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「ミナさん、元気になったね」

そんなことを黒羽くんから言われたのは、ゴールデンウィーク中の勤務でのこと。ゴールデンウィークで学校もお休みの黒羽くんは、この連休でしっかり働いてばっちり稼ぐつもりなのだそう。
手のひらの火傷が痛むので、私は発注処理や在庫管理なんかの事務作業に徹している。黒羽くんがいるとこういうことが出来るから本当に助かるのである。こんな手で分厚い書籍を何冊も持たなきゃいけないのは正直辛い。
発注処理をしていた私は手を止めて、レジを任せていた黒羽くんの方を振り返る。…元気、と言われればまぁそうだろうなと思う。そりゃ、好きな人と恋人になれたのなら元気になるのも当然のことではないだろうか。
…そう。私は、透さんと恋人になったのだ。内心小さく呟いて、頬が緩むのを止められなくなる。嬉しくて、ほんの少し恥ずかしくて、それ以上に幸せで胸がぽかぽかする。

「…そうかな?」
「こないだ会った時はなんか死にそうな顔してたから」
「…あの時は色々あったんだよ…」

クレープを奢ってもらった日のことか。それ私がここ数日で一番凹んでた日じゃないだろうか。あの時はなんだか透さんが遠くに行ってしまって戻ってこないんじゃないか、みたいな気分になってどうしようもなかったのだ。毛利さんのこともあって情緒不安定だったのも否めない。
あの日黒羽くんに会って一緒の時間を過ごせたのはすごく嬉しかったし、本当に感謝している。

「黒羽くんが奢ってくれたクレープ、美味しかったなぁ」

何の変哲もないカスタードチョコのクレープだった。けれどあの時ずぶずぶと泥沼にはまっていくような息苦しさの中で、黒羽くんとクレープを食べて少し話をしたことで私は間違いなく救われたのだ。
黒羽くんはそんな私の言葉に小さく笑う。

「んじゃ、また一緒に食いに行こうぜ」
「いいよ。次は私が奢るからね」
「まじ?んじゃ一番高いやつ食べちゃおっかな」
「どうぞどうぞ。二個でも三個でもお好きなものをご馳走しますとも」

それくらいはお安い御用だ。黒羽くんはやりぃ、と言うとにかっと笑ってみせる。…ほんと、太陽みたいな子だな。

「黒羽くん」
「うん?」
「ありがとね」
「えっ、何が?」
「言いたかっただけ」

黒羽くんは突然礼を告げた私を不思議そうに見ていたけど、私の感謝の思いが伝わればそれで良いのだ。
私はこの世界でいろんな人に支えられ、いろんな人に救われながら生きている。


─────────


「こんにちはー」
「いらっしゃいませ、コナンくん」

ゴールデンウィークも終わったある日のこと。安室さんがポアロに復帰したと聞いたので、学校帰りに寄ってみた。…復帰って言ってもあの一件からまだ幾日も経っていないはずなんだが。表面上何ともないように見えるけど、オレを抱えたまま窓ガラスに突っ込んだ際に出来た左肩の傷はまだまだ残っているはずだ。衣服が少し盛り上がってるし、包帯でも巻いているんだろうな。
小五郎のおっちゃん逮捕から無実で釈放の話も、数日は騒がれていたもののもう過去の話題だ。無実だったから当然ではあるのだが、おっちゃんの仕事の方にも支障は特に出ていないらしい。まぁ、その辺は裏で公安が動いたのかもしれねぇが。
ティータイムも終わった半端な時間だからか、店内に客の姿はない。客どころか店員も安室さんだけだ。

「今日は安室さんだけ?」
「ゴールデンウィーク中お休みをもらってしまって、梓さんや店長には迷惑をかけてしまったからね。僕だけで回せそうだし任せてもらったんだよ」
「…動けるようになったならいいんだけどさ、大人しくしてないとミナさんが心配するよ」
「はは、もうされてる」

さりげなく惚気かよ。思わず半目になりながらカウンター席に腰を下ろせば、安室さんは俺が何かを言う前にテーブルにケーキとオレンジジュースを置いてくれる。こないだから店のメニューに並ぶようになった例の半熟ケーキだ。オレンジジュースはともかくこのケーキはなんだと思いながら安室さんを見上げたら、安室さんは小さく笑いながら首を傾げた。

「今日は僕の奢り。こないだのお礼」
「…お礼って?ボク何かしたっけ」
「君のおかげでいろいろ上手くいったってことだよ」
「…わぁい、いただきまーす」

いろいろ、の部分には本当にいろいろという意味が有りそうだったから変に突っ込まずに子供らしく返事を返した。安室さんはそんなオレに気づいているのかいないのか、カウンターに頬杖をついてこちらを見つめている。

「安室さん、本当にもう怪我は大丈夫なの?」
「支障はないよ」
「…答えになってないなぁ…腕がそんなで、料理するのも大変でしょ。ここ数日はミナさんの手料理とか食べてたの?」

安室さんの背中を押した身としては、やっぱりその辺は気になるというか。惚気が聞きたいわけではないけど、
あれだけの事件を経た今安室さんとミナさんの二人がどういう生活を送っているのかは純粋に気になる。
安室さんは目を瞬かせると、そうかコナンくんは知らないんだね、なんて呟いている。

「彼女、料理苦手なんだ」
「えっ」
「以前一人暮らししていた時は自炊はほとんどしなくて、インスタント食品やカップ麺ばかりの生活だったみたいだし。仕事が忙しいようだったから、料理をする余裕なんかもなかったんだろうね」
「ミナさんブラック企業にでも務めてたの?」
「そういうことだね」

人間得手不得手がある。ミナさんが料理苦手だろうとそれに関して何か思うことは特に無いが、何でもそつなくこなすイメージがあったから少し意外だった。インスタント食品で生活っていうのは褒められたことではないけれど、料理をする余裕が無いって相当なブラックなんじゃないだろうか。…まぁ安室さんは息抜きに料理をするタイプだろうから、その辺りの比較は出来ないけど。

「…でもそれじゃあここ数日どうしてたの?お惣菜とか買ってきてたとか…まさか安室さん、その怪我で料理してたの?」
「聞きたい?」

にっこりと笑いながら首を傾げないで欲しい。オレが聞きたいと言うより、安室さんが話したそうにしている。これ多分、オレがやっぱいいって言っても勝手に話し始めるんだろうな。とりあえず頷いておく。

「半分正解で半分不正解」
「半分…?…一緒に作ったとか?」
「そう。僕は左肩が動かせなくて、ミナさんは右手を火傷してただろう?」

その言葉で全てを察した。
マジかよ。つまり安室さんが右手の役割を、ミナさんが左手の役割を担って一緒に料理したって言ってるんだぞこの人。
多分オレの表情が固まっていたんだろうけど、安室さんは目を瞬かせて軽く肩を竦める。

「合理的だと思うけど」
「……安室さんが楽しそうで良かったよ」

合理的かどうかは置いておいて、言ったことは本心だ。
ミナさんが安室さんのことを「好きだと想い続けられればそれでいい」と言っていた時のことを思い出す。想いを通わせるだけが恋愛じゃない、とも言っていたけど、そのままで良いとは思わなかったのだ。想い合っている二人なら尚のこと。
あれからミナさんには会ってないけど、きっと次に会う時は幸せそうな顔をしてるんだろうなぁなんて想像する。

「安室さんさ、」
「うん?」
「本当にミナさんのこと、大事なんだね」

安室さんは最初からミナさんのことを「大事な人」と言っていたのだ。安室さんの知り合いであることに警戒を解き、けれどやっぱり組織に関係がある人物なのではと疑って。結局ミナさんは本当にただの一般人で、安室さんの大事な人だった。
どうせ店内にはオレと安室さんしかいないのだ。少し突っ込んだ質問も許されるだろう。

「安室さんは、ミナさんのどんなところが好きになったの?」

安室さんは日本を背負う公安警察だ。そんな安室さんがミナさんに惹かれるようになったきっかけはなんだったんだろう。そもそも二人の出会いも気になるけれど、それは恐らくミナさんの「世界」の秘密に触れることになるだろうから聞かないでおく。
安室さんはオレの質問に目を瞬かせると、ほんの少しだけ懐かしそうに目を細めた。

「…放っておけないなと思ったのが最初だよ。僕が出会った時の彼女は酷く危なっかしくてね、ボロボロに傷付いていたんだ。オマケに警戒心も薄くて」

まぁそれは今もなんだけど、と安室さんは苦笑する。
警戒心が薄いのは…わかるな。ストーカー被害の時もなんだかピンと来ていなかったみたいだし。他人のことは鋭いのに、自身のこととなると鈍いイメージはある。

「それでも、一緒にいるととても心地良かったんだ。例えるなら暖かい陽だまりのような」
「それ、元太たちも言ってたよ。ミナさんといるとポカポカするってさ」
「ミナさん大人気だなぁ」

皆自然とミナさんに惹かれるんだ。それは恋愛的な意味じゃなくて、一緒にいると心地良いとか安心するとか、そういう漠然としたもの。なんとなく構いたくなってしまうというか、気にかけてしまうというか。それって魅力なんだろうなぁと思いながら頬杖をつく。
ミナさんはきっと、安室さんの正体にも気付いているんだろう。もちろん公安警察だなんてところまではわからないだろうけど、オレと安室さんがポアロの前で言い合っていたのを聞いていたのなら…彼女ならきっと、答えを自分の中で導き出したはず。だからこそ、何も聞かなかったことにしたのだ。
ミナさんは、気付き知った上で知らないふりをすることを選んだ。

「いつか、ミナさんに話すの?自分のこと」

その質問は、祈りのようなものだったのかもしれない。
安室さんが降谷零としてミナさんの前に立てる日が来るように。近い未来には叶わなくても、いつかの未来にそういう日が来るように。
今はまだ曖昧な未来も、願う「いつか」ではっきりとした輪郭を持つ日が来るかもしれない。オレはその日が来ることを願い、祈る。そしてその日が来たら、心から祝福するだろう。

「そうだね。…いつか」

それは、安室さんが今言えるだけの精一杯。
けれどそれに満足して、オレは小さく口角を上げる。

「ねぇ安室さん。こないだは、安室さんの恋人はミナさんの生きるこの国、って言ってたでしょ?」

じゃあ、今は?
わかり切ったことを聞いている自覚はある。でもこの人の口からはっきりと恋人宣言を聞いてみたいという好奇心だ。店内にオレと安室さんしかいない今しか聞けないだろう。

「僕の、恋人は」

安室さんが言いかけた時、ポアロのドアベルが涼やかな音を鳴らした。安室さんと一緒に視線を入口に向ける。
噂をすれば何とやら、とはこのことだ。思わず苦笑する。安室さんはカウンターから出て入口まで彼女を出迎えに行く。

「こんにちは、透さん」
「いらっしゃいませ、ミナさん。いつもので良いですか?」
「はい、カフェラテをお願いします」

傍から聞いていると店員と常連客のやり取り。けれど二人の表情は全く別物である。
…安室さんに恋人宣言をさせるまでもない。見ればわかる。頬杖をつきながら二人のやり取りを見つめて、オレは小さく息を吐いた。

「あれ、コナンくんもいる」
「こんにちは、ミナさん」
「こんにちは。せっかくだから隣お邪魔してもいい?」
「もちろん!」

へらりと笑いながら首を傾げる彼女に大きく頷き返す。
彼女を見つめる安室さんは柔らかく微笑んでいて、そんな安室さんを見つめるミナさんの表情も幸せそうだ。
安室さんにこんな表情をさせられるのはミナさんだけなんだろうな。そんなことを思いながら、オレはいつかの未来に思いを馳せた。


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