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風見さんに連れてきてもらったのは、東都警察病院だった。キュラソーさんが入院していた、あの病院である。
病院に着くなり透さんはすぐに奥に連れていかれてしまって(あれだけの大怪我だから当然と言えば当然だが)、私はまた別の診察室に案内されて手の火傷を見てもらった。
案の定水脹れが潰れて酷いことになっており、軟膏を塗ってから何やらガーゼのない絆創膏のようなもの(創傷被覆材と言うらしい)を貼って処置してもらった。手のひらがゴワゴワして動かしにくいが我慢である。
そうして私が診察室から出てきた時には、時計は午後十一時を過ぎていた。風見さんから待合ロビーで待つように言われた為そこでずっと待っているのだが、まだ透さんは戻ってこない。もうそろそろ日付を越える頃だ。

「……、…」

思わず小さく欠伸を零す。
大丈夫だろうと思ってはいても透さんのことが心配である。ちゃんと処置を終えて戻ってくるのを見ないと不安ばかりが募る。その気持ちは確かに間違いないのに、今日は一日であまりにいろんなことがありすぎた。
そういえば今日ご飯もろくに食べていない。ここ数日はあまりちゃんと寝れていなかったし、人混みに揉まれたりずっと気を張っていたりと、…要するに疲労の限界だったのだ。
ちゃんと待っていなくちゃ。透さんが戻ってくるのを待っていなくちゃ。戻ってきたら真っ先に迎えたい。そう思うのとは裏腹に、私の瞼はゆるゆると落ちてくるのである。
ねむたい。だめ。ねむくない。まだねちゃだめ。おきていないと。まってないと。
待合ロビーの薄暗さも相俟って思考が鈍くなり、自分自身に言い聞かせるのも徐々に徐々に疎かになっていく。
そうして、やがて私の意識はぬるま湯に溶けるように閉ざされていく。


***


優しく頭を撫でられている、ということだけは理解出来た。
…まだ小学生くらいの頃。悲しいことがあった時、泣いている私の頭を撫でてくれた祖母の手を思い出す。ゆるゆる、ゆっくりと繰り返し。私が泣き止むまで続けてくれて、気付いたら安心して眠ってしまっていたんだっけ。心地よくて、解けるような安心感だった。
その時の感じによく似ているなぁ、なんて思った。…おばあちゃんの膝枕と違ってなんだか硬いけど。

「…、…」

意識が覚醒する。あれ。おばあちゃんの膝枕と違って、ってどういうことだ。なんで私横になっているんだっけ。というかいつの間に眠ってしまったんだろう。
えっと、確か。私は透さんが戻ってくるのを病院の待合ロビーで待っていたはず。眠くてたまらなかったのは覚えているけど、その辺からぷつんと記憶が途切れている。完全に寝落ち状態だ。
私が寝落ちたのはまぁいい。それよりも私は今、何を枕にして…?

「……あれ、」
「目が覚めました?」

目を閉じたまま小さく呟き、すぐに頭上から降ってきた声にぱっと目を開けた。
視界に映るのは寝落ちる前と同じく病院の待合ロビー。…ただし横向きである。違う。私が横になっているから視界の向きがおかしなことになっているだけだ。
瞬時に状況を理解して視線を上に向ける。

「おはようございます、よくお休みでしたね。…と言ってもまだ夜中ですけど」
「ひぇ、」

安室さんが私を見下ろしていた。考えるまでもない。硬い枕の正体は透さんの膝枕である。辺りに人の姿がないとは言ってもすぐそこのナースセンターには看護師さんがいるだろうし、こんな場所で膝枕をしてもらうなんて恥ずかしさで死んでしまいそう。
慌てて体を起こして急いで頭を下げる。

「すっ、すみませんうっかり!寝落ちてて…!!お膝までお借りしてしまって」
「お疲れだったんでしょう、無理もありませんよ。それに、先程ミナさんが肩を貸してくれたそのお返しです。…役得ですね」

くすりと笑った透さんの手が伸ばされて、乱れていたであろう私の髪の毛をそっと直してくれる。えっ、恥ずかしい。
羞恥から透さんの顔を見られなくて俯きながら小さく呻くものの、はっとして待合ロビーの時計を見ればもう夜中の一時を過ぎている。最後に時計を見た時は日付を越える少し前くらいだったから、私は一時間も寝こけていたのか。それはそうと、透さんの怪我の具合は。

「あのっ、透さんの怪我は…!」
「心配いりません。ちゃんと処置してもらいましたから」
「しばらくは絶対安静ですよね?」

なんとなく。怪我のことなんか気にしないで仕事をしてしまいそうなそんな気がしたから。透さんが決めたことなら私が言ったところでなんの意味もないかもしれないけど、でもせめて動き回るような仕事はお休みして欲しい。ポアロはもちろんのこと、探偵のお仕事だって。
…と、自分に言い訳してみたところで駄目なのだ。私が不安になっているのはその二つのお仕事のことではない。透さんがもし本当に警察官なのだとしたら…きっと今回の件の事後処理なんかに追われてしまうだろう。必要なことなのかもしれない。でも私は、それを見過ごすのは嫌だった。わかっている、私のわがままだ。でも、念を押さずにはいられなかった。

「…ゴールデンウィークが終わるまではひとまずはゆっくりさせてもらいます。だから安心してください」
「…良かった…」

五月いっぱいゆっくりしていても良いくらいだが、とりあえずはゆっくりする時間があることにほっとした。
胸を撫で下ろすと、再度透さんに頭を撫でられる。その手があまりに優しくて、透さんもどこか嬉しそうに見えるから…またじわじわと頬が熱くなる。

「…あ、の」
「はい」
「……どうして頭を撫でるんでしょう…」
「どうして、ですか」

私の質問にきょとんと目を瞬かせた透さんは、うぅんと悩むように天井に視線を向けてからすぐににこりと笑う。

「触りたいから、ですね」
「触りたいから」
「はい。だって、もうあなたに触れることを我慢しなくていいんですから。それとも、触れる前に確認した方が良いですか?」
「……えっと。……確認しなくて、いいです」
「それは良かった」

見つめ合うのも恥ずかしいので両手で顔を覆う。そんな私に構わず、透さんは変わらず私の頭を撫で続けている。
…透さんに好きだと伝えた。透さんも、好きだと言ってくれた。でも、その、明確に関係がどうこうっていう話はしていない。男女が…つまり、恋人になるのって、「付き合ってください」「喜んで」的なやり取りがあってこそ成立するもの、なのだろうか。どうして私はこんな子供の恋愛みたいなことに悩んでいるのだろう。もうそこからして恥ずかしい。
元彼の時はどうだったっけ。…なんだかなし崩し、というか、明確な意思表示はせずに気付いたらそういう関係になっていた気がする。

「………あの、」
「はい」
「…………や、やっぱりなんでもないです」
「ミナさん」

私達の関係って、なんですか。そう聞こうとして、聞けなかった。なんだかとても間抜けな質問に思えて、口に出すことが出来なかったのである。
無意識に視線が下がり、私の頭を撫でていた透さんの手がそのまま頬に触れて動きを止めた。その手はじんわりと温かい。ゆるりと視線を上げれば、優しくこちらを見つめる瞳と目が合った。
何を、と口を開こうとすると透さんの指が私の唇に触れる。立てた人差し指を口元に寄せた透さんがシィ、と言うので慌てて口を噤んだ。じっと目を合わせられて、思わず息を止める。

「僕はあなたが好きです」

囁くようなその声に、きゅうと胸が苦しくなる。透さんの目を見るのが恥ずかしいと思っていたのに、今度は吸い寄せられるように目が離せない。

「以前も言った通り、僕には隠し事がたくさんあります。そして、ひとつとして今あなたに話せることがないというのも変わりません。それは、僕の抱える隠し事が極秘のものということもありますが…それをあなたが知ることで、僕やあなたの身が危険に晒される可能性があるというのも理由の一つです」

密やかに、ほとんど吐息のような声で告げられる言葉。
待合ロビーには私達しかいないけど、他に人がいたところで私にしか聞こえないくらいの声だ。
逆に言えば…二人きりだろうと、大きな声では話せない内容。透さんの抱える隠し事とは、それくらい大事なものなのだろう。透さんや私の身が危なくなってしまうような…そんな、大事なもの。

「…警視庁ではすみませんでした。あなたを巻き込みたくないと敢えてああいう態度を取らせてもらいましたが…コナンくんと繋がっている時点で無駄でしたね」

ほら。透さんの行動や態度には、必ず意味や理由がある。
あの時は突き放されたと思った。辛くて苦しくてしんどかった。でも突き放されたわけじゃなかった。
全て終わった今ならわかる。透さんは、私を守ろうとしてくれていたんだ。

「これからも僕はきっとあなたを傷つけます。辛い思いもさせてしまうでしょう」
「構いません」

透さんの声を遮って告げた。
言葉を続けようとしていた透さんは、少しだけ面食らったように目を瞬かせている。その顔がなんだか珍しくて、小さく笑ってしまった。

「傷付くだとか、辛い思いをするだとか、そんなの気にしません。たとえそうだとしても、それ以上に透さんと一緒にいられることが私にとっての幸せです。隠し事のことも聞きません。知ることがいけないことなら、私は知らないままでいい」

知らないふりをすると決めた。
透さんが好きだと言ってくれたあの瞬間に、知らないままでいることを覚悟した。覚悟、なんてそんな大層なものではない。ただ私は、透さんと一緒にいたいだけなのだから。
傷付いたり辛い思いをすることと、透さんの傍にいられること。天秤にかけた結果がはっきりとしていた、それだけのことだ。
この人を信じている。この人を信じ続けていきたい。

「だから、」
「ストップ」

再び私の唇に透さんの指が押し付けられた。目を瞬かせると、透さんが深い溜息を吐く。…なにか、まずいことでも言ってしまっただろうか。

「ここから先は僕に言わせてください」

透さんはしばらく視線を落としていたが、ゆっくりと顔を上げるとそのまま私に顔を近付け、額と額をこつんと合わせる。小さく息を飲んでいたら、透さんが笑う気配がした。
透さんの手がゆるりと私の頭を撫でる。たったそれだけのことなのに幸せで、胸が苦しくてたまらない。
間近にあるブルーグレーの瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。

「僕の、恋人になってください」

囁くような小さな声。けれどそれで充分だった。
幸せが過ぎると苦しくなる。大きな幸せは涙腺を緩めるんだろう。じわりと視界が歪んで、ぎゅっと目を閉じた。

「…喜んで、」

声は掠れて震えていた。でも大きな声は必要ない。こんなに近くにいるんだから、ちゃんと伝わっている。
透さんは嬉しそうに眦を下げると、右腕でそっと私を抱き寄せた。抱き寄せられるままに彼の右肩へと顔を埋める。

「…あなたは、僕に好きになって貰えるような女性じゃないなんて言ってましたが…とても素敵な女性ですよ。僕が好きになるくらい」

背中を撫でられながら告げられる言葉に我慢していた涙が止まらなくなる。

あぁ、駄目だな。
涙腺が緩んで緩んで仕方がない。



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