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「ようやく、あなたの口から聞けた」

嬉しそうな透さんの声がする。そんな彼の声を聞いていると、私まで嬉しくなって胸が温かくなる。
透さんに抱きしめられることは今までにも何度もあったけど、こんなにぎゅうと抱きしめられたのは初めてだ。ぴたりとくっついた体が心地良い。
きっと何度好きと口にしても足りない。百回、千回想いを告げたって、私の今の気持ちは伝えきれない。
まだまだ言いたいことも、聞きたいこともたくさんある。透さんとゆっくり話をしたいけれど、それよりも先に彼を病院に連れていかなければならない。ずっと溜め込んできた想いを告げたことで、幾分私の頭は冷静になっていた。

「透さん、あの、たくさん話したいことがあります。たくさん伝えたいことがあります。だけど、」
「わかってます。僕もあなたと話したいことがたくさんあります。けどその前に…僕もあなたも、病院ですね」

少しだけ体を離して、透さんが私の顔を見つめて苦笑する。
そう、病院に行かなければならない。私はともかくとして、透さんのこの怪我は素人目に見ても大怪我である。一刻も早く治療を受けて欲しい。私のスマホは壊れているし、とりあえず透さんのスマホを借りて医療機関に連絡出来ないかと思ったのだが、そんな私の考えも彼にはお見通しだったのだろう。
私が口を開く前に、まるで安心させるように私の背中を優しく叩く。

「迎えを呼びます。すぐ近くまで来ているはずなので、少し待ってください」

透さんはそう言って私から距離を取ると、スマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。距離が離れている為に透さんが誰とどんな話をしているのかは聞こえない。迎えって…一体誰に頼むんだろう。
通話が終わったのかスマホをポケットにしまった透さんがこちらに視線を向けたので、私はおずおずと近付く。…どうしても近くに行っても良いのか少し不安だ。恥ずかしいというのもあるし…つい先程のこととはいえ、透さんに抱きしめられたことさえ私の都合の良い夢なんじゃないかなんて考えてしまう。

「向こうの道路で待機しているみたいなので、行きましょう」
「は、い」

透さんに促されて、彼の後ろをついて行くような形で歩き出す。隣に並ぶのはなんとなく恥ずかしくて勇気が出なかった。だってその。…好きだと伝えて、好きだと言ってもらえた。恥ずかしさで地面が掘れるなら、きっと地底奥深くまで埋まってしまえる気がする。そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、恥ずかしさで気まずくて仕方なかったのである。
当然そんな距離を不審に思われてしまうわけで。

「…ミナさん、どうしてそんな後ろからついてくるんですか?」
「…いや、その、……恥ずかしくて」

振り向いた透さんに問われて、上手い言い訳も浮かばないので事実を口にする。透さんが立ち止まったので、必然的に私も数歩後ろで立ち止まった。
…顔が見られない。透さんが小さく笑ってる気配がする。恥ずかしい。

「なるほど。両想いになったからと言っても、あなたのその照れ屋な性格はそのままですよね。安心しました」
「…安心、ですか」

両想いという言葉にもうっかり動揺してしまいそうになるのを慌てて堪えながら、私は小さく首を傾げた。
どうしてこんなので安心するんだろう。情けないだとか思われるならわかるんだけど。
上手く距離を縮められない私を見て、透さんはいとも簡単に数歩の距離を詰めてくる。それから、右手で私の手を取ろうとして…ふとピタリと手を止めるとすぐに引っ込めてしまった。
どうしたのだろう、と思って気付く。透さんの怪我は左肩だ。止血の為にそこを押さえていた安室さんの右手は、恐らく血で汚れてしまっているんだろう。

「透さん、」
「すみません。…さ、行きましょう」

小さく笑って促されて、きゅっと唇を引き結んだ。
血で汚れるくらい、なんてことない。…そんなこと、気にしたりなんかしない。左手を伸ばして、透さんの手をぎゅうと握った。大きな手。たくさんの命を救った、温かい手だ。

「ミナさん、」
「さ、行きましょう。…その、……暗闇、ちょっと怖いので」

本当は透さんが傍にいてくれるだけで暗闇への恐怖なんてちっともないのだけど。でも、今はまだ手を繋ぐことにも理由がないと恥ずかしさを抑えられそうにないから。
繋いだ手を揺らしながら、私と透さんは車が待っているという場所に向かった。


***


カジノタワーからも大分離れた薄暗い道路の端に、その車は停まっていた。
私と透さんが来たのに気付いたらしく、車から人が降りてこちらに駆け寄ってくる。近付くにつれてはっきりとわかるようになったその人物は、私も見覚えのある男性だった。

「ミナさん、彼は風見裕也。以前から何度かお話している、僕の知り合いの警部補です」
「…風見裕也です。よろしくお願いします」

風見さん。まさか彼が、透さんのお知り合いだったなんて。
私の世界にいた頃、知り合いが警視庁で働いているから会いに行くと言う透さんと一緒に霞ヶ関まで行ったことがあったけど、あの時に会おうとしていたのは風見さんの事だったのか。

「佐山ミナです。よろしくお願いします」

慌てて頭を下げて挨拶を返す。
…警察病院にキュラソーさんを迎えに来た時の様子だったり、警視庁でお会いした時の様子だったり、風見刑事ってすごい人なんだなぁと思っていたのだが、まさか透さんと繋がっていたとは…出来る人の周りには出来る人が集まるのかな。すごいな。

「安室さん、先に応急処置をさせていただいても?」
「ええ、お願いできますか」

透さんの血はまだ止まっていないのだろう。風見さんは私と透さんを車の近くまで誘導すると、先に後部座席のドアを開けて透さんを乗せた。

「すみませんが、安室さんの応急処置を済ませますので…終わるまで少し待っていてください」
「はい 」

肩の部分の怪我なら服を脱がないと応急処置も出来ないだろうし、風見さんが後部座席に乗り込んでドアを閉めるのを見つめてから私は車に背を向ける。
…車の中は暗くて外からではあまりよく見えないけど…なんとなくじっと見るのもおかしいだろうし…応急処置が済んだら声をかけてくれるだろうし。
視界には夜の海と東京の街が広がっていた。位置的にはショッピングモールの近くだろうか。ここからだと、エッジ・オブ・オーシャンに続く二本の橋もよく見える。まだ少し渋滞しているみたいだけどお巡りさん達の誘導もあって大分スムーズだ。これなら多少時間はかかるが問題なく病院まで行けそうだな。
時計を見れば、もう午後九時を過ぎている。今から病院に行って…帰れる頃には日付を越えるだろう。明日は仕事もあるし、少しでも休める時間に休んでおかないと。透さんはあんな怪我だし、明日は一日…家にいてくれるだろうか。詳しくはわからないしその辺りを聞くつもりは無いけど、なんだか多分…とても忙しいんだろうな。それがなんとなくわかるからこそ、怪我をしている時くらいはゆっくり休んで欲しいのだけど。
そこまで考えてハッとする。

「………怪我人である透さんに、家事は絶対にさせられない…!」

掃除洗濯洗い物は問題ない。問題は何よりも料理である。人間が食べられないものを作ってしまうようなことはないが、私の料理の腕は透さんには遠く遠く及ばない。自分が食べるくらいのものならなんとかなるが、人様に食べさせるような代物ではない。
何か対策を、考えなければ。真っ先に頼りに出来そうなのは蘭ちゃんだが…こんなことがあった後だしゆっくりしたいだろうし、そもそも私よりもずっと年下の彼女に料理を教えてもらうなんて恥ずかしいというか申し訳なさすぎる。出来合いのものを買ってくる…?いつも透さんに美味しいご飯を作ってもらっている身として罪悪感がすごい。いや、私が作るよりも絶対にマシではあるけれども。

「佐山さん」
「ひゃいっっ!!」

悶々と考え込んでいたら後ろから声をかけられて思わず飛び上がってしまった。慌てて振り向くと、怪訝そうな顔をした風見さんがこちらを見ている。絶対に変な奴だと思われた。

「安室さんの応急処置が終わりました。どうぞ乗ってください」

風見さんが後部座席右側のドアを開けてくれる。なんで右側、と思いかけたけど、透さんの怪我が左肩だからそれに障らないように、という気遣いなのかな。さすが風見さん、出来る人である。
…それはそれとして、透さんが後部座席で私が助手席なんてことになるとは思っていなかったけど、透さんと二人で後部座席というのも、なんというか、どうしよう気恥ずかしい。一瞬戸惑うものの、今はそんなことに時間を使っている場合ではないと頭を振る。応急処置が終わっているとは言っても透さんを早く病院に連れていかないといけないことに変わりはない。

「…し、失礼します」

ぺこりと頭を下げると、覚悟を決めて後部座席へと乗り込む。透さんと目が合って小さく微笑まれ、かっと頬が熱くなるのを感じた。暗くて良かった。
風見さんが運転席に乗り込み、緩やかに車は発進する。透さんの傷にも響かないように安全運転のようだ。
透さんのセーターは左肩の部分を切り取られ、傷があるであろう腕にかけてしっかりと包帯が巻いてある。…見た感じ、結構大きい傷だ。もやりと不安になって眉を寄せる。

「そんな顔をしなくても、大丈夫ですよ」

声をかけられてぱっと顔を上げる。…いくらなんでもじっと見過ぎたらしい。

「す、すみません」
「どうして謝るんです?心配してくれてるんでしょう?」
「心配もしますよ…!あんなたくさん、血が出てたのに、その、失血死とか…あるんじゃないかって、」

思い出してひやりと背中が冷たくなる。人間がどのくらいの量で失血死をするのかは知らないが、あんな量の血が流れるところなんて普通はそうそう目にすることなんてないのだ。心配するに決まっている。
それが好きな人のことであるなら、尚更。

「人間には体重の約八パーセントの血液が流れています。失血死にはその血液の約半分が必要…ミナさんだと大体二リットル、僕の場合なら三リットルくらいでしょうか。さすがにそんなには出血してませんよ」

いや、今はその蘊蓄はいらない…!
それに、どのくらい出血したかなんてそんなのよく分からないんじゃないのか。
…見た感じは元気そうだから、大丈夫…なのかもしれないけど、でも、平気なフリをしてるなんてことも透さんなら充分に有り得る。
我慢して欲しくない。こんな大きな傷が、痛くないはずないのだ。そんな思いが顔に出ていたんだろう。思ったことが顔に出てしまうのは、どうにもならない癖みたいなものなんだろうな。
透さんはほんの少しだけ目を細めると吐息だけで小さく笑った。それから、体をこちらに少しだけ倒して私の肩に頭を乗せる。叫び出さなかった私を褒めて欲しい。

「とっ、……透さ、」
「傷が痛むんです。肩を借りても?」
「あの、…それ、私、多分、もう肩をお貸ししてるのではないかと…」
「事後承諾をいただきたく」
「…………大丈夫です」
「良かった」

ちら、と視線を向けると、透さんは私の肩に頭を乗せて目を閉じている。…ちょっとだけ、だけど。もしかして私に、頼ってくれてる…のかな。そんなことを考えてしまうのは烏滸がましいだろうか。
透さん、睫毛長い…鼻が高い。目を閉じててもこの角度から見てもイケメンはイケメンだ。ドキドキと高鳴る胸を誤魔化すように、私は視線を少しずつずらす。透さんの胸元から、ゆっくり下へ。そうして、座席シートの上に無造作に投げ出された透さんの右手に気付いた。
…右手なら、きっと大丈夫なはず。少しでも嫌がられたらすぐに離そうと決めて、私は左手をそっと動かして透さんの指に触れた。手のひらが上向きになったその手をゆっくり辿る。彼の親指を小指でなぞり、絡めようとして…そのままぎゅうと握り込まれた。

「っ!」
「あまり可愛らしいことをしないでください」

楽しそうな透さんの声に、息が詰まる。指を絡めて繋がれた手を見つめて、頭を抱えたくなった。…これは、あの、要するに。世間一般的に言う、恋人繋ぎ……というやつではないだろうか。
恥ずかしくて、心臓は激しく胸を打って苦しくて。それでいて、幸せで。好きという気持ちが溢れて止まらなくて。
全く、こんなものどうしようもない。いきなりこんな幸せが降ってきたってどうしようもない。どうか神様、幸せは小出しでお願いします。
そんなことを内心で叫びながら、私は繋いだ手にそっと力を込めた。

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