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翌朝のことだ。
探偵のお仕事がある為私よりも先に家を出るという透さんを玄関まで見送り、透さんがドアを開けたところで二人して固まってしまった。

「アンッ」

…ドアの前に、ワンちゃん。それも見覚えがある白い子犬だ。私が河川敷で会ったワンちゃんだった。痩せ細ったような様子はないものの、私が見かけた時よりも更に汚れてしまっている。

「この子、河川敷で私が見たのと同じ子です」
「あぁ、やっぱり同じ犬だったんですね。…何やら随分と懐かれてしまったようで」
「何かしたんですか?」
「お腹を空かせていたようだったので、昨日林檎をあげたんです」

それで懐かれてしまったのか。こんな可愛い子だから、何かをあげたくなる気持ちはよくわかる。私もこの子にあった時、あげられそうなものを何も持っていなかったからあげなかっただけだ。持っていたら食べさせていただろう。
透さんは溜息を吐いてその場にしゃがみこむと、駆け寄って尻尾を振ってくる子犬の頭をそっと撫でる。

「…一晩中ここにいたのか」
「こんなところで、一晩中?」

鳴き声なんかはしていなかったと思うから、ここでずっと大人しくしていたのかな。

「残念だけど、君を飼うことはできない…。そもそもここは、ペット禁止…」
「あれ、そうなんですか?」
「え?」

ここ、ペット禁止だったっけ。首を傾げていたら透さんが少し驚いたように私を見上げてくる。あ、この見下ろす角度はなかなか新鮮かもしれない…。
丁度タイミングよくお隣さんの家の人が出てきて、可愛らしいチワワを連れて出かけて行った。それを見送ってから透さんと目を合わせて、一緒に苦笑する。

「……禁止じゃあ、なかったな」
「アンッアン!」

元気よく鳴きながらその子犬が前足を上げる。…本当に透さんに懐いているなぁと思いながらその子を見つめ、不意に気付いた。前足の左側、少し血が滲んでる…怪我をしているようだ。

「透さん、その子怪我してます」
「本当だ。…化膿はしていない…でも念の為洗ってワセリンを塗った方がいいな」
「持ってきますね」

急いで家の中に戻って救急箱を開ける。中に入ってたワセリンを手に取って、そのままお風呂場に向かうと洗面器に水を張る。これで大丈夫かなと思いながら、その二つを手に玄関へと戻った。
透さんは私から洗面器とワセリンを受け取ると、その場で子犬の前足の汚れを丁寧に洗い落とし始めた。子犬も大人しく良い子にしている。

「…良い子ですね。人に慣れてるんでしょうか」
「人馴れしていると言うよりは、警戒心がないというか。あなたにそっくりですよ」
「えぇ…?」

私とこの子犬が似ている?思わず子犬と目を合わせて、一緒に首を傾げてしまった。私は誰にでもついて行ったりしないもん、と思いかけて、この子も透さんだからついて来たのかなと考える。…だとしたら、確かに私とこの子は似ているかもしれない。透さんだと安心して頼っちゃうんだよね。わかる。

「これでよし」
「手当終わりました?」
「えぇ。すみませんが、片付けをお願い出来ますか?」
「もちろんです。時間ですよね、行ってらっしゃい」

透さんは一度子犬の頭を撫でて立ち上がると、私の方を振り向いて小さく笑う。一歩私に歩み寄り、そのまま顔を近付けて私の頬に小さな音を立てながらキスをした。
もう一度言う。キスをした。

「っ?!?!?!」
「ふふ、行ってきます」

満足そうに笑いながら歩いていく透さんの背中をぽかんと見つめていたら、子犬がその後を追って行くのも見える。
透さんの足音が遠ざかってやがて聞こえなくなった頃、私はキスをされた頬を押さえながらそれは深い溜息を吐き出した。
なんだ、今の。立ち上がってから微笑んで私に近寄ってキスをし満足そうに笑って歩いていくまで、全て流れるようだった。なんだったんだ、今の。

「………いってらっしゃいの…キス…」

いってらっしゃいのキスってそんなの。しかも見送る私じゃなくて見送られる透さんからされた。え、私がされてどうするんだ。いやそもそもいってらっしゃいのキスって新婚さんがするものなんじゃないのか。顔が火照って仕方がない。
あんなのずるい。…好きすぎてしんどい。

「…くそぅ……」

呻くように呟いて、ドアの前に残された洗面器に視線を落とし、もう一度深い溜息を吐いた。


***


仕事を終えて帰る時間になると、外は雨が降り出していた。あれ、今日雨の予報だったっけ…しくったな。
お店に置かせてもらっていた置き傘を手にして閉店後の戸締りをする。空を見上げると結構薄暗い。雨自体は強くないけど、ちょっと肌寒いな。透さん、傘を持っていかなかったけど大丈夫だろうか。恐らく車だと思うからそんなびしょ濡れになることはないと思うけど。
ないと思っていたのだが。

「…えっ、何があったんですか」

家に帰って一息ついた頃、いつもよりも随分と早く透さんが帰宅した。しかも一人ではなかったし、傘を持っているのに何故だか服は濡れているしどこかで転んだのか泥で汚れている。これでは体も冷えてしまうし傷に障るだろう。
おかえりなさいよりも先に何があったのかと問うてしまったのは仕方がないと思ってほしい。それに…。

「アンッ」
「どうしてその子がここに」

透さんの腕に抱えられているのは、今朝透さんを追いかけていったあの白い子犬。…おかしいな、今朝きちんと手当をしてあげたはずなのに何故だか怪我が増えているような。
透さんはぽかんとする私に苦笑すると、ドアを閉めて靴を脱ぐ。彼が動いたことでハッと我に返り、私は慌ててバスタオルを取りに走った。透さんも子犬も濡れてるし汚れてるし、二人ともそのままお風呂場に直行していただきたいのだけどひとまずは水気を取るのが先である。

「根負けしました」

透さんの頭にバスタオルをかけて髪を拭いていたら、やれやれと言ったような声で透さんが言った。
根負け。透さんに抱かれた子犬に視線を向ければ、きらきらとつぶらな瞳でこちらを見上げながら「アンッ」と小さく鳴く。

「…もしかして、ずっとついて行っちゃったんですか?」
「ええ。それもその都度怪我をしながらね。見ていられない」

そうは言うものの透さんの表情は穏やかだ。これは一晩だけ様子を見る、といった感じじゃないな。そもそも一晩ここで過ごさせてしまったら、今以上に懐かれてしまうのはわかり切っていることだ。思わず小さな笑みが浮かぶ。
…この子に良い飼い主さんが見つかれば良いと思っていたけど、この子は多分ものすごく良い飼い主さんをゲットしたと思う。透さんが飼い主なら何の心配も要らない。

「ひとまず、二人ともお風呂どうぞ」
「すみません、そうさせてもらいます」

子犬を抱えたまま浴室の方へ向かう透さんを見送る。残された私はと言えば…残念ながら出来ることはほとんどない。
…こういう時料理が出来たら作っていてあげられるんだけどなぁと思うと、やっぱりどうしても料理スキルへの憧れが募る。作ったところで食べてもらえるかどうかはわからないが。ご飯だけでも炊いておこうと考えて、私は台所に立った。



さて。お風呂から上がってさっぱりとした透さんと子犬くんである。子犬くんは綺麗に体を洗って見違えるような白さだ。和室で透さんの左腕の包帯を巻き直す間、バスタオルの上にいるように告げたらちゃんといい子でそこに座っている。…言葉わかるのかな。

「なんかこの子、賢いですよね」
「ええ。芸の仕込みがいがありそうです」

透さんが仕込むんなら…なんかすごい天才犬にでもなってしまう気がする。おすわり、お手おかわり、伏せくらいはあっという間なんだろうな。ちょっと楽しみである。
何度も透さんの包帯を巻くのを手伝っていたからか、私の手付きも大分慣れたものだ。きつ過ぎず緩過ぎず、ちょうど良い加減で巻き直すと包帯の端っこをテープで止めて固定した。

「はい、出来ました。動かしにくいとか緩いとかないですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

透さんは軽く左腕を動かして頷くと、さりげなく私の頭をぽんと軽く撫でる。ドキッとするからやめて欲しい…やめて欲しくはない。

「ミナさんにちょっとお願いがあるんですが、今日の夕食は僕が請け負いますからこの子を乾かしてやってくれませんか?」
「わかりました。…腕、大丈夫ですか?」

何があったのかは知らないが、多分だけどちょっと激しく動いたんだろうな。傷が開いて血が滲んでいたから、痛くないはずはないと思うんだがお手伝いしなくても大丈夫だろうか。

「問題ありませんよ。それじゃ、ちょっとお願いしますね」
「はい。あ、ご飯は炊いてあります!」
「ありがとうございます」

台所へと向かう透さんを見送ってから、私はドライヤーの電源プラグをコンセントへと差した。それから自分の膝の上にタオルを広げ、そこをポンポンと叩いて子犬を呼ぶ。

「さ、おいで。乾かしてあげる」
「アンッ」

子犬くんは元気よく返事をすると私の膝の上に乗って大人しくしている。…本当にいい子だな。ドライヤーの電源をつけて毛を乾かし始めても騒いだりしない。
丁寧にシャンプーしてもらったんだろう。毛並みは滑らかで、指通りも良い。

「君、本当はこんなに白い子だったんだねぇ」

真っ白。乾かしていくうちにわかったのだが、充分モフモフだと思っていたこの子の尻尾はもっとモフモフだった。これから栄養のあるドッグフードなんか食べ始めたら、この毛並みももっとつやつやになるかも。
優しく撫でながらドライヤーをしてあげれば、気持ちよさそうに目を細めていた子犬くんは私の膝の上で丸まってしまった。小さな体はぽかぽか温かくて心地よい。…なんだか私まで眠くなってしまいそうだ。
丁寧に乾かし終わってドライヤーの電源を切る。…子犬くんは…ぐっすり眠っていて起きる気配もない。

「子犬くん、終わったよ」

声をかけながら頭を撫でてやるも、脱力した体をが軽く揺れるだけで反応も示さない。…可愛いなぁ。
触れた毛並みが気持ちよくて、そのまま首の後ろから背中にかけてをゆるゆると撫でる。

「君の名前も、決めなきゃね」

いつまでも子犬くんなんて呼ぶわけにはいかない。どんな名前がいいのかな。きっと透さんがいい名前をくれるだろう。

「ミナさん、夕食にしましょう」
「あ、はい」

和室をひょいと覗いた透さんに返事を返すが、彼は私の膝の上を見つめてぱちぱちと目を瞬かせた。それから私の傍に歩み寄って、眠っている子犬くんを覗き込む。

「…寝ちゃったんですね」
「ドライヤーが気持ち良かったみたいで…ぐっすりです」

撫でても起きる様子はないし。これなら抱え上げて別のところに寝かせてやっても大丈夫かな、と考えて私が抱き上げようとすると、透さんがそれを止めた。どうしたんだろうと首を傾げれば、彼は立てた人差し指を口元に寄せて小さく微笑む。

「…起こすのも可哀想ですし、そのままで。足の痺れは大丈夫ですか?」
「それは大丈夫ですけど…」
「夕食をこちらに運びます。ミナさんはそのまま待っていてください」

透さんはそう言って、和室のローテーブルを私の目の前に置いてくれる。そうして、今日の夕食を和室まで運んでくれたのである。
子犬くんが結局目を覚まさないまま、その日は透さんと一緒に和室での食事をした。視界が違うと少し新鮮だ。
ローテーブルでの食事は、どことなく私の世界で生活していた時のことを思い出す。
それをほんの少しだけ、懐かしく思った。


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