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『ミナさん、飛行船とか興味なぁい?!』
「飛行船?」

子犬くんがお家にやって来た翌日。透さんは午前中だけポアロのお仕事で、私は一日お休みだ。
午後から子犬くんの予防接種に行くとかでお昼過ぎに一度家に帰ってきた透さんは、そのまま子犬くんを連れて再び出ていった。これから注射をされるとは思いもしないのだろう、子犬くんはきょとんとしたまま透さんの腕の中で大人しくしていたけど…大丈夫かな。
午前中に家事を終えた私はと言えば、お昼休み中の園子ちゃんと通話中である。傍には蘭ちゃんもいるらしく、時折彼女の声も聞こえてくる。

「飛行船ってあれだよね、横長の風船みたいな乗り物」
『風船みたいって、ミナさん…』

だってそうとしか表現出来ないというか、それくらい私には馴染みのない乗り物だ。荷物配達をする魔女のお話で出てきたなぁくらいのイメージしかない。物語の最後で事故に遭って、確か垂直に近くなったり建物にぶつかったりと大変なことになっていたような気がする。私の飛行船の知識といえばその程度のものである。

「それで、飛行船がどうかしたの?」
『次郎吉おじさまがね、怪盗キッドに挑戦状を叩きつけたの!』
「…んん?」

おかしいな、私今飛行船の話をしていたはずなんだけどどうして怪盗キッドの話になるのか。首を傾げている私を他所に園子ちゃんの話は続く。

『鈴木財閥が建造した世界最大級の飛行船、ベル・ツリーT世号に収めたビッグジュエル、「レディー・スカイ」を盗んでみろ、ってね。まだキッド様からの返事はないんだけど、ベル・ツリーT世号は来週の日曜、東京から大阪まで飛行するわ』
「…はぁ……すごいなぁ鈴木財閥…」

鈴木財閥が建造した世界最大級の飛行船、なんていとも簡単に言ってるけど、飛行船がそんな簡単に建造できるようなものでは無いことくらいは私にもわかる。一体何億くらいかかるんだろう…。
鈴木次郎吉さんって、確か鈴木財閥の相談役だっけ。キッドとの対決に執念を燃やしているとか…なんとか。もしかしてその飛行船もキッドとの対決のために建造したのかなぁ、なんて考えて、さすがにそんなことはないかと首を振る。…多分。

『でね、でねっ!ミナさん、来週の日曜日空いてない?招待させてよ』
「えっ?…招待って、飛行船に乗せてくれるの?」
『うん!蘭や小五郎おじさま、それから阿笠博士やガキンチョ達もいるのよ』
「わぁ、皆勢揃いだね。楽しそうだなぁ」
『ダーリンも誘ってさぁ、一緒に来なよ!』
「待ってごめん今何かとんでもない単語が聞こえた気がするんだけど」

思わずスマホを取り落としそうになった。

『今更何言ってんのよ。安室さんと付き合ってるんでしょ?』
「一応聞くけどその話はどこから」
『はっきりと安室さんとミナさんが付き合ってるとは聞いてないけど、ポアロでは最近噂になってるわよ。安室さんに彼女が出来たみたいって』

それって一体どういうことだ。透さんはポアロでも女子に人気の店員さんだし、あんまりこういう恋愛沙汰の話は広めない方が良いと思うんだけど、既にポアロで噂になっているという意味がよくわからない。下手すれば私、安室さんのファンの子に刺されるんじゃないだろうか。

『安室さんって、今までファンの子に彼女いるのか聞かれたら「いません」ってはっきり答えてたんだけど、最近は「どうでしょうね」とか「いるように見えますか?」みたいに曖昧な返事になったって。そんなのもう答えは一つじゃない!』
「い、いやぁ…わからないよ?単純に答え方を変えただけかもしれないし…」
『じゃあ単刀直入に聞くわ。安室さんと付き合ってるんでしょ?』

園子ちゃん、あなたのそういうはっきりしたところ、私はとても好きだけど。でもまさかそのズバッとした一撃を自分が受けるとは思ってなかったしなんと答えて良いやら。
スマホを耳に押し当てたまま、私は小さく呻きながらベッドへと倒れ込んだ。…むしろ即座に否定できない時点で肯定しているのと同じである。

『ほぉら〜!白状しちゃいなさいよ!』
「………黙秘権を行使します」
『言質とった!!』
「ねぇ園子ちゃん私今黙秘権って言ったぁ……」
『沈黙は肯定と同義だわ!!』

電話の向こう側では園子ちゃんと蘭ちゃんが盛り上がっている声が聞こえる。花のJKは恋バナには目がないのだ。理解は出来るけど自分がターゲットにされる日が来るだなんて思いもしていなかった。そもそもこの恋が実るとも思っておりませんでしたので。
恥ずかしさにゆっくり息を吐きながら寝返りを打つ。シーツから透さんの匂いがして胸がとくんと跳ねた。

『いいわよ、ミナさんがはっきり言わなくても。今度安室さんに直接聞いてやるんだから』
「…園子ちゃん意地悪だ」
『安心してよ、悪いようにはしないって!』
「どういうことなのぉ…」

ダメだ。もう口を開けば情けない声しか出ない。
そんな私を知ってか知らずか、園子ちゃんは楽しそうに笑いながら話題を飛行船へと戻す。

『とにかく!来週の日曜日ね。詳しくはまたメールしておくけど、午後一時出発で大阪には七時に到着予定。ダーリンと空のデートも出来てキッド様にも会えるかもしれないなんてものすっごく魅力的でしょ?』
「…魅力的だけど。でも透さん忙しい人だし、突然言われても日曜日空けられるかはわからないよ?」
『大丈夫大丈夫、安室さんなら来てくれるって』
「…どうかなぁ」

その後すぐに、授業が始まるからといって園子ちゃんは通話を切ってしまった。沈黙したスマホに視線落として、私は深い溜息を吐く。
…飛行船、か。飛行船に乗るチャンスなんて滅多にないし、せっかくの機会だから興味はある。でも透さんは忙しい人だし、そんな簡単にOKをもらえるだろうか。
スマホを枕元に置いて、布団を抱きしめながらうさぎのれいくんを見つめる。怪盗キッドから貰ったぬいぐるみ。夢へのお供を頼むことは今ではほとんど無くなったけど、それでも私の大切なお友達であることは今でも変わりない。手を伸ばして抱き寄せると、れいくんがきょとんとこちらを見つめ返してきているような気がして思わず小さく笑みが零れた。

「…キッドに会えたら」

お礼が言えるかな。うさぎのれいくんに私は確かに救われましたありがとう、って。
そんなことを考えながら、いつしかうとうとと瞼が重くなり、やがてそのまま寝入ってしまったのであった。


***


ごん、と何かがぶつかる音で意識が浮上した。それからすぐに足音と物音。

「言わんこっちゃない…」

透さんの声だ。動物病院から帰ってきたのかな。言わんこっちゃないって、どうしたんだろう。ゆるゆると目を開ければ、倒れかけたギターを支える透さんとその傍にいる子犬くんの姿が見えた。
…今のごんっていう音は、子犬くんがギターにぶつかった音だったらしい。ギターが倒れるくらい勢いよくぶつかるって何があったんだろう。

「…おかえりなさい、」

まだ重たい瞼を擦りながら体を起こせば、子犬くんと透さんが一緒に振り向いた。その様子が何だか面白くて笑みが浮かぶ。

「すみません、起こしてしまいましたか」
「大丈夫です。予防接種、どうでした?」
「何とか無事に終わりましたよ。注射を嫌がって大変でした。消毒液の匂いで注射を覚えてしまったみたいで、腕の包帯を替えようと思って消毒液を取り出したら駆け出してギターに激突したんです」
「慌てんぼだなぁ」

ベッドから降りて畳の上に座ると、子犬くんに手を伸ばしてその頭をよしよしと撫でた。子犬くんはぶつかった痛みよりも、透さんの持つギターに興味があるらしい。クンクンと鼻を鳴らしながら透さんの膝に前足をかけている。
それを見て、透さんは胡座をかいて座り直すとギターを構え、軽く弦を弾きながら音を調律する。

「ギターだよ。キレイな音だろう?友達と一緒に演奏したくて覚えたんだ…」

以前ポアロでエレキギターを演奏してくれた時のことを思い出す。透さんがギターを弾いたのを聴いたのはあれが初めてだったな。ものすごく上手くて、蘭ちゃん達と驚いたのだった。でもこの家にあるアコースティックギターを弾いているのを見るのは初めてだ。思わず両膝を抱えて背筋を伸ばす。
透さんがギターを弾くと、子犬くんが嬉しそうに吠えながらそのままくるくるとその場を駆け回り、尻尾をパタパタと振っている。透さんのギターの音色を聴いていると心地良くて、子犬くんが喜ぶのもよくわかるなぁと思った。

「はは、気に入った?」
「すごくいい音色ですもん。ポアロで演奏してくださった時も思いましたけど、透さんものすごくギターお上手ですよね」

プロみたい、と言えば彼は苦笑して首を振った。

「そんなことはないですよ。僕にギターを教えてくれた友達の方がよっぽど上手かった」
「…すごい人の周りにはすごい人が集まるんだなぁ…」

透さんがプロ並みに上手いのに、それ以上上手いってそれはもうもはやプロなのでは。類は友を呼ぶというか、人脈までがすごい。透さんがギターを一緒に演奏したいと思うようなお友達ってどんな人なんだろう。

「五弦の三フレット…五フレット、四弦の二フレット…。じゃあ、僕が初めて覚えた曲を」

ポロン、とギターの弦が鳴る。

「ト長調…『故郷』」

それは私もよく知る名曲だった。小学生の頃に音楽の授業でやったのを覚えている。
世界が違っても、共通しているものもある。それは理解していたけど、こうして共通のものをまた新しく知るのは久々だった気がする。シャーロック・ホームズシリーズで知られるコナン・ドイルのような著名人、名前は違えど同じ見た目の東都タワー。そして音楽も、世界を越えていた。なんだか感慨深いな。
透さんの歌声は柔らかくて伸びやかで、しっとりとしていて。ずっと聴いていたいなぁなんて思う。故郷ってこんなに胸に響く曲だったっけ。
子犬くんは透さんの歌声に合わせて嬉しそうに鳴いていて、そんな光景を見ていると微笑ましい気持ちになる。
…ああ、幸せだなぁなんて感じて。透さんの右肩に、そっと頭を乗せた。

「夢は今も めぐ りて」
「忘れ難き ふるさと」

世界を越えても、私の故郷が祖父母と過ごした世界であることに変わりはない。似て非なるあの世界での日々を思い出して、私も透さんのギターに声を乗せる。

「如何にいます 父母」
「恙無しや 友がき」

友人達との交流はほとんど無くなってはいたが、それでももう会えないんだと思うと胸が痛んだ。仕事が忙しくなって友達の誘いを何度も断るうち、少しずつ疎遠になっていったけど…それでも楽しかった思い出が無いわけではない。どんなに仕事が忙しくても、もしかしたら時間は作るものだったのかもしれない。

「雨に風に つけ ても」
「思いいづる ふるさと」

今更だ。今更考えたところでどうにもならないことだ。それでも、頭には私の故郷で生きる友人達の顔が浮かんでいた。
皆…今も、元気に過ごしているのだろうか。
空も地も繋がらない、遠い世界で。

「こころざしを 果たして」
「いつの日にか、」

声が震えて、きゅう、と喉が詰まった。
この世界に残ることも、この世界で生きることも、決めたのは私自身だ。それに悔いはないし、今の生活に不満がないどころか幸せすぎるくらいで、選択を間違えただなんてほんの少しも思いはしない。
けれど、「いつの日にか帰る」ことは、私には出来ない。
今はこの世界が私の世界。それでも生まれ育った世界は、大切な祖父母の眠る世界だ。私に優しさを、思いやりを、あたたかさを教えてくれた世界だった。
今の私を形作ったのは、あの世界だった。

「いつの日にか 帰らん」

いつしか止まってしまっていた透さんのギターが、再びあたたかい音を奏で始める。

「山は青き ふるさと 水は清き ふるさと」

視界がゆらりと歪んで、目を閉じれば涙が頬を伝った。
透さんと出会ってから、私は随分と涙脆くなってしまったと思う。それも決まって透さんの目の前でだ。泣き顔なんて見せたくないのに、熱いものが込み上げてたまらない。

「忘れ難き ふるさと」

あの世界に戻れなくても、私の今の居場所はこの世界だとしても。故郷のことは、決して忘れることなど出来ない。
そっとギターを置いた透さんが、私の肩を抱き寄せてくれる。その優しい手に甘えて、私は彼の首元に顔を埋めた。
何も言わなくてもこの人は全てわかってくれている。私がこの世界を選んだことを後悔をしていないことも、その上でかつての世界を思い涙を零してしまったことも。


***


「この子が、特定の音階で鳴いていたのに気付きました?」

日も暮れて、部屋がオレンジ色に染まる頃。私の涙も落ち着いて、透さんの手に背中を撫でられるのを心地良く感じていたらそんなことを尋ねられた。
透さんの視線を追えば、畳の上で小さな寝息を立てる子犬くんがいる。

「…特定の音階…?」
「ええ。お気に入りの音は、ドとシの並び」

故郷のメロディーを思い返しながら、確かに特定の箇所で声を上げていたなと目を瞬かせる。

「安室ドシさん≠ヌうぞ!」
「…なんですか?それ」
「今日動物病院で問診票の記入をした時、この子の名前を決めていなかったなと思いまして」
「…安室ドシはさすがにあんまりですよ」
「はは、僕もそう思います」

透さんと一緒に肩を揺らしながら笑う。

「英語でドレミはCDEFGABC…でしたっけ」
「よくご存知ですね。…安室CB?」
「ドシよりもひどいです」

すやすやと眠るこの子に、どんな名前をあげられるだろう。素敵な飼い主に拾われた子なんだから、素敵な名前を付けてあげたい。

「日本の音名ではハニホヘトイロハ…」
「ド≠ヘハで…シ≠ヘロ…」

ぱっと顔を上げれば、透さんもこちらに視線を向けていた。目が合うと、彼は柔らかく笑う。

「この子の名前、決まりですね」
「…安室ハロ」

良い名前だ。透さんと二人で笑い合う。新しい同居人、いや、同居犬だろうか。きっとこの子犬くんも…ハロも、名前を気に入ってくれるはずだ。

透さんとこんな穏やかな話題で笑い合えることが、やはり私には何物にも変え難い幸せだ。
故郷を懐かしく思う。故郷での日々を忘れ難く思う。私はこれから先もあの世界のことを忘れないし、祖父母のこと幾度も思い出すだろう。
その記憶は、私の大切な大切な宝物だ。


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