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透さんが帰ってこない。…と言っても、時刻はまだ夜の九時前だ。
今日は自ら洗車を行なった後探偵の仕事が入っているけどいつも通りの時間には戻れると思う、と言っていたんだけどな。メールをしたのだがそれに返信も来ていない。
「僕が帰ったら一緒に夕飯を作りましょう」と言っていたから夕食の準備も何も出来ていない(下手に台所を触れない)し、ひとまずお米だけは炊いたのだが。炊飯器が炊き上がりのアラームを鳴らすのを見て小さく息を吐いた。

透さんの車。多分だけどこないだの一件であちこち壊れたんじゃないかなぁ、なんて思っている。修理に出していたんだと思う。しばらく透さんが車を運転する姿を見ていなかったし、塗装がピカピカになっていたから少し気になっていたのだ。どの程度壊れたのかまでは私にはわからなかったけど、…新車同様と言っても過言ではないほど綺麗になっていた…ような気がするから、一度結構ボロボロになったのではないかと睨んでいる。
透さんが車を大事にしていたのは知っていたし、自ら洗車するのも楽しみにしていたみたい。修理から戻ってきた(らしき)あのスポーツカーには、まだ私は乗っていないんだけど。

「お仕事、時間かかってるのかな…」

私の手のひらの火傷はほとんど治ったのだが、それに引き換え透さんの肩の怪我はまだ治っていない。ようやく皮膚がくっついたくらい。激しく動かせば血も滲むし、包帯は清潔にしなければいけないから毎日巻き直している。消毒液を使うことも未だにある。
ゴールデンウィークが終わってすぐにポアロに復帰して、徐々に探偵のお仕事も増やして、怪我が治っていないにも関わらず透さんの生活はすっかり以前と同じである。スーツを着て出ていくことが多いから探偵のお仕事や…もしかしたら警察のお仕事の方が忙しいんだろう。心配しないわけがない。
早く帰ってこないかな。心配してるのはもちろんだけど、早く会いたいなんて考えてしまって慌てて首を振る。
浮かれすぎ注意。
顔の火照りを冷まそうと手で顔を仰いでいたら、がちゃんとドアが音を立てて振り向いた。

「ただいま」
「透さん、お帰りなさい」

透さんが帰ってきたのを見てきゅんと胸が疼く。浮かれすぎ注意!と再度頭の中で自分を叱咤すると、私はハンガーを手に彼に歩み寄った。そんな私を見て、透さんはスーツの上着を脱いで手渡してくれる。

「すみません、遅くなりました」
「お疲れ様です。お仕事大丈夫なんですか?」
「ああ、遅くなったのは仕事が原因じゃないんです」

え?仕事が忙しくて遅くなったものだと思っていたけど、透さんは苦笑しながら軽く肩を竦める。

「いたずらっ子に懐かれてしまいまして」
「いたずらっ子」
「洗車したばかりの車に足跡を」
「足跡…?」

洗車したばかりの車に足跡をつけられるってどんな状況だ、と首を傾げていると、苦笑したままネクタイを外した透さんがやれやれと息を吐いた。

「白い野良犬です。まだ子犬だと思うんですが」
「白い子犬の野良犬、ですか」

野良犬と言えば。以前透さんに教えてもらった河川敷まで散歩しに行った時、白い子犬の野良犬に会ったのを思い出す。人懐っこくて、汚れてはいたが毛並みは良かった。
都内に、そんなに野良犬っているものなのだろうか…?少なくとも私がこの世界に来てから見た野良犬は、その白い子犬一匹だけだ。野良犬と言うよりも迷子の子犬というイメージだったけど。

「以前、透さんに教えてもらった河川敷に行った時も白い子犬の野良犬を見かけたんです。このくらいの大きさで、尻尾がもふもふしてました」
「…あそこの河川敷で、ですか。もしかしたら同じ犬かもしれませんね」

同じ犬。もしそうだとしたら、あの時の子犬は野垂れ死にをしたりはしていないのかな。野生の世界は厳しいだろう。あの子がまだ無事でいてくれればいいのだけど…あわよくば、良い飼い主でも見つかれば最高だ。
透さんは少し考え込んでいたが、すぐに顔を上げて私をじっと見つめると小さく微笑みながら私の頭を撫でる。
…透さんと、その、恋人…という関係になって、変わったことが三つあるのだけど、まずそのうちの一つ目。透さんは、私によく触れるようになった。今みたいに頭を撫でたり、肩を抱かれたり、そっと手を握られたり。それは大体不意のことなので私は心の準備も出来ておらず、つい顔を赤くしてしまったり変な声を出してしまうのだけど…透さんはそれにさえ嬉しそうな顔をする。目を柔らかく細めて、頬を緩めて小さく微笑むのである。私が大好きな透さんの笑顔だ。

「待たせてしまってすみませんでした。お腹空いたでしょう」
「だ、大丈夫です。あっ、ご飯は炊いておきました!」
「ありがとうございます。それじゃ、何かおかずを作りましょう。着替えてくるので少し待っていてください」

透さんは私の頭から手を離すと、そのまま私が持っていたスーツのかかったハンガーを取った。着替える為に和室の方に向かう透さんの背中を見送る。
…この世界に来て、透さんと一緒に暮らす生活も決して短くはなくなった。だと言うのに、透さんと恋人になってから一緒にいると胸はドキドキするしそわそわするし、傍にいられることが嬉しくて触れてもらえると嬉しくて、触れられることが嬉しくて。慣れたと思った同居生活だったのに、今また振り出しに戻ったようなドキドキする毎日である。
考えれば考えるほど恥ずかしくなって、私はその場に佇んだまま両手で顔を覆った。

「お待たせしました。…ミナさん?」
「…いえ、なんでも…」

なんでもないから私の心臓と顔の火照りが落ち着くまでちょっと時間が欲しい。
いつまでもこんなことではいけない。早く、透さんと恋人という距離感にも慣れて平常通りに戻らなければ。こんなことでは私の心臓がもちそうにない。

「ミナさん」
「う、はい…」

透さんが目の前に立った気配がして、指の間からそっと透さんを見上げた。…透さんが柔らかく微笑んでいる。
…かっこいいなぁ、好きだなぁ。きゅう、と胸が甘い痛みに疼いて小さく息を呑む。

「キス、しましょうか」
「ひぇっ」

爆弾を落とすのをやめてほしい!
ぼん、と顔が赤くなったのを自覚しながら思わず小さく後退りした。私が後退りした分だけ、透さんが距離を詰めてくる。ちょっと待って怖い。さりげなく腰に透さんの腕が回されて、逃げ場さえなくなる。

「ど、どっ…ど、どうして」
「ミナさん、まだ僕との距離感を掴めていないようなので。少しずつ慣れていただきたいと思いまして」

慣れ……てませんけれども。でもそういうのっていわゆる荒療治というやつに当てはまるのではないだろうか。
透さんと、…キス、をしたのは、私がみっともない告白をしたあの時が最後だ。あれ以来触れ合うことはあってもキスも、も、もちろんそれ以上のこともしていない。
それは、私の心の準備が出来ていないというか。怖いとか嫌だとかそういうのでは全くなくて、どちらかと言うと自分を隠すことなく見せる自信が無い、というのが強い。
多分そういう私に透さんも気づいていて、だからこそ急かすことなくゆっくりと距離感を教えてくれているというのはあるんだと思うけど。
いきなりキスですか。夕食の準備をしなくてはならないのに。なんて現実逃避が脳内で始まる。

「ゆっ、夕食を先にしませんか…!…その、…そういうことは、後ででも…」
「駄目です」

きっぱりと言われて私は声にならない悲鳴を上げた。
え、駄目ですか。…それはどうして、と純粋に疑問になりながら首を傾げていれば、透さんは少し困ったように視線を泳がせる。
それから片手で口元を覆い、ゆっくりと溜息を吐く。その頬が、心做しかほんの少しだけ赤くなっているような。

「…それでは僕が堪えられる自信が無い」
「え、」

ぶわわ、と耳まで熱くなる。
それって、と考える前に透さんの手が伸びて私の手首にそっと触れる。そうして顔からゆっくりと離されて、正面からじっと見つめられた。
息が止まってしまう。

「透さ、」
「もう黙って」

囁くように言われて言葉を飲み込む。
ゆっくりと透さんの顔が近付いてくるのを見て、観念して目を閉じた。
触れられるのが嫌なわけじゃない。むしろそれは私にとっても嬉しいことで、幸せなことだ。強ばっていた体から少しずつ力を抜けば、腰に回された透さんの手に力がこもって抱き寄せられる。
柔らかく口付けられて、ぴくりと体が震えた。

「ん、」

最初は優しく啄まれるだけ。慣れないキスにどうしたら良いか分からずに固まっている私を宥めるように、透さんの唇がやわやわと私のそれに触れる。やがて唇を舌で辿られ、あ、と思った時には舌先が口内へと滑り込んでいた。

「ふ、ぁっ、」

透さんの舌が私の歯列をなぞり、口蓋を辿って奥で縮こまっていた私の舌を絡め取る。小さな水音を立てながら舌同士が擦れ合って背中がぞくりと震えた。
舌を絡めてはいるものの激しくはない、優しくて甘いキス。緩やかに味わうようなそれに酔いしれながら、気付けば私も応えるように夢中になって舌を動かしていた。
…これは、ハマってしまうかもしれない。そもそもキスがこんなに気持ちがいいものだなんて知らなかったし、キスだけでこんなに幸せになれるなんて知りようもなかった。
好きな人とのキスって、こんなにも満たされるものなんだ。

「は、…」

零れそうになった唾液をちゅっと吸われて、ゆっくりと唇が離れていく。当然ながら透さんの顔を正面から見るだなんて出来るはずもなく、かといって彼の腕の中から抜け出すなんてことも出来ず、私はただ目の前の彼の肩口に額を押し付けた。
すかさず頭をよしよしと撫でられて、恥ずかしくてたまらないのに嬉しく思ってしまう自分が情けない。

「好きですよ、ミナさん」

胸がドキドキして、このまま死んでしまうのではないかなんて思う。
透さんと恋人という関係になって変わったことの二つ目。透さんが、ふとした時に好きだという言葉を惜しみなく言ってくれるようになった。恋人になったのだから別に変なことではないのだけど、透さんに好きだと言われる度に溶けてしまいそうになる。
上手く言葉が返せなくて透さんの肩に額を押し付けたまま少しだけ頭を動かしたのだけど、逆に甘えたみたいになってしまってますます恥ずかしくなる。

「……私の方が、好きですもん…」

好きという感情に殺されてしまう日が来るかもしれない。でもそれは幸せなことなんだろうな、と思う。
こんな至近距離では、私の小さな呟きも透さんにはばっちり聞こえていたんだろう。ゆっくりと体を離した透さんが、私の額にそっと口付けてからにこりと笑った。

「夕食にしましょうか。お味噌汁と野菜炒めとかどうです?」
「…美味しそうです」

こんな時間だし、手早く作れるものが良いんだろう。透さんのレシピならどんなものでも美味しいから、文句なんて出ようはずもないのだが。
透さんの左肩はもう問題ないと言うけど、それでもお手伝い出来ることはなんでもさせて欲しい。透さんの左手の代わりを担って料理を一緒にするようになってから、なんとなく夕食だけは一緒に作るのが習慣になってしまった。透さんと一緒に料理をする時間は私にとってとても大事な時間だ。楽しいし、嬉しいし…幸せだから。
まだ私一人で美味しい料理を作ることは出来ないけど、そのうち出来るようになって…食べてもらえる日が来るといいな。
透さんと一緒に台所に立って調理の準備を進めながら、そんなことを考えた。

…そういえば、透さんと恋人という関係になって変わったことの三つ目だが。私の知らない間にほとんど使われなくなっていた敷布団が姿を消していた。
夜寝る時ベッドで一緒に寝るのは変わらないけど…敷布団がなくなったことで、本当に恋人になったんだな、なんて実感してしまった。
そんな、幸せな毎日。



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