開かれて強く引っ張られる。

「ミナ」
「えっ、」
「いいご身分だよなぁ、随分元気そうじゃん」

声が降ってきて、弾かれたように顔を上げた。鬼のような形相の元彼が、私が閉じようとするドアを押さえて私の腕を捻り上げた。

「ッいたい、痛い!やめて、」
「なぁどんな気分?お前が仕事辞めたせいで、お前の仕事が全部あいつに回されてんだ。他の奴らから仕事押し付けられて、終わるまで帰してもらえねぇって毎日泣いてんだわ。今日も休日出勤だってよ、なぁ、お前それ聞いてどんな気分?」

痛みに頭が真っ白になる。
あいつ。あいつって、後輩のことだろうか。そうか、私の次は彼女が会社の標的になってしまったのか。
彼女は仕事自体あまり早い方ではなかったから、突然増えた仕事量に追いつかなくなっているのは想像出来た。
大変なのはわかる。私よりもずっと早く、彼女にとっての限界が来てしまっているのかもしれない。

「お前が犠牲になってりゃ良かったじゃん、仕事が生き甲斐だったみたいだし?あのまま会社に扱き使われてりゃ良かったんだよ」
「いた、ッ痛い、やめて、はなして」
「答えろよ!!」

私が犠牲になっていれば良かった?
仕事が生き甲斐なんて、そう見られていたなら私もどうかしていたのかもしれない。
でも。でも。
それでも彼は、私が仕事に忙殺され始めて辛かった時期を、誰よりも一番傍で見て知っていたはずなのに。うちに泊まりに来てたでしょう?終わらない仕事に泣いてた私も見てたでしょう?
今彼女の抱えてる苦しみは、あの時の私と同じ苦しみなはずなのに、それもわかってるはずなのに。
後輩のあの子と付き合う為に体良く使われていたのはわかっていた。でも、そんな言い方って。
あの子の為に怒れるのに、私の為には怒れなかった?励ましの言葉を少しでもあげようとは思わなかった?
私はあなたにとっても、最初から最後まで、都合が良いだけの女だった?

彼の手が大きく振り上げられる。手は掴まれていて逃げられない。
ああ、殴られると思ってきつく目を閉じる。
これも全て、私が悪いのだろうか。
私がもっともっとちゃんとしていれば。仕事も恋愛もちゃんと出来ていれば。
彼は私のことも、愛してくれたのだろうか。


「傷害罪」

殴られる痛みを覚悟していたのに痛みは来ず、耳元で凛とした声がした。

「それから、住居侵入罪」

ゆっくりと目を開けて、恐る恐る顔を上げる。
私のすぐ後ろに立っていた安室さんが、振り下ろされた彼の拳を掴んで止めていた。

「なっ、なんだよ…お前、」
「その手を離していただけますか。傷害罪は十五年以下の懲役、または五十万円以下の罰金。住居侵入罪は三年以下の懲役、または十万円以下の罰金に処せられます」

彼の声を遮って安室さんが言う。
その声は私が聞いたことのない、とても冷たいもの。私の位置からは安室さんの顔は見えないが、彼の表情の強張り具合から穏やかな表情でないことだけはわかる。

「なんだお前…男連れ込んでやがったのか、」
「お話なら、まずその手を離してから。…聞こえませんでした?…ミナさんの手を離せ」

私の手首を掴む彼の手を、安室さんが強く掴んだ。
ひっ、と小さく息を飲んだ彼が怯む。その隙に安室さんの腕が私の肩を抱き寄せ、彼から引き離す。密着する体に、そして安室さんに名前で呼ばれたことに、こんな状況だと言うのに私の胸はどきりと跳ねた。

「…あなたの彼女さんが、かつてのミナさんと同じ状況にあると。それはミナさんが抜けた穴を埋める為。だからミナさんが犠牲になっていれば良かった、そう仰いましたね」
「…そ、そうだよ。そいつが辞めなきゃ、あいつはこんな苦しい思いをせずに済んだんだ」
「なるほど。では、ミナさんがその苦しい思いをするのは構わないと?」
「なんで、俺がそいつのことを考えてやらなきゃなんねぇんだよ。そいつは好きでやってたんだ、それでいいだろ」
「ホォー…随分と自己中心的なことを仰いますね。その言葉でミナさんが精神的苦痛を受ければ、それもまた傷害罪になります。あなたの言い方では、脅迫罪が成立する場合もある」

安室さんの言葉を聞けば聞くほど、彼が青ざめていくのがわかった。そんな様子を見た安室さんがくすりと笑う。

「…まだ続けるおつもりなら、然るべきところでお話の続きといきましょうよ。こんなところじゃ、落ち着いて話せないでしょう?」

然るべきところ、という言葉に彼は小さく後退る。私しかいないと踏んでいたんだろう。突然予想外の人物の登場に、二の句が告げないでいる。

「…そもそも彼女さんのことが大切ならば、その怒りをぶつける相手はミナさんではなく雇用先の会社でしょう。ここでミナさんに八つ当たりをしたところで何も解決しないですし、下手をすればあなたは犯罪者だ。金輪際ミナさんに関わらないというのなら、ここで終わりにしても良いですが」

それを聞いた彼は少しだけほっとしたように表情を緩めた。それから私に視線を移して強く睨む。

「…誰がお前みたいな奴に二度と関わるか。消えてなくなっちまえばいいんだ、お前なんて」

それだけ言うと、彼はそのまま引き下がり去っていった。
程度の低い捨て台詞。けれど、どうしても「消えてなくなっちまえ」の言葉が呪いのように私に刺さる。
死ね、だとか、殺す、なんて殺意に満ちた言葉よりも、強く私に刺さりまとわりつくような窒息感を覚えた。

バタン、とドアが閉まっても、私は動くことが出来なかった。
掴まれていた手が小さく震えている。視線を向けると、手首は彼の手型に赤くなり、爪が刺さっていたところには血が滲んでいる。

「手当て、しましょうか」

安室さんの声にはっとする。
そうだ。安室さんに肩を抱かれ、体を支えてもらっていたのだ。慌てて体を離そうと身を捩る。

「す、すみませんっ!あの、お騒がせしてしまいまして、安室さんにも迷惑をかけてしまって…!」
「ミナさん」

優しく名を呼ばれ、魔法のようにぴたりと動けなくなる。
安室さんは私の肩を抱いていた手で、そっと私の背中を叩く。まるで落ち着かせるように、優しく。
とん、とん、とん。

「大丈夫ですよ」

顔を上げると、安室さんが柔らかく目を細めて微笑んでいた。
安室さんは私の手首をそっと両手で包み込み、そこを労わるように優しく撫でた。

「大丈夫、大丈夫」

染み入るようなその声に、視界が滲んで体から力が抜ける。
気付いたら私は声もなく泣き出していて、涙腺はまるで壊れてしまったかのように涙は止まることを知らなかった。
安室さんを見つめたまま、泣き声を上げるでもなく涙を流し続ける私はさぞかし滑稽だったことだろう。
でもそんな私を見て、安室さんはほっとしたように言った。

「良かった。ようやく、泣いてくれましたね」

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